::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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 “カメラを止めるな!”






カメラを止めるな! One Cut of the Dead
 監督 : 上田慎一郎
 2017





 低予算インディーズ映画。ネタバレ厳禁的なタイプ。
 とはいえ、オフィシャルサイトやポスターの最低断片情報だけでも何となく予想ついてしまうかもしれない。
 要するに「二回目」があって、そっちが本編だ、というところがポイント。見る前にこの程度は知ってていいと思う。
 あと、「ワンカット撮影」ってのも重要。(これはまあタイトルに示されている)
 もうひとつ最重要の要素があるけど、それ言うと完全に仕掛けがわかってしまう。(予告編ではかなり決定的な部分まで言ってしまってる)



[以下ネタバレ含む]

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 クレア・ビショップ “人工地獄 現代アートと観客の政治学”



“Artificial Hells”
 2012
 Claire Bishop
 ISBN:4845915758



人工地獄 現代アートと観客の政治学

人工地獄 現代アートと観客の政治学






 参加型アートの歴史を記述し、さまざまな「参加」のあり方を見ながら芸術と社会の関係を考察したもの。
 タイトルの「人工地獄」とは、1921年の「ダダの季節」に対するアンドレブルトンの事後分析で用いられた語から取られている。ブルトンはダダの季節を失敗だと総括しているのだが、それは、行為主体と鑑賞者のあたらしい関係を打ち立てようと始められたダダに対し、鑑賞者が次第にダダの挑発行為を期待するようになっていったためだと書かれている。ビショップの本書においては、同様に、参加型アートでのアーティストと参加者の一筋縄ではいかない摩擦的な関係が描かれていく。

 全体は三部構成。理論面が第一章に整理され、それ以降は参加型アートの歴史的事例を追う。


    • 1. 理論的導入部 参加型アートのキー概念(第1章)
    • 2. 歴史的なケース・スタディ(第2章〜第6章)
    • 3. 1989年以後の時代 参加型アートの同時代的な動向(第7章〜第9章)
          • 共産主義社会崩壊後のヨーロッパ
          • 「委任された」パフォーマンスと教育的なプロジェクト


 参加型アートをめぐる言説では、往々にして芸術性よりも協働性やコラボレーションが無垢に称揚されることがある。
 これらの背後には、スペクタクル化した資本主義社会の抑圧からの人間性回復、あるいは新自由主義的秩序への批判といった考え方があり、要するに芸術的な試行を通じて社会的な面での何らかの達成が目指されている。こうした思想を受け、参加型アートの実践では社会的な達成としての「協働」の度合いが計られ、そのプロセスもまた成果として評価されることになる。
 だが得てしてそのような場合、芸術性や作者性が看過されるという逆説的な面も生まれる。つまり芸術的な達成と社会的な達成は、必ずしも両立できていない。
 このような芸術と社会の関係を捉える上でビショップは、社会に対する芸術の二律背反的な自律性というランシエールの考えに依拠する。そして芸術を「不安」「不快」といったものが力源となる活動であるとして、芸術における「否定」という要素を重視し、参加における合意や協働よりも衝突・軋轢・緊張といった側面、およびそこから参加者や観者に生じる着想や情動に目を向けていく。
 ビショップはランシエールに従い、結局のところ社会的な判断と芸術的な判断の緊張関係は解消できない――というより、むしろ維持するべきだ、と整理している。そもそも「社会」と「芸術」の追求が協調的に達成されるようなものだという見方が誤解なのだと。
 こうした誤解は、参加型アートでの「参加」という概念が、一方では芸術の形式、他方では政治・社会の形式、つまり社会の民主制から共に語れる概念であることから生じている。だが両者における「参加」は同等視できない。ふたつは折り合いのつかない異なるものだと考えることが重要だ。芸術における参加のあり方は、アイデンティティ・ポリティクスから連なる社会的参加・包摂の文脈(「倫理的転回」)とはどうしても齟齬をきたす。アーティストは参加者の創造的な開発=搾取を必要とし、そこでのアーティストと参加者の関係は「協働」や「合意」というより、相互的緊張、乖乱的関係のもとにある。たとえば、搾取自体をテーマとするために他ならぬ搾取をおこなうというように。だがビショップは、そうした関係での参加にこそ芸術が社会へ与える変化の可能性があると見ている。

参加型アートは、特権化された政治的媒体でもなければ、スペクタクル社会に対する都合のよい解決法でもない。参加型アートとは、民主主義そのものと同じように不確かで不安定なものなのだ。参加型アートと民主主義はどちらも、予め道理が与えられているものではない。この二つは、あらゆる具体的な文脈で持続的に実践=上演され、そして試されていかねばならない。


 本書では主としてヨーロッパの事例が中心、東欧と南米は含むが北米はほとんどなくアジアその他は触れられていない。それでもかなりのページ数があり、参照されている時間範囲も広い。メモしておきたい個所もいろいろあるけれど、戦前および戦後のパリでの参加型アートについては特に触れておきたい。

      • 参加型アート前史とも言える戦前の三つの事例、ファシズム台頭下のイタリア未来派ロシア革命後の演劇芸術、そしてパリ・ダダ。これらすべてで、アートにおける「参加」が政治的コミットメントと不可分になったのだが、このうちダダだけが、イデオロギーを動機とする参加に取って代わる注目すべきものを提示した。
      • 1960年代パリの三つのオープン・エンデッドな参加型アート(シチュアシオニスト・インターナショナル、視覚芸術探求グループ、ルベルのハプニング・アート)は、1960年代の最大の社会的・演劇的な抵抗の契機である「五月革命」への道筋を整えた。



「参加」のアイデンティティの変化

      • 1910年代 「群衆」
      • 1920年代 「大衆」
      • 1960年代後半〜70年代 「公衆」
      • 1980年代 「排除された人々」
      • 1990年代 「コミュニティ」
      • 現代 「ボランティア」


「鑑賞者」の変化


 アーティストに対し自らの役割を要求する鑑賞者 → アーティストが創案した新奇な体験への服従を享受する鑑賞者 → 協働して表現を創造することを求められる鑑賞者
 こうした変化を通じて、鑑賞者の能動性と行為主体性が次第に顕在化していく。


プロジェクト


 参加型アートをめぐる重要な概念のひとつに、「プロジェクト」という語がある。
 1990年代以降「プロジェクト」という語は、さまざまな芸術活動を包括する概念となり、起点と終点が定かではなく長期に持続する芸術的営為を表す語として「芸術作品」に取って代わっていく。
 有限の物的対象としての芸術表現から、可変=継続的な特性/ポスト・スタジオ的なもの/リサーチ方式/社会的過程/長い期間をかけて拡張していくもの/柔軟性を形式とするものへと芸術表現が変わり、それらを表すために「プロジェクト」という語が用いられている。


作品例

    • 《オーグリーヴの戦い》 ジェレミー・デラー, 2001, イギリス
       “The Battle Of Orgreave”, Jeremy Deller, 2001, UK
        • 参加型アートの極めつきとなる作品と言われる。イギリスの労使問題の重要な転機である、サッチャー政権と鉱業の衝突を「リエナクトメント」(戦争など歴史上のイベントを再現する活動)で上演した。
           
    • 《バレス裁判》 ダダ(ルイ・アラゴン, アンドレブルトン, トリスタン・ツァラ他), 1921, フランス
       “The trial of Barrès”, Dadaists (Louis Aragon, André Breton, Tristan Tzara etc), 1921, France
        • もともとリベラルだった作家バレスが右翼・国粋主義へ転向したことを裁判形式で裁定したイベント。ダダの方向転換のきっかけとなった。
           
    • 《心理地理学的パリ・ガイド》 ギー・ドゥボール, 1957, フランス
       “Psychogeographic guide of Paris”, Guy Debord, 1957, France
        • 断片的に表現され、意味の掴めない矢印でつながれたパリの街。機能の不明な地図。
           
    • 《ヘリコプター》 オスカル・マソタ, 1966, アルゼンチン
       “The helicopter”, Oscar Masotta, 1966, Argentina
        • ふたつのグループに分かれバスで異なる場所を移動するイベント。映画スターを乗せているというヘリコプターを途中で見た/見なかったという基準で鑑賞者を区分した。
           
    • 《トゥクマン・アルデ展覧会》 1968, アルゼンチン
       “Tucumán Arde”, 1968, Argentina
        • トゥクマン北部で労働者を搾取していた砂糖工場の実態を表現したもの。政治的な展覧会企画の成典のような存在となっている。
           
    • 《見えない演劇》 アウグスト・ボアール, 1970年代, アルゼンチン
       “Invisible theater”, Augusto Boal, 1970s, Argentina
        • 警察当局の摘発を避けようとする公共演劇。自分自身を鑑賞者と思ってさえいないような鑑賞者が演劇に巻き込まれ、労働問題に関する議論が上演される。隠し撮りのドキュメンタリー形式の先駆けと言えるが、ボアールの場合、社会変革をおこなう目的で演劇手法を活用した点に決定的な違いがある。
           
    • 《ユニテ・ダビダシオンでの展覧会プロジェクト》 1993, フランス
       “Project Unité”, 1993, France
        • アーティストと住人全員がパーティに招待されたが、それぞれはグループに閉じこもり、相互の交流は成立しなかった。
           
    • オーストリアを愛してくれ》 クリストフ・シュリンゲンズィーフ, 2000, オーストリア
       “Please Love Austria”, Christoph Schlingensief, 2000, Austria



 イアン・ハッキング “言語はなぜ哲学の問題になるのか”



“Why Does Language Matter to Philosophy?”
 1975
 Ian Hacking
 ISBN:4326152192



言語はなぜ哲学の問題になるのか

言語はなぜ哲学の問題になるのか






 近世以降の言語哲学を整理した本。
 標題の「言語はなぜ哲学の問題なのか」という問いは最後に語られているが、全体的には、言語がこれまでの哲学にとってどのようなかたちで扱われてきたかについての文量の方が多い。
 対象は主に英米哲学、17世紀以降。時代を以下のような三つに区分している。

 
    • AからB・Cへの流れのなかで、精神的言説(観念)から公共的言説への転換が起こっている。
      17世紀イギリスの観念論哲学は、精神的言説を議論の根底に据えていた。現代の我々は、かつての精神的言説を公共的言説によって置きかえた。
    • 「意味の理論」:言語の公共的な側面に関わる。われわれが互いに語り合うことを可能にするような、共有されている何ものかについての理論。





 A. 観念の全盛期
 17世紀 イギリス経験論哲学 … ロック、ホッブス、ミル、バークレー
      • イギリスの経験主義哲学者たちは、公共的な言語に対し精神的な言説(=観念)を優先させた
         
    • 観念とは何か
          • 「観念」とは、自我と世界の媒介となるもの。
            思考する存在が、それ自身の存在以外のいかなるものの存在についてもコミットせずに黙想することのできる対象のすべて。
            • 今のわれわれからすると「観念」とは何でもありの概念であるかのように見える。
          • 観念の理論は言語と結びついている。言葉は観念を表示するからである。
          • 言語の用途のひとつに意思伝達というものがあるとして、精神的言説を持つ私が言語によって会話するということは、他人の内に意図した精神的言説を生み出すこと。
          • しかし、他人の精神をのぞきこむことができないのに、どうして他者が自分と同じ観念を持つに至ったと知ることができるのだろうか。他者の観念と自分の観念が同じであるとはどういうことか。同じとされるのは次のうちのどれなのか。「表示内容」/「指示対象」/「共通の受け取られ方」/「感覚的刺激」
             
    • 経験論哲学と公共的言説
          • 経験論哲学者たちは、今日与えられているような意味での「意味の理論」は持っていなかった。
            • 「意味の理論」:語り合うことを可能にするような、共有されている何ものかに関わる理論
            • 現在のわれわれは、「言語の哲学」を「意味の理論」と等置する。
          • 彼らの研究関心はわれわれと同一の構造を持っていたが、そのなかで現在では公共的なものが割り振られているところが、当時は私的な・精神的なもので説明されていた。「精神的言説」が公共的な意思伝達に先行し、その基礎とされている。

            フレーゲは「共通の受け取られ方」を「意義 Sinn」として、「指示対象 Bedeutung」と区別した。
            この後、言語は本質的に公共的なものと見なされるようになった。現代の我々は精神的言説を公共的言説によって置きかえている。



 B. 意味の全盛期
 19世紀 フレーゲ以降 … ラッセル、ウィトゲンシュタインウィーン学団チョムスキー
      • フレーゲ以降に議論された問題と言語との関係
         
    • 言語の習得
          • 言語は生まれながらに持っている能力なのか、生まれた後に獲得される能力なのか。
            →言語構造は人間の精神の本性に結びついているのか、精神の外の現実世界の本性に結びついているのか。
             前者がチョムスキー。後者はラッセル。
          • ラッセル:表層的な文法的形式の下には、論理的形式がある。(論理的形式によって、偽であるけれど有意味である文というものが明確となる)
            論理的形式という考えには、ある文が真であることの条件に関わる、という問題もあり、これはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』につながる。
          • 意味の全盛期の哲学者のなかでラッセルだけは言語を本来的に公共的だとは考えず、私秘的なものと考えた。
             
    • 一般文法の追求
          • 事物はそれぞれがひとつの全体からなるのに対して、語はそれぞれ分節化されている。抽象観念は分節化できるものなのかどうか。
            一般文法の問題とは、語によって分節化された言語が、いかにして世界のなかの分節化されていない部分の表象を生み出すことができるか、ということを説明すること。
          • 論理哲学論考』:言葉が合致すべき現実とは本質的に物的なものである、と考えるのは誤っている。世界は、事実からできている。(命題1.1)
          • 人々はあらゆる種類の文について、それがいまだかつて誰にも発せられたことがなくても、文法にかなったものであることを認識できる。
          • 文法形式に対立する論理形式というラッセルの考えは、表層文法と深層文法というチョムスキーの考えに相似している。
            (言語の深層文法がどのようなものであるかは、未決着の問題)
             
    • 検証原理の追求
          • ウィーン学団論理実証主義による形而上学批判:形而上学のような問いは、立てることそのものが根本的な誤謬である。

            ここで検証原理の必要性が出てくる。
            有意味性に関する一般的な判定基準を定式化しようとする試み。→しかし結局失敗に終わった。(有意味な言明が実際検証可能であるわけではない)
             
    • 文の使用規則
          • 「私は今夢を見ている」という文が真であることは可能なのかという哲学の古典的問題に対して、検証主義は通用するのか。
            文の使用規則 規準

            この問題は実は一般的な主題を巻き込んでおり、それは科学哲学における今日の根本的問題にも結びついている。
            ;理論の進歩は新しい規準を生み出すことによって意味を変化させるのか。(「夢」という言葉はレムの発見の前と後とで同じ意味を持つと言えるのか。18世紀における「酸」という言葉は、その後の発見と科学理論の進展とを経た現代の「酸」と同じものを意味すると言えるのか)



 C. 文の全盛期
 20世紀以降 … キャンベル、ファイヤーアーベント、タルスキ、クワインデイヴィドソン
      • 存在している事物は、社会の理論や前提といったものにどの程度まで依存しているのかという問題。
        両立不可能な複数の理論があった場合にどう対処するか。
        これを考えることはつまり、理論についての理論を考えるということになる。

         
    • タルスキ ——真理の理論
          • タルスキの数理論理学以前には、真理の理論には「真理の対応説」と「整合説」があった。これらはどちらも曖昧。
          • タルスキは真理に厳密性を与えたという点に功績がある。
            [T]:「言語Lの文sはpであるとき、またそのときにかぎって、真である」
             (ex. 「“Snow is white.”という英語の文は、雪が白いとき、またそのときにかぎって、真である」)
          • ある言語Lに含まれる文の数には上限がない。我々の有限な基底が無限個のT文を証明できなくてはならない、ということになる。そうした有限の基底はどのようなものでありうるだろうか。
            無限の文が可能な言語にとっての真理の理論とは何か。
             
    • デイヴィドソン ——言語の真理の理論
          • タルスキは数学や自然科学などの形式化された言語を扱ったが、デイヴィドソン自然言語に対してアプローチした。
            デイヴィドソン自然言語に関する真理の理論では、真理値を持つものは文ではなく個々の発語または発話行為であると考える。あるいは真理というものを、文と話者と時間との間に成立する関係であると考える。
          • 言語の真理の理論
            • 「ドイツ語の文 “Es regnet.” は雨が降っているとき、またそのときにかぎって、真である」
              クワインが「根底的翻訳」と呼ぶ特殊な条件下(互いの知識がゼロの状態から相手を理解しようとするモデル)であると考える場合、ドイツ人がわれわれと同じような信念・考え方等々を持っているという諸々の想定(前提)が必要となる。……「慈善の原理」(ウィルソン)
          • 信念と欲求の問題
            • 翻訳に関するひとつのプラグマティックな制約として、彼らに対して帰する欲求と信念と世界との関係が、われわれのそれと可能なかぎり類似であるべきである、という条件。……「博愛の原理」(グランディー)
          • 翻訳可能性
            • どの言語も、それがそもそも言語であるためには、われわれ自身のものと同一の論理構造を基礎においていなければならない。
              抽象的概念はともかく、もっと一般性の低いレベルにある事柄、日常的な事柄については、きわめて多くの一致があるはずだ。これらについて翻訳可能性が成立するなら、より複雑な文の真理条件を再帰的に生成させる方法を通して翻訳の方法が確立されるだろう。
              われわれはそのとき、真理に関しては強い欲求をつきつけるがしかし意味と呼ばれる特別の存在者の想定を必要としないようなひとつの意味の理論(公共的言説の理論)を手にする。



 言語はなぜ哲学の問題になるのか
      • 観念の全盛期 / 意味の全盛期 / 文の全盛期
         
          • ロックやバークレーの思想の時代と、ファイヤーアーベントやデイヴィドソンの時代は、構造を同じくしながらも内容において異なるふたつのものだ。
          • かつて「観念 idea」が占めていたところは、現在では、「文 sentence」によって取って代わられている。
            今日の哲学では、公共的言説が精神的言説に取って代わっている。あらゆる公共的言説において、その疑うことのできない要素とは文である。
            文はかつての哲学者が観念について語ったことと同様、あまりに単純なので定義不可能なもの。
          • 観念から文への移行は、われわれの反省の様態全体のラディカルな変換である。
             







 Alva Noto “Unieqav” (2018)



UNIEQAV [解説つき/ボーナストラックのダウンロードコードつき]






 2008年の “Unitxt”、2011年の “Univrs” と続いた “UNI-” シリーズの幕を引くアルバム。
 このシリーズは、ビートが強いフロア向けのサウンドを追求したもの。Alva Noto / Carsten Nicolai の音源のなかではもっともアプローチしやすい。聴きやすいサウンドだけど、Alva Noto らしくやはりミニマルではある。緻密で構築的という特徴も保たれている。要素としての音それぞれの感触にも、はっきり Alva Noto の個性が表れている。


 Alva Noto の楽曲で用いられているサウンドは、ノイズやグリッチ、ドローン、ベースライン、シンセ、といったようなことばで記述することができるけれど、ここではもっと簡単に、連続音と短音というふたつで考えてみたい。
 シンセの主旋律やドローンが担っているのは連続音。派手ではないけれど情感を表すメロディをかたちづくる。
 一方、ALva Notoサウンドを決定的に特徴付けるのは短音の方。グリッチやビープといったような、現れるやいなや消えてしまうような瞬間的な音。これらの短音は、単体で取り出すと、機械の発するノイズのようなものにしか聞こえない。ところが同じ音が反復されてリズムのなかに配列されると、楽曲を構成する要素に姿を変える。
 長さのある線と長さを持たない点という区別。
 こうした二種類の区分はどのような音楽からも程度の差はあれ取り出すことはできるだろうけど、Alva Noto の場合、持続しない破砕音の多用、絶えず続いていく微少な短音の反復が非常に目立つ。
 聴く者にとって、そこにはふたつの特徴がある。個々の短音が、瞬く間に過ぎ去る知覚体験であること。捉えようとしたときには消えているそれらは、ただ記憶のなかに刻まれたパターンとして残る。そしてこれらの音が残響を伴わないこと。音像内での定位によって抽象的な広がりは感じさせても、それが置かれた空間の形状を感じさせない。示されるのはただ位置そのものだけ。このこともやはり「パターン」に意識を向けさせることにつながる。仮にこの音楽を視覚化してみるなら、微粒子が秩序立ったパターンの上に散りばめられているような姿として表象されるだろうと思う。

 こういった特徴は “UNI-” シリーズのみに限ったものではなく、“Trans-”シリーズなどではもっと顕著に出ている。
 だが “UNI-” シリーズは、抽象的な点の連なりだけにすべてが尽くされるわけではない。鋭い短音が列する背後では、環境を構成する連続音が機能している。音響的な特質はこれら連続音によって生み出されている。また、残響を引く低音のビートも音像全体の基盤として重要な役割を果たすものだ。微粒子の抽象的パターンはそうした具体的な情景や音像の上に形成され、結果、全体の統合として楽曲ができあがっている。
 短音の秩序ある配列がこうした全体のなかで持つ働きは、定規のような補助線、方眼紙のグリッドラインのようなものと見てもよいのだろうけど、自分としてはむしろ、微細な瞬間への志向、圧縮された時間の局所へ意識を向ける仕掛けだと整理したい。
 “Uni Normal” のような典型的なテクノのフォーマット、“UniEdit” の分断され引き裂かれたようなビート、あるいは “Uni DNA” でのヴォイスが主導するトラック。いずれにおいても微細な音の数々が知覚を研ぎ澄ませて内部に誘い込む構造があり、そのように鋭敏に開かされた知覚で体験される解像度の高い世界がこのアルバムには広がっている。






Alva Noto

Information
  Birth name  Carsten Nicolai
  OriginSaxony, East Germany
  Current Location   Berlin, Germany
  Born1965
 
Links
  Officialhttp://www.alvanoto.com/
    Twitterhttps://twitter.com/alvanoto
  LabelNoton  https://noton.greedbag.com/buy/unieqav/

ASIN:B07BWBDMJB


 谷甲州 “工作艦間宮の戦争”










 航空宇宙軍史シリーズの最新作品。
 『スティクニー備蓄基地』『イカロス軌道』『航空宇宙軍戦略爆撃隊』『亡霊艦隊』『ペルソナの影』『工作艦間宮の戦争』の6作品が収載されている。
 前作『コロンビア・ゼロ』では、外惑星連合軍の奇襲攻撃によって第2次外惑星動乱が始まるまでが語られていた。
 この短編集は開戦後の話となる。劣勢に置かれた航空宇宙軍が反撃に用いた戦略兵器が、全体の主軸を成している。


 ようやく第2次外惑星動乱が始まり、読者としては期待が高まるところ。
 しかしどうも今回のこの本、評判が芳しくない。
 特に、話題になっていたこのレビュー。

 実際に自分の目で確かめる前にネガティヴな意見に引きずられる必要はないのだが、長きに渡る読者としての落胆が率直に綴られているという点で、どうにも軽く流せないレビューだったということ、そして自分としても実は『コロンビア・ゼロ』でかすかに疑問を覚えた個所がいくつかあったこと*1と併せて、不安を持って本編を読むこととなった。
 作品タイトルにも若干の違和感を感じたということにも触れておく。知らずに見かけたら航空宇宙軍史シリーズだと気付かなかったと思う。艦船に和名が付けられているのって、このシリーズでは初めてだという気がする。
 このあたりも、読む前のそこはかとない不安を増やすことにつながっている。





語られ方の変化

 ということで、読み通してみた結果。
 ……たしかに全体的に読みづらいものがあった。
 とはいえ、書かれていることの意味は掴めるし、致命的に論理破綻してるというようなことは感じなかった。(たとえば先述のレビューで例に挙げられている個所も、わかりづらくはあるものの論理的に成り立つ意味は読み取れる*2
 しかし、各話にドラマがなさすぎる。なんというか……オチがない。会話なしでまず背景の説明と状況の説明が延々とあって、最後の方で動きがあったかと思うとそこで唐突に終わる。えっこれでおしまいなの……?という終わりがどの話でも毎度同じ。
 ――いや、これまでの作品も説明文章が主体でドラマ比率が小さい側面はあったのだが、もうちょっとそれなりに起伏があってストーリーラインがあった上で話が閉じられていたと思う。でも……今回の作品では、自然なクロージングという感じはしない……。ドラマがこれから始まるという前にぶつ切りにされているように見えてしまう。
 
 それから、人称の混濁が多くてとてもわかりづらい。
 これはテーマとして意図的におこなわれているところではあるのだろうけど、それにしても。
 自分としては、文章が破綻しているとまでは思わなかったけど、そう断じる人が出てくるのがまったく信じられないとも思わない。
 誰の内面をどの視点から語っているのかが一貫性なく突然変わるところがある。今までのシリーズでは、語りは第三者人称形で基本的に主人公の内面に沿った透明なものだったけれど、本作では視点の唐突な変換が逆に「語りの視点」というものの存在を読み手に意識させる。そしてそれが効果的に作用しているとも言えない。特に『航空宇宙軍戦略爆撃隊』後半部分は語りの混乱が激しく、非常にわかりづらい。
 視点の混濁という手法は『星の墓標』でも用いられていたが、そこでは珍しく一人称の語りが採用されていたこともあって理解しやすかったし、表現手法としても有効に機能していた。しかし今回は、少なからず疑問を感じさせる書き方となっている。
 
 このようにさまざまな個所で躓かされたわけだけど、事前に見た感想による先入観が自分の読みに影響しなかったとは言い切れない。
 でも仮に事前情報を何もなしに読んだとしても、違和感は受けたと思う。その場合おそらくそれを自分の読解力のせいにしていただろうという気はするが……。



物語構造の系譜

 そうしたことすべてを踏まえた上で、これまでの航空宇宙軍史シリーズの読者がそれでもなおこの本を読むべきかどうかというと、やはり読む価値はある。この書では航空宇宙軍の行動原理に関わる重要な議論が展開されているからだ。
 事件・出来事という意味では、それほど大きなことは起こっていない。外宇宙艦隊の艦船を改造した戦略兵器が出てくる程度。戦争の行方を左右しかねないものではあるけれど、作中ではその直接的なインパクト自体には焦点は当たっていない。
 しかしこの戦略兵器「特務艦イカロス42」は、前作『コロンビア・ゼロ』での外惑星連合軍の新型戦闘艦と同様、収載された各短編に共通し背後をつなぎ合わせる接点として意味を持っている。そして、登場人物のなかからもっとも重要な者をひとり挙げるなら、それはイカロス42の艦長である早乙女大尉ということになるだろう。イカロス42による作戦をめぐるこの人物の思考と行動推移、および記憶が攪乱され人格を弄られたという顛末は、物語全体の軸を成す。
 航空宇宙軍史シリーズの魅力は、単に技術的リアリズムと「現場」のドラマという面にとどまらず、航空宇宙軍の根源的ドクトリンとそれへの対抗という基本構図にもあったわけだが、『航空宇宙軍戦略爆撃隊』でのガトー中佐と早乙女大尉の論争はそうした構図の変奏になっている。(ところが前述の通りここは語りが非常にわかりづらいところでもある……。)
 そして彼らの描く戦略に沿って飛ぶイカロス42は、航空宇宙軍側の反撃を担う兵器として各短編の焦点を成し、前作での外惑星連合軍の新型艦が果たした役割へきれいに対置されている。
 
 また、本作品は全体的な違和感にも関わらず、やはり過去の航空宇宙軍史シリーズと同じ特徴を備えているという点は見過ごせないところだ。
 たとえば、閉鎖空間でのモノローグと少人数での切り詰めた会話という特徴。これは6話すべてに共通する。
 リソース不足による諸々の不便という点も、これまで通り作中世界の雰囲気をかたちづくるものとして大きな部分を占めている。老朽化や急拵えの妥協、人材不足。本作では特にこの人材不足という側面が目立って語られている。これは今までのシリーズでも重要な問題のひとつとして扱われており、欠乏しがちな上級士官へのリソース集中が高機能化・長寿命化に結びついていく様子として描かれていた。また長大なタイムスパンでの同一キャラクターの継続というように、物語のあり方にもつなげられている。本作の場合は、もう少し狭い範囲の事柄として描かれ、世代交代とそこに伴われる問題というかたちで表れている。
 このように何かが「限定されている」ということ、とりわけ「閉鎖空間」「少人数」という要素は、宇宙への進出という状況設定から来る必然的な特徴だ。このことが、小説・物語としての本シリーズの特徴を形成している。
 内/外に明確に切り分けられる閉鎖空間で2〜3人の少人数が実務的な会話を交わし、いくつかの異常事態とそれへの対処が描かれる……という共通した物語構造。状況についての登場人物の思考。どのように対応するかという最小限の会話。提案される方策とその吟味、対抗案の表明、選択と実行。
 ――基本的状況設定が小説の展開や文体に直結しているというところにこのシリーズの決定的な特徴があり、それは本作においても変わることなく健在だ。
 
 この状況設定はシリーズ全体の揺るぎようのない前提条件であるから、本作品でも物語構造はやはり同じような形式を見せている。
 ただし本作の各短編は、終わりが唐突だということでこれまで異なる印象を受ける。過去の短編では、語られるべきテーマ、提示されるべき構図といったものがあった上で終わっていた。本作ではそうしたものがほとんどないまま、ひとつかふたつの「進展」「発見」があっただけで終わりを迎えてしまう。
 好意的に見るならば、各短編自体で成り立つのではなく全体を通してテーマや構図が成り立つように書かれているのだ、と受け取ることもできるかもしれないし、実際それこそは早乙女大尉とその戦略に託されている役割なのだとは思うが……どうもその試みが寸分の隙なく成功してるとは感じられなかったというのが正直なところではある。
 ただし、だからといってこの作品が完全に破綻しているとまで言えるかというと、それは言い過ぎだと思う。『工作艦間宮の戦争』は紛れもなく航空宇宙軍史シリーズに連なる作品として成り立っている。これについては自分で読んで確認するしかないだろう。読みづらいのは確かだが、精読の価値がある作品であることは間違いない。







*1:表題作最後でのシュトレム少佐の言動が唐突に感じたこと、『ジュピター・サーカス』での木星の太陽化という記述。ただし『コロンビア・ゼロ』は全体としてはおもしろかったと思っている。

*2:過去の自分に拘るなら昇進はできない / 過去の自分に拘らないなら昇進できる

 Jon Hopkins “Singularity” (2018)



シンギュラリティー






 ビートに伴うノイズの力というものを示したのが、前のアルバム “Immunity” の大きな功績だった。5年ぶりにリリースされたこのアルバム “Singularity” も同じ延長上にある。
 パルス、破砕音、グリッチといったノイズ要素は、それ自体が主役の位置にあるわけではないけれど、情景を構築する上で欠かせない役割を果たしている。ベースドラムの4/4ビートが全体を引っ張っていく一方で、まとわりつくグリッチ・ノイズはリズムを微少に区切り、複雑な細部を生み出している。
 リズムにおける「微少性」のようなものに関連しているという意味ではグルーヴという考え方に通じるものもあるけれど、根本的なところで異なる。溜めが生むオーガニックな揺らぎで一定の拍からの極微のずれを扱うのがグルーヴだとすると、ここでのリズムはあくまでもリジッド。大きな軸ははっきりした4/4ビートだけど、細かく覗き込んでいくとどこまでも分割された断片が現れてくるというようなかたちでの微少性。
 ノイズといっても制御不能の混沌ではない。雑多で偶発的なものを秩序の中に整頓して配列したというような感じがある。局所的にはどこまでもディテールがあって、でも全体は整序されている。
 Jon Hopkins のサウンドを語るとき、メロディとビートの融合とか “blissfulness” といった側面が外せないところだけど、飼い馴らされたノイズとも言うべき細部のテクスチャーも決定的に重要な特徴だと思う。


 前半の4曲は特にフロア志向。このパートの締めくくりとなるような M-4 “Emerald Rush” は10分以上に及ぶもので、“Immunity” での “Open Eye Signal” に匹敵するような昂揚に満ちている。
 後半はピアノ主体でアンビエントに寄った曲が続きながら、M-8でふたたびひとつのクライマックスとなるトラックが現れる。この “Luminous Beings” もやはり12分近くある長い曲。静かに始まりつつも次第に情景を切り替えていき、味わうべき局面が次々に立ち現れて、流れと変化、抑制から盛り上がりへという展開があり――つまりは非常に物語的。
 M-4 や M-8 のような長大な曲を弛まずにまとめ切るには、叙情的・叙景的な「描写」の力とそれらの展開という「構成」の力という両面を特に備えていなければならず、この2曲の完成度からも、前作からさらに一段階の進化を遂げたことが見て取れる。





Jon Hopkins

Information
  Current Location   London, UK
  Born1979
  Years active  2001 -
 
Links
  Officialhttp://www.jonhopkins.co.uk/
    YouTube  https://www.youtube.com/user/JonHopkinsVEVO
    Twitterhttps://twitter.com/Jon_Hopkins_
  LabelDomino  http://www.dominorecordco.com/artists/jon-hopkins/

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 Simian Mobile Disco “Murmurations” (2018)



MURMURATIONS






 James Ford と Jas Shaw によるユニットの5th アルバム。テック・ハウス/エレクトロ・ハウス。
 このアルバムは、ロンドンのヴォーカル・コレクティヴ The Deep Throat Choir の女声コーラスをフィーチャーしているのが特徴。ヴォーカルとシンセが崇高を醸し出す一方、前進するビートとベースが不穏な空気を張り詰めさせている。
 アルバムタイトルの “Murmurations” は、ムクドリの一糸乱れぬ群体飛行を指すことば。小さな個体の集合が捉えがたく形状を変化し続けるという様態は、この音楽を記述する表現として示唆的なものがある。ひとつのテクスチャーをもって激しく渦巻きながら流れる動体。
 バックのコーラスとメインヴォーカル、4/4ビートにその他のリズム細片というように、ここには多段階の “速度” がレイヤー状に重なり合っている。異なる時間感覚が融合した結果としてこの流動体がつくり上げられている感じがある。
 今回の The Deep Throat Choir とのコラボレーションは過去作品とは一線を画していて、これまでの作風からすると少し突然変異とも言えるような結果を生んでいる。果たして今後も同じ路線で続けていけるものかは難しいところかもしれないけれど、少なくともこのアルバムにかぎっては間違いなく成功している。






Simian Mobile Disco

Information
  Current Location   London, UK
  Years active  2003 -
  Current members   James Ford, Jas Shaw
 
Links
  Officialhttp://www.simianmobiledisco.co.uk/
    SoundCloud  https://soundcloud.com/simianmobiledisco
    YouTube  https://www.youtube.com/user/SMDTV
    Twitterhttps://twitter.com/smdisco
  LabelWichita Recordings  https://www.wichita-recordings.com/posts/simian-mobile-disco-announce-new-album-share-video

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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell