“Discours du récit in Figures III”
1972
Gérard Genette
ISBN:4891761504
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文学理論の本。
物語論 Narratology 。
文学・小説・物語を理論的に語るためのツールであり、分析するための方法論。
記号論の流れを汲むテクスト分析の観点から物語を考察し、70年代フランスの構造主義における文学理論方面での実践として重要な一角を占める。
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log を書くことのひとつのメリットは、自分がそのとき何について関心を持っていて、その関心はどのように推移していくのか、ということを確かめられることだというのがだんだんわかってきたが、今までの指向を振り返ってみると、どうも自分は「物語」というものに関心を持っているようだ。そしてさしあたってそれは、物語の個別の内容そのものにではなく、ものごとを構成する形式としての物語についての興味となっている。
しかし物語について問う前に、今ここで「物語」と呼んでいるものが具体的にどのようなものを念頭に置いているのかを考えてみなければ。
まずは小説・文学。そして神話、民話、昔話など。演劇。映画。漫画。さらにはRPG。より広義に拡げるならば、日常会話での何気ないつくり話まで、物語の範疇に含めてもよいかもしれない。
これらに共通するのは、虚構である、ということだろうか。つまり現実/虚構という区別を前提に成立する。(ただしこのように区別を設けることそれ自体は、現実の側にも虚構の側にも回収されない。)
自分の関心は、物語とは何か、という疑問にではなく、このように現実と虚構を区別して物事・出来事を構成する形式、に向けられている。さらにはこの形式をどのように用いることができるか、そしてどのように区別の両側を行き交うことができるのか、というところに。
だから知りたいのは「なぜ」ではなく、「どのようになっているのか」ということだ。
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さて、同じようなことは既に誰かが考察しているはずだが、古代ギリシャや中世の修辞学・詩学などにまで遡るのを省略し、より近辺に目を向けたとき現れるのは、ソシュールを端緒とした記号論〜テクスト論。なかでも“物語の構造分析序説”を著して、そのタイトル通りに構造主義的物語論を開花させたロラン・バルトが、筆頭に挙がるだろう。
しかしこの潮流のなかでもっとも物語論に専心してきたのは、ジュネットだ。そして一見地味に見える“物語のディスクール”こそが、テクスト論の流れで試みられてきた思索を物語論 Narratology として整備し、物語の理論的研究の基盤となっている。
“物語のディスクール”は、マニフェストを掲げる本ではない。物語論、と謳っているけれども、この書を通してひとつの明快なまとめが現れるわけでもない。物語というものを精細に解剖しあらゆる部位を調べ尽くしたものがそのまま曝されているだけ。(1987年の“スイユ”においては同じような試みが、物理的な対象としての書物について向けられている。)
このなかには、物語がどのように語られているのか、ということに関しておよそ人間が見出すことができるだろう事柄が一通り網羅されている。それらは、物語の語り口を分解する作業が進行していくに連れて、膨大な用語群に分岐していく。しかし流れは明瞭であり、整然と体系化されている。
分類することが、単に物事を恣意的な構成要素に解体するだけに陥ってしまう危険性については、作者にも自覚されていて、
“このおびただしい概念と述語が、どんな概念や述語もそうであるように、数年を経ずして古びてしまうことは必定なのであって、しかもそれが古びてゆく速度は、それらの述語や概念がより真剣な検討を受ければ受けるほど──言い換えるなら、実際の使用を通じて論議され、テストされ、手直しされればされるほど──それだけますます速くなるのである。”
“けれども、批評家なら自分の仕事が第二次の作品となることを夢想することもできるだろうが、詩学の研究者の方は、自分があらかじめ作品を奪われた職人として、束の間──あるいはむしろ、束の間のもののために──仕事をしていることを、承知しているのである。”(あとがき)
と述べられている。
精緻に、根気よく分類していくだけの作業のなかからのみ発見されてくるものがある。この書はそうした発見の集積でできていて、何気ない一文・一語が、物語のなかでどれだけ重要な機能を持っているかに気付かされてくれる。(ex. p169 “突然、雲が破れた”) そして物語というものが、シンプルに書かれているようであっても、実は高度なテクニックに満ち溢れた結果としてできているのだ、ということがわかる。
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“物語のディスクール”においてジュネットの視点は、物語の内容そのものではなく、物語の叙述形式、つまり物語がどのように語られているか、というところに向けられている。それも徹底的に。ここでジュネットは、その細密な分解作業をおこなうにあたって、古今東西のあらゆる書物を対象にする代わりに、たったひとつの作品を取り上げて分析対象とした。
それはプルーストの“失われた時を求めて”。
よりにもよって。
ジョイスの“ユリシーズ”と共に、〈読み通すことはまずないだろうけど、でも読んだ方がいいんだろうなー〉というリストのトップを常に占めている小説。知っていることは、とにかく長い、ということ。あとは、舞台はフランスで、マドレーヌ菓子がどうのこうの、ってぐらい。...まあほぼ何も知らないに等しい。
同時期の文学理論の実践例で、同じようにひとつの小説を解析したバルトの“S/Z”(1970)では、分析対象であるバルザックの“サラジーヌ”が巻末にまるごと掲載されている。しかも全段落がナンバリングされ本論と逐次的に対応している親切ぶり。中短編だからできることで、超-長編小説の“失われた時”と比べてもしょうがないけど。
だからジュネットの代表作である“物語のディスクール”にいつも関心はあったのに、分析対象となっている本を未読のまま読んでもいいのか?とか、あるいはその内容についていけるのか?という疑念が常々あって、なかなか近付くことができないでいたけれど、ある程度流し読みしてみた感じと、今後“失われた時”を読む確率は限りなく低いだろうということを踏まえ、読んでもかまわないという結論にようやく達した。
さて、この本では“S/Z”のように“失われた時”をその冒頭から順に解析していくことはしない。まずはジュネットによる概念体系が先にあって、それを順に説明していくにあたってその都度“失われた時”のさまざまな場面が呼び出される。だからこちらとしてはジュネットの物語論だけでなく、“失われた時”についても未知なまま、手探りで進んでいくことになる。
しかし語り口が非常に流暢なので、迷子になってしまうことにはならない。ジュネットの理論体系と同時に“失われた時”についても、徐々にそれがどのような小説であるのかがおぼろげに見えてくる。
次第にわかってくることは、“失われた時を求めて”という小説は、既にしてその題名のなかに自分自身の要約が表されているということ。
ジュネットの物語論を追っていくと、小説というものが「時間」をどのように扱っているか、そしてそれがどれだけ多彩なものか、ということに気付かされる。小説というのは最初のページから順に読み進めていく読み方を強いられるため、堅固に線条的なものであるように見えるが、しかし仮に読む側の時間がそのように流れているといっても、小説の内部での時間も線条的であるとは限らない。むしろ物語内容での時間の流れ方はきわめて動的で、過去には飛ぶし未来を予告するしときには休止、さらには時間軸のどこにあるのか特定することが不可能なものも含め、その流れは自由自在。再生/巻き戻し/早送り/一時停止/コマ送りといった機能をあまねく駆使しながら構成されている。
(続編:『物語の詩学』 http://d.hatena.ne.jp/LJU/20090530/p1)