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 ウェイン・ブース “フィクションの修辞学”





“The Rhetoric of Fiction”
 1961
 Wayne C. Booth
 ISBN:4891762470



フィクションの修辞学 (叢書 記号学的実践)

フィクションの修辞学 (叢書 記号学的実践)





文学理論。
フィクションにおける「技法」の問題を分析し、20世紀以降の物語論に大きな影響を及ぼした。
「内在する作者」という概念、および読者への「意味の伝達」というところがポイント。



以下、ノート画像とかメモとか。


[本書の位置付けについての訳者あとがきでの解説をノートにまとめてみたのが下記。]





※「作者の復権」について注記しておく。
この書の後に、バルトによる有名な論文「作者の死」(1968年)が発表され、作者絶対主義から読者の読みを優位に置くテクスト論の流れを築いたわけだが、ブースによる「内在する作者」という概念も、伝記的対象としての作者に替わる概念的構築物として導入されており、「作者の復権」と言っても現実の作者を教条的に分析したりするような態度とはまったく異なっている。




[以下、メモ。]


序文


第一部 芸術的純粋さとフィクションの修辞学


第一章 語ることと示すこと


p27
フロベール以降:客観的・非個人的・劇的 な語り > 作者やその信頼できる代弁者が直接に姿を表すやり方 という論調
 [〈示すこと showing〉(:芸術的)] > [〈語ること telling〉(:非芸術的)] という区別への単純化

p28
作者が読者をフィクションに没頭させるときにどういうことが起こっているのか

p40
作者という、「選択する存在
ex. ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟」:
 ゾシマ長老のエピソードは物語プロットから独立したものであり、小説内のどこに置かれてもいいはずだが、それが小説内の他でもないその場所に挿入されているということは、作者がそのように選択しているということを意識させざるを得ない。
何を語るかという選択が、作者の存在を読者に示すことになる。(→作者は決して消えてなくなることはできない。)
作者が〈示す〉ものはすべて〈語る〉のに役立つ。示すことと語ることとの間の境界線は、常にある程度恣意的。
p42
作者はある程度まではどんな変装をするか選択することはできるけれども、決して消えることを選ぶことはできない



第二章 一般原則I 「真の小説は写実的であるべきだ」ということについて

p50〜p51
ブースの基本的なスタンス:語ることと示すことという区別は安易
 1960年当時の文学理論の風潮:
  [〈示すこと〉:表現すること。技巧的。劇的で客観的。] > [〈語ること〉:単なる修辞的なもの。非芸術的。主観的。活気のないもの。]

p88
いずれにせよ、作者の声は決して沈黙させられることはない
実際のところ、作者の声はわれわれがフィクションを読む目的の一つである

p94
フィクションの技法:何を完全に劇的に表現し、何を省略し、何を要約し、何を誇張するかを選択する技術



第三章 一般原則II 「すべての作者は客観的であるべきだ」ということについて

p100

ある尺度を否定することは、必然的に別の尺度を暗示することになる。

p101

執筆している時の作者は、理想的で非個人的な「一般性を持つ人間」だけでなく、われわれが他人の作品の中で出会う「内在する作者」とは異なる、内在化された形の「自分自身」をも生み出すのである。

p101

作者がいかに自分を出さないよう努めようとも、読者は必ず、このようにして書いている公の筆記者の像を作り上げるであろう。そしてもちろんその公の筆記者は、あらゆる価値に対して中立であるというわけにはいかないだろう。

p109
作者に対し、登場人物に対する公平な態度という意味での客観性が求められたとしても、実際には登場人物の誰かに焦点を当てているという時点で必ず誰かの味方をしてしまっている。
ある物語を語ることに決めた小説家は、それと同時に別の物語を語ることはできないのである。(→「選択」)

p120
「内在する作者」の感情や判断こそが、優れたフィクションを作り上げている要素である。



第四章 一般原則III 「真の芸術は受容者を無視する」ということについて

p123
作者が作り出すのは自分自身のイメージだけではない。読者をも作り出す。

p126〜p127
アリストテレス以降:修辞的要素は、結局のところ必要悪である
アリストテレス:人目を引くような演出の使用を否定。プロットの方が感情的な効果を受け持つべきだ。
 とはいえアリストテレスは詩の修辞的次元を完全に退けているわけではない;「詩人がおこなうことのひとつは、読者にさまざまな効果を与えること、感情をかきたてること」→この部分についてはブースの考えに近いが、にもかかわらずアリストテレスは、修辞を「嘆かわしいもの」としている。
 模倣された行為(:ミメーシス。詩的なもの。) / 作者による論評(:人目を引く演出。外的なものになるおそれがあるゆえに、詩的ではない。)

p140

しかし、技法や芸術的技巧をどのように定義しようとも、物語を書くという概念そのものが、その内部に暗黙のうちに、作品をできる限り理解し易いものにする表現の技法を見付けるという考え方を含んでいるように思われる。

p141
作家というものは、われわれに語りかけ、読んでもらいたいと思っているはず
最も妥協しない前衛的作家でさえも、読んで欲しくないというふりをそんなに長くはすることはできない (ex.ジョイスでさえも。)
→伝達のための努力



第五章 一般原則IV 感情、信念、読者の客観性

p169
読者は、人間としての登場人物に強い関心を抱いている。つまり、彼らの幸運や不運を気にかける。特定の登場人物への共感。 :感情的な関わり合い emotional involvement
実生活で他人を好きになったり嫌いになったりすることと同じ。だけど一つの大きな違いは、読者は架空の人物から利害を受けることがないので、読者の判断は私情を交えることがなく、ある意味で無責任なものであること。

p171

どんなに「道徳的な」とか「善良な」とかいった言葉を避けようとしても(〜)、われわれは自分が知っている人物を、彼らの知的能力によって判断せざるを得ないのと同じように、道徳的に賞賛すべきであるとか軽蔑すべきであるといった風に判断せざるを得ないのである。

道徳と無縁のように見えるジョイスにおいてでさえも。

p178
信念の役割
 読者が作品を読むときには、信念が必要なのかそうではないのか、という意見の対立
 ↓
 「現実の作者」と「内在する作者」という区別によって、解消される
 現実の作者は小説を読む際にはどうでも存在であるが、「内在する作者」とは、作品を読む際には全面的にその信念に賛同しなければならない人物である。
 読者としての自己も同様。

p179

要するに、作者は自分自身のイメージと、現実のものとは異なる読者のイメージを作り出すのである。作者は第二の自己 [:内在する作者] を作り出すように、みずからの読者をも作り出す。そして最も成功をおさめた読書とは、作者と読者という創造された二つの自己が完全な一致を見せることができるものなのである[一致とは、信念の一致]



第六章 語りの諸類型

p198
劇化された語り手
 最も寡黙な語り手ですら、自分を「私」と呼んだ瞬間に、たちまち劇化される。[cf. 三人称小説に対するジュネットの考え方]
 しかし多くの小説は、その語り手を存分に劇化している。そのような作品では、語り手は内在する作者とは根本的に異なる。
 現代小説で最も重要な語り手(語り手だとは認められていないのだが)は、三人称の〈意識の中心〉であって、彼を通して作家は自己の叙述を濾過する。:〈反映者〉(ジェイムズ)
p206
〈信頼できる語り手〉:語り手がその作品の規範(:内在する作者の規範)を代弁し、それに従って行動する場合。
〈信頼できない語り手〉:そうでない場合

p208
特権
 [観察者]と[語り手=行為者] は、現実的制約の枠内に束縛されているか、それとも現実を超える特権を与えられているか、のどちらかである。
 完全な特権とは、いわゆる全知。
 さまざまな程度があり得るが、最も重要な特権は、他の登場人物の内面の考えを知り得るというものである。そのような特権が語り手に修辞的力を与える。
 個人を出さない語り方をしても、実際には全知から逃れられるわけではない。




第二部 フィクションにおける作者の声


第七章 信頼できる論評の様々な用法

第八章 示すこととしての語り 劇化された語り手―信頼できるものと信頼できないもの

第九章 ジェイン・オースティンの『エマ』における距離の操作


p321

どんな作家でも、今語っても「良さそうな」ことを後になるまで語らずにいるのである。問題は、常に望み通りの効果を挙げるかどうかなのであり、ある一つの効果を選ぶということは常に、他の数多くの効果を排除するということなのである


第三部 非個人的語り


第十章 作者の沈黙の様々な用法


p370
書くということは、少なくともある秩序が他の秩序よりも優れていることを主張することに他ならない。



第十一章 非個人的な語りの大小 その一 距離の混乱

第十二章 非個人的な語りの大小 その二 ヘンリー・ジェイムズと信頼できない語り手


p432
単に反映者であるというだけで読者の信頼を勝ち取ってしまう登場人物



第十三章 非個人的語りの道徳的問題

p460
非個人的な語りは、特に道徳的な問題を引き起こしがち。→ 道徳的問題は技法と関係する
p461
内面描写は、不道徳な人物にさえ共感を生み出し得る

p473

だがフィクションにおいては、うまく書くという考え方には、フィクションの世界についての読者の物の見方を、うまく秩序付けるということが含まれていなければならない。フィクションにおける「良く出来た表現」とは、単に「美しい」だけでは十分ではないのである。

p478
作品そのものがわれわれの判断基準とならなければならない
重要なのは:作品を根本的に理解しやすいものにするために、為すべきあらゆることが為されているかどうか

p483
今必要なことは、読者のために形式と内容の一致を実現する修辞的手段を講じること
小説は、伝達可能なものとして生み出される
読者は作者が創り出す











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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell