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 赤井敏夫 “トールキン神話の世界”






トールキン神話の世界 (神戸学院大学人文学部人間文化研究叢書)

トールキン神話の世界 (神戸学院大学人文学部人間文化研究叢書)






 トールキンの「指輪物語」の神話構造を正面から分析している本。
 この本の作者が言うところによれば、指輪物語は、世界中で広く読まれているにもかかわらず、熱狂的支持者からも伝統的文学批評者からもまともな論考がほとんど出ていないとのこと。
 けれどもこの本は、単なるガイドブック的なマニア本でもなく、トールキンの作品群を読み込まずに表面的な批判をおこなったものでもなく、文学批評の文脈と書誌的分析とを押さえた上でのしっかりした論考になっていると思う。
 とくに、作品世界における「エルフ」と「人間」というふたつの主要種族を比較した部分については、深く考えず読んでいたときの自分の認識を覆すようなもので、とてもおもしろかった。
 触発されていろいろ考えた内容を、ここにまとめておこうと思う。




(以下、長文なので畳む。内容は“トールキン神話の世界”で示されている分析に多く拠っているけれども、必ずしも本全体の主張にすべて従っているわけではないことを念のため注記。)





 指輪物語における二種類の死



 指輪物語は本当に人種差別的なのか?

 「指輪物語」の世界構造に対するよくある批判として、「人種差別的」という言われ方をされることがある。
 たとえば、有名なのは宮崎駿の発言だと思うけど、彼は『指輪物語は白人至上主義でアジア人を蔑視している』と批判している。(2002年10月号『フィギュア王』でのインタビュー via.Wikipedia:宮崎駿
 とくに映画版は小説よりもビジュアルではっきり描写されているから、たしかにこうした構図が隠れているように見えないこともない。とりわけペレンノール野の合戦が象徴的で、モルドール側連合軍をオークとともに構成する「東夷」がいかにも非西洋的なビジュアルで表されていることで、白人と非-白人が善悪の対で描かれているかのようにも思えたりする。
 ところで、『東夷よりも西方諸族の方が優れているかのように描かれている』という見方はまだ断片的なもので、指輪物語の世界でのこの「優劣図式」はもっと拡張することが可能だ。
 つまり、人間の上位にはエルフを位置付けることができるし、下位にはオークを置くことができる。そして人間というカテゴリーの中でも、東夷と西方民族という区分だけではなく、長命の恩寵を与えられたドゥーネダインという民を追加してさらに細分化がおこなえる。
 指輪物語を最初に読むと、どうもこれらの種族・民族は何か明らかな優劣をもって語られているのではないか、と思ってしまう。高等な種族/下等な種族。あるいは、高貴な種族/邪悪な種族、と言うような。
 そのように種族を「優劣」の順に並べてみると、次のようになるのではないだろうか。*1

    エルフ > 人間(ドゥーネダイン)> 人間(それ以外の西方民族)> 人間(東夷)> オーク

 当然のことながら、この構図の最上部と最下部がもっとも大きなコントラストを成している。
 エルフは高貴な種族であり、基本的スペックの高さの他に不死という恩寵を受けており、隠遁してはいるが世界を指導する権能を持っている。一方、オークは下賤で野蛮な種族で、自ら悪を為すとともに、より大きな悪に仕えて世界を混沌に陥れる。そもそもオークはエルフの紛いものとして創造された種族だ。
 人間はこの両極の間に位置し、それぞれの特徴を少しずつ持つ中庸の種族である。ただしそのなかにも優劣があり、エルフの血を有しその特徴を濃く持つ民族(ドゥーネダイン)と、エルフの高貴な血とは無縁の、より下等な民族がいる。
 ……と、いうように、たぶん深く考えずに指輪物語の世界に接すると、多くの人は最初こんなふうな認識を持つのではないかと思う。
 エルフを頂点としオークを最下部に置いて、人間をそれらの中間に位置付けるようなヒエラルキー
 この図式を別の言葉で言い換えれば、「神の恩寵の高い者 > 神を冒涜し、動物と同等の野卑な者」という優劣区分とも言える。
 もし中つ国の歴史やトールキンの残した他の資料を確認せずにこういう図式を受け入れるならば、指輪物語の世界はまるでキリスト教的な価値判断を暗黙になぞっていて、信仰の厚い西洋人種が優位に、野蛮で文化の低い東洋人が下位に置かれ、それぞれを誇張した極端な存在としてエルフとオークが位置付けられている、というように思ってしまうかもしれない。こうした解釈からすれば、たしかに指輪物語は人種差別的にできているようにも見えるだろう。

 でも、本当にそのような優劣がトールキンによって意図されていたのだろうか?

 そもそも、この優劣図式を受け入れるには、エルフと人間の間に明確な優劣があるということが前提となる。つまりエルフはある意味で人間の理想形、いわば完成されたバージョンであり、人間はエルフに比べると不純で卑小なバーションにすぎない、というような図式だ。指輪物語だけを読むと、ふたつの種族にはそうした優劣がはっきり付けられているように見えないこともない。そしてエルフと人間の間に優劣が成り立つならばこそ、ドゥーネダインと東夷の間に優劣が引かれ、さらにその下にオークを最底辺として置くことができる。
 だけど、もしエルフと人間が優劣を持って比較されるような関係にはないとしたらどうだろうか? もしそうなら、上記のように表面的な読みで受け取られがちな解釈は崩れ去るはずだが、だったらそこで替わりに現れてくるのはどのような関係性なのか。そのように「隠されている」ものこそ、作品世界に込められた重要な意味ではないだろうか?
 これを考えるため、まず、エルフがはたして人間よりも高貴で神聖な種族なのかどうかを見ていきたい。



 残虐で強欲なエルフ

 指輪物語三部作に登場するエルフは、エルロンドやガラドリエルのような隠れ住む高貴な存在、あるいはレゴラスのような明白な仲間だけだ。
 そうしたエルフの描写を見ているだけだと、エルフというのは今は衰退に向かっているけれどかつては平和で豊かな国を築いていた人間の保護者のような種族だったのだと思ってしまう。
 けれども、指輪物語よりも前の時代――世界創世に始まり第一紀のモルゴス追放に至るまでを記述している “シルマリルリオン”(ASIN:456602377X)を読み通すと、エルフという種族に対する印象はずいぶん変わってくる。

 シルマリルリオン(“シルマリルの物語”)は、叙事詩的な断片の集合として書かれているけれど、そこにはひとつの大きな軸がある。すなわち、宝玉「シルマリル」とそれをめぐるエルフたちの争いと興亡だ。第三紀の指輪戦争の時代では、物事を動かすのは人間(およびホビット)が中心で、エルフはどちらかというとサポートのような役割しか果たしていないのだが*2シルマリルリオンでは、エルフたちこそが歴史の主人公だ。第一紀では人間は数も少なく、勢力も弱いけれど、エルフはいくつもの異なる王国を築いていて、中つ国での最大勢力を誇っている。

 ところが、彼らが平和で理想的な社会を実現していたかというと、そうでもなかったりする。第一紀の時代にはまだ神々の力がさまざまなかたちで残っていたし、準神格存在とエルフの血が交じり合うことすらあったのだけれども、そのわりにはエルフたちには多くの不幸が降りかかっている。そしてそうした不幸が常に外部(メルコール)からのみもたらされるものだったわけでもない。
 シルマリルリオンで描かれているエルフたちは、宝玉シルマリルへの欲にとらわれ、同族殺し・神々への反逆・裏切りといった多くの罪に彩られる血にまみれた種族だ。良く言えば、破滅的なまでに美しい至宝に呪われてしまった悲劇の種族ともいえるのだが、結果として重ねた罪の数々は、人間の模範たる「長上者」としての資格にはふさわしくない。
 指輪物語でのエルロンドやガラドリエルはたしかに高貴かつ賢明な存在として描かれているけれど、シルマリルリオンを読むと、彼らのそうした性格はどちらかというと過去への反動や反省から来ているということがわかってくる。とくに、指輪物語では超然とした女神のごとく描写されていたガラドリエルは、はるか上古の昔には、神々の意向に逆らった反逆者の一員だった過去があったりもして、彼女の愁いが単に種族的衰退に向けられたものではなく、取り消せない過去への悔悛に成り立つものでもあるだろうことが推測できる。またエルロンドは、エルフの始祖的存在かつ最高の能力者たるフェアノールの血に連なる者たちに翻弄されてきたひとりであり、エルフが無垢な種族ではないことを誰よりも痛感しているはずだ。

 このように読んでいくと、最初に書いたような、エルフが頂点にあってオークを最下点に置く優劣図式が単純に通用するわけではなさそうなことがわかる。エルフは失敗や悪事を決して犯さないような完璧な種族ではないからだ。むしろ第一紀における多くの災厄はエルフによって引き起こされている*3。テレリの虐殺然り、ゴンドリンの陥落然り、ドリアスの滅亡然り。彼らは決して理想の種族ではない。

 そうだとすれば、エルフと人間にはどのような区別が意図されているのだろうか?



 不死なるエルフと、常命なる人間

 ふたつの種族を分かつ最大の差異は、エルフが不死であり、人間は限りある命しか持たない、ということだ。
 正確に言えばエルフは、老化せず、寿命を持たず、病にかかることがなく、基本的には殺害されないかぎり死ぬことがない。
 このことだけでも人間からしてみれば充分うらやましいスペックだろうし、実際、第二紀のヌーメノールの没落はそうした不死への羨望が原因となってもいる。

 そしてエルフの「不死」というのは、単に現世で永遠の命を持っているということにはとどまらない。エルフたちも他者によって殺害されれば死ぬのだが、そうして命を落とした彼らが死後にどうなるのかという点こそが重要だ。
 何らかの原因で死んだエルフは、大海を超えた神々の島アマンにある「マンドスの館」にその魂が運ばれることになる。「大海を超えた」といっても、世界が歪まされて球状になってしまった第三紀では、ふつうに海を進むだけではたどりつけない領域であって、事実上「あの世」といってもいいようなところだ*4。アマンは「至福の島」であり、エルフの魂はそこで永遠の憩いを得ることになる。死後の生を含めて、エルフは永遠に生きる種族なのだ。

 それでは人間の方は死後どうなると設定されているのか。

 “シルマリルの物語” では、人間が死んだ場合、エルフと同じ行く末はたどらず、単に世界から消え去るだけとされている。ドワーフも死後はアマンに赴くと示されていることからすると、人間だけが特別な扱いをされているわけだ。
 死後に赴く場所がどこにもなく、ただ世界から消え去るのみ、というのはとても空しくも思える。現実世界の多くの宗教が「あの世」なるものを設定して死後の生を考慮していることを踏まえても、指輪物語の世界観は非常に特殊だ。少なくともキリスト教的とは言えないだろう。C・S・ルイスと比較してトールキンが「異教的」と言われるのも納得できる。

 このようなふたつの種族のそれぞれの生に課せられた定め、および死後の行方の違いを、どのように解釈すればよいのだろうか。



 死後の行方

 ここで、赤井敏夫の “トールキン神話の世界” を引いてみようと思う。
 この本に収録されている論文 “『シルマリリオン』のシンボリズム” では、 “シルマリルの物語” の初期稿から最終稿へ至る書誌的変遷を追いながら、人間とエルフ(妖精)の象徴的差異が整理されている。

p95
[・・・]この至高神の被造物として現れる人類に、二種類の異なった種族を想定するところに、トールキンの創作神話の特異性がある。
 二種類の人類、すなわち現行の人間の以前にプロトタイプ的に別種の人間が存在したという設定は、時として神話に見られるモティーフであり、この点のみをとりあげてトールキンの独創に帰すことはできない。しかし、二種類の人類の特性(作中の表現に従えば、至高神によって与えられた〈宿命〉)の相違が、以降の物語を展開させてゆく中心的な因子となるところは、ひとりトールキンにのみ見られる特色であるといってよいだろう。
p96
 一般的にギリシャ・ラテンの古典神話など、人間型神格(anthoromorphic dieties)を想定する神話では、不死性 イモータリティ は主に神と人間を区別する規準となっているが、トールキンにおいてはこれが二種類の人類を分かつものとなるのが特徴的である。
p98
 当然のことながら、フイによる審判という構想は中期稿以降消滅することになるわけであるが、それに替わって明白に現れてくるのが、人間が有限の生命を持つこと自体が至高神による恩寵であるという設定である。すなわち「死はヴァラールによって定められたものではない。それは唯一神による恩寵であり、いずれ時が尽きるときには西方の支配者ですら羨むことになる恩寵なのである」(The Lost Road and Other Writings, p.65)。


 エルフの「不死」という特性の方が神からの恩寵のようにも思えるけれども実はそうではなく、人間の持つ死という定めこそが神に与えられた恩寵である、という考え方へトールキンが移行していったことが確かめられている。

p99
 人間のモータリティが至高神による恩寵であるとのコンセプトが確立されると、それはさらに発展して「シルマリルの歴史」最終稿の「死後の人間の魂の行方についてはエルフの知るところではなかった。(中略)おそらく死後の人間の運命はヴァラールに委ねられたことではなく、また完全にはアイヌアの諧調において予言されてはいないことなのである」(The Siilmarillion, pp.104-5)という設定となって結実する。要約するならば〈イルーヴァタルの子ら〉と名づけられた二種類の人間に関して、中期稿以降次のような図式が基本的なものとして成立していたと考えられる。
  妖精──神々の支配下にある──現世において不死──地上的
  人間──最終的に至高神に帰する──来世において永世──超越的


 この図式はとても重要だ。
 ここからは、エルフが人間よりも優れているというようなことを見て取ることはできない。むしろ人間の方がエルフよりも特別な存在であるように位置付けられているとも言える。というのは、死後に世界から完全に去り、その行方はただひとりイルーヴァタルのみが知るということは、人間がヴァラールの神々の支配を脱することを意味するからだ。*5

p100
 したがってトールキンの構想によれば、人間は自然、すなわち創造された宇宙の中に一時的に逗留し、やがてはそこから去ってゆくことを運命づけられているのに対して、妖精は自然の中に完全に統合された、いわばイデア的な自然を具現するものとなる。また人間が有限の生命を持つがゆえに、自然の中にあってはあくまで一時的に仮寓する存在である限り、人間と妖精、もしくは人間による妖精の住む世界との接触はあくまで偶発的なものであり、それを永続することは不可能である。ここにトールキンが後期の作品、ことに指輪三部作において繰り返し描いた〈美とそれに対する別離の哀惜〉という中心的主題が生ずる余地が成立するのである。


 エルフは不死であるにもかかわらず、せっかくのその特性を最大限に活かして中つ国で永遠に生を楽しむようなことはできていない。中つ国のエルフたちは、自ら望んで大海の向こうへ去り、減少し続けている。闇の勢力との戦いでの傷を癒すため、あるいは上古の美が失われていくことの憂いのためなど、個別の理由はさまざまであっても、全体でみれば種族としてのその衰退傾向ははっきりしている。
 代わりに第三紀以降の中つ国で主役を担い始めるのは人間だ。生まれてはいずれ死んでいくという儚い命を定められながら、闇に抗して国を築き、勢力を拡げていく。この流れは押しとどめることはできず、やがてエルフのみならず妖精世界(Faërie)の面影はすべて中つ国から失われていって、最終的には現代の現実世界につながっていく…… というのがトールキンの構想にあったとされている。

 他のファンタジー作品でも「不死の種族」が登場する例はあるが、大抵の場合、やはり人間への対置として設定されている。たとえば荻原規子の“空色曲玉”での「不死によって永遠を達成する種族」と「輪廻によって永遠を達成する種族」なんかは非常にきれいな対置を成していると思う。けれどもトールキンの構図では、人間は輪廻をおこなう存在というわけでもない。中つ国のエルフにとってアマンでの生はある意味で「来世」に相当するわけだが、人間にはそうしたかたちでの来世はない。
 本当のところ、トールキン世界における人間の死後というのは、エルフもヴァラールも知らない別の来世が用意されているということなのか、それともただ完全に無となるだけなのか、どうもはっきりしないものがある。たしかなことは、人間の死後が「非知」とされているということだ。つまりただ単に、どうなるのかがまったくわからない。至高神の意志を遂行する役割であるヴァラールの神々にさえもわからないほどに。
 もし人の死後がはっきりと理解できるような種類のものだったなら、それは所詮「世界内」に属する事柄でしかない。人が死後、世界の軛から逃れるというのであれば、その行方は現世においての理解を超えたもののはずだろう。だからこそ、人間が死後どうなるかは語りようがないのだ。

 いずれにしても、「エルフと人間には優劣があるのか」という最初の問いに戻るなら、その答は結局のところ「むしろ人間の方が特別な存在だと考えられている」というものになる。そしてそれは、死後のあり方の違いから導かれている。エルフはたとえ死んだとしてもアマンを含めた地上世界に縛られ続ける存在であるのに対し、人間の方は死ぬことによって地上の束縛および神々の束縛から解き放たれ、そしてそれこそが人間の特権だとみなされている。
 そもそも優劣を問うこと自体、不毛ではあるのだろうけれども、少なくとも人間がエルフに比べて劣った種族・不完全な種族と考えられているわけではないのは明らかだ。そして、東夷といえども人間の一種族であることに変わりはなく、彼らが闇の傘下に入ったからといってこの超越の図式から除外されてしまうわけでもない。人間は、ヴァラールを信仰しようともサウロンに与しようとも、死後が超越的であるという意味で等しく特別な存在だ。*6

 このように人間が死後に世界から解き放たれる特権を持った存在であるとすれば、エルフは人間にとって特にめざすべき理想ではなく、ただ比較によって死の意義を示すための対照であるように見えてくる。



 船出を見送る者たち

 エルフの死後の行方は、とてもはっきりとしたものだ。
 彼らは死ぬと大海の向こうに運ばれ、神々のもとで死後の楽園を生きる。世界の終わりまで。
 また、中つ国に倦み疲れたエルフは時として生きている内に大海を渡り、アマンへ去ることがある。この場合、彼らが生者なのか死者なのかは曖昧ではあるけれど、ふたたび中つ国に帰ってくることはできなくなることを考えるならば、事実上、死んだものと同等だ。
 作中では、生あるうちから既に大海の向こうに焦がれるエルフたちの想いが随所に描かれている。エルフたちは不死であるにもかかわらず、中つ国で永遠に生きることよりも、早く大海を渡ってアマンで暮らすことを夢見ているように見える。
 死後の定めとしてであれ、生前の自発的選択であれ、彼らはいずれ大海の向こうの死後の楽園へ去ることになる者たちなのだ。

 指輪物語では、こうした「大海の向こうへ去る者」との離別がひとつの大きな題材として描かれている。

 物語は最後、サムとメリー、ピピンがフロドの船出を見送り、そして家に帰るというシーンで結ばれる。そしてさらにこの後、サムもまた最後の指輪所持者の資格によって海を渡ることが追補編で示されている。このときサムを見送るのは、中つ国を決して出ることのないエラノールだ。
 大海の向こうへ去る者と、彼らを見送る者。
 船出する者たちの旅は単なる渡海ではなく、エルフが死後を憩う楽園への不可逆の旅だ。
 見送る者たちは、船の行く末に思いを馳せざるを得ないだろう。
 「彼ら」はエルフの楽園へと旅立つ。
 けれども…… ではそのように西方へ旅立つことのない者たちの行く末はどうなるのか?

 この問いは必ずしも物語内では明示されていない。それは言ってみれば、隠れた問いだ。物語の表面上の焦点は、あくまでも航海者たちに当てられている。だけど、彼らの「死後の楽園」への船出が哀切をもって語られれば語られるほど、そのような運命にない者の行方が潜在的コントラストとして浮かび上がらざるを得ない。
 そして、物語を読む読者もまた船出を見送る者の側にいるわけであり、だからこの疑問は読者自身が自分に向けて問いかけるものにもなるはずだ。

 “トールキン神話の世界” の第4章 “サムワイズ親方の知ったこと” および第5章 “指輪三部作におけるラグナロク的英雄像” によれば、指輪三部作とは、登場人物が俗世界から物語の世界へ入り込む過程を描いたものであり、西方にある死後の楽園こそは「物語の世界」を象徴する地だとされる。*7

p211
英雄の遺骸は深い哀しみとともにこの世の岸辺をはなれ、不死の者たちの住まう西方楽土へと、すなわち永遠に〈物語〉が続く神話的な Faërie の領域に送り出さねばならない。かれは世俗の者として日常へと帰還することはないが、その姿は〈物語の中の人物〉として、長らくわれわれ読者の記憶の中で生き続けることとなるだろう。


 そしてこのような俗世から神話世界への旅路は、読者自身が物語と深く関わっていく体験に重なっているとも述べられている。

 “トールキン神話の世界” では、「神話を読むこと」をひとつの神聖な体験として捉えていて、神話世界 Faërie というものを到達すべきひとつの目的地としているようなのだけど、でもエルフの死後と人間の死後というふたつの対照を踏まえるなら、現実世界の側からも重要な意味を見出すことが可能であるように思う。
 つまり、エルフや指輪所持者がたどり着く楽園が神話の領域に属する世界であるならば、海を渡らない者たち──すなわち「死すべき運命の人の子たち」、および読者自身──は神話の外、現実の世界に属する。そして、楽園での絵に描いたような来世は文字通りフィクショナルなものであって、死後が非知であるという人間の定めこそは現実世界での死のあり方に等しい、と言うこともできる。「人の子」たちの死後の行方が曖昧であることは、単に創作作品の世界設定というだけでなく、実際の現実世界での「死」に対するトールキンの認識でもあったのではないだろうか?



 一般に創作ファンタジーでは、人間が死んだらどうなるかを作者は好きなように設定することができる。死んだ後は等しく楽園に赴くとか、天国と地獄があってどちらに行くかを審査されるとか、あるいは黄泉で虚ろに過ごすようになるだけ、とか。
 ファンタジー作品だけでなく、現実世界の宗教体系のほとんども、死後は単なる無ではなく何らかの「行く末」があるとしている。どのような宗教体系でも、死後の人間がどうなるのかが明確に説明され、それをその体系のもっとも中心的な軸に置いているものだ。
 私はこれらのような「現世の次に来世がある」という死生観にあまり興味を持ってはいないのだけど、その理由は、いくら様態や場所を変えようとも結局のところ人が何らかのかたちで死後も継続して存在するのなら、それは「生」と本質的に変わらないように思うからだ。
 かわりに私が関心を寄せるのは、そうした自己の存在様態そのものが終わるという事態──「無」としか言いようのない事態の訪れであって、それだけが真に恐るべき事柄である。そして現実世界での実際の「死」は、そのようなものでしかないと思う。死ぬ当人にとって死とは世界がまるごと終わることと同等だけど、でもそれを体験する視座自体が失われる以上、いかなる意味付けも不毛となる。もし仮に来世があったとしても、自分という存在が消え去る事態の可能性はどこまでいっても想定することができるわけで、そのような存在の終わりの虚無こそが本当の意味での死であり、究極の死なのだ。

 トールキンの世界でも、「死後」として明示的に語られるのはエルフたちの死後である西方の楽園のことばかりなので、一見、ファンタジー一般や宗教一般と同じような死生観で書かれているようにみえないこともない。
 でも、細密かつ広大な世界設定をあらためて読み取っていくと、実は隠れた対照的構図のなかに、人間に定められたもうひとつ別な種類の死が表されていることがわかってくる。
 その死は、楽園的なものでもなく審判を伴うようなものでもなく、ただただ不明瞭なものだ。死後が不明瞭であることが人間の特質であって、エルフとの決定的な違いだとされている。そしてこのような死は、ファンタジー文学一般や宗教体系での死のあり方より、現実世界での人間の死のあり方に即している。
 このとき重要なのは、トールキン世界において人間の死後が非知であること(あるいは、もしかしたらまったくの無であるかもしれないこと)は必ずしも憂うべき事柄ではなく、むしろ恩寵として捉えられているということだ。わかりやすいいかにもフィクショナルな楽園的来世ではなく、はっきりしない現実世界的な死こそが賞揚されているという構図。この構図は、ただ表面的にテクストを追うだけではなく「世界を読み解く」ことで初めて見えてくるように仕組まれている。あたかも物語のなかに周到に隠された秘密のようなものとして。そしてその秘密は、読者自身の「行く末」に関わるものでもあるわけだ。

 この意味では、トールキンが本編あとがきで語っている「指輪物語は寓話を意図したものではない」というのは確かにその通りだろう。作品全体がひとつの神話世界として現実世界の何かを象徴しているというのではなく、作品内に神話世界と現実世界の対比関係が築かれ、それを見る視線が最終的には読み手自身に立ち返ってくるように書かれているのだから。
 ファンタジー文学というものは得てして逃避や寓話として受け取られがちで、指輪物語はその筆頭に挙げられたりするけれども、実際のところ指輪物語は、そうしたファンタジーとは確実に一線を画しているように思う。










*1:ドワーフホビットなど、他の種族はとりあえず割愛。実際のところ、ドワーフホビット、エント、トロル、龍……など、すべての種族にわたって優劣順序がはっきり見てとれるとは言い難い。

*2:マイアであるガンダルフはまた別の特別な位置付けに整理しておいた方がいいだろう。

*3:メルコールの邪悪な働きかけがあるにはあるが。しかしシルマリルに魅入られるあまりに、恐るべき誓言を立てて過ちを犯し続けたこと自体はエルフ自身の責だろう。

*4:第二紀までは世界は平坦で、中つ国とアマンは海をまっすぐに進めば往還することが可能だった。しかし第二紀末のヌーメノールの反旗を原因として、至上神によって世界は球状に変えられてしまう。それ以降、中つ国からアマンへ行くためには、球状の海をいくら進んでもたどりつくことはできず、かつて平坦であった頃の道――つまり「直線の道」を何らかの方法で進むことができないかぎり到達不可能となっている。

*5:そしてさらにこの延長で言うならば ──赤井敏夫のこの図式が明示しているわけでもなくトールキンが明言しているわけでもないのだけども── 死後の人間こそは至高神イルーヴァタルの存在そのものに何らかのかたちでつながっていくのではないか、と考えることも不可能ではない。

*6:ナズグルが「堕落者」に区分されるのは、悪に帰依したからというよりも、死を忌避して幽冥の永遠を選んだことゆえに、と考えるべきだろう。こうした意味からしても、「一つの指輪」が廃棄されなければならなかったのは必然だ。それは至上神の企図から外れた不死をもたらすのだから。

*7:サムワイズが、物語の単なる読者(アラゴルンへエルフの物語をせがむ序盤)から、物語の作中人物(シェロブの洞窟で、自分もまた英雄たちの伝説に連なっていることを不意に自覚する終盤)へと変わる過程。(第4章“サムワイズ親方の知ったこと”)






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell