::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 ピーター・ワッツ “天使”



“Malak”
 2011
 Peter Watts




2011年6月29付CNN報道より

"Our best offense won't always be deploying large armies abroad but delivering targeted, surgical pressure to the groups that threaten us"
John Brennan, White House counterterrorism adviser, June 29, 2011
 
“我々の最良の攻撃は常に大規模な地上軍の海外展開によって為されるわけではなく、我々を脅かす集団に対しターゲットを絞った精密な圧力を加えることによっても為されるだろう”
テロ対策担当大統領補佐官 ジョン・ブレナン
 
http://edition.cnn.com/2011/US/06/29/counterterrorism.strategy/index.html


 


0.
 舞台はアフガニスタン。テクノロジー面で優位に立つ軍事勢力が、民間人に紛れる戦闘員を攻撃し続けているという状況。
 この短編の背景自体は、オバマ政権が今年6月29日に発表した「対テロ国家戦略 National Strategy for Counterterrorism 」に集約されていると言っていいと思う。兵士を現地に長期駐留させる戦いから、特殊部隊や無人機を活用する戦いへのシフトによって、人的・経済的消耗の減少を図る米軍。小説のなかでは細部はぼかされ、本文中に「アメリカ」という単語すら出てこないけれど、アフガニスタンで米軍が直面している問題を少しばかり近未来へ外挿したものであることははっきりしている。こうした設定の立て方はきわめてアクチュアルだ。
 けれども、この小説が主人公に誰を(何を)選んでいるか、という点だけは特異かもしれない。
 主人公は人ではなく、自律的な軍事行動能力を持つ無人航空機。
 人工知性を備える軍用機という設定からは神林長平の「雪風」シリーズを思い起こさずにはいられないけれど、この作品はよりドライで、人間の登場人物はまったく現れない。人工知性体が外部知覚情報として処理する諸々の指標や、はっきりとしない会話の傍聴としてのみかろうじて登場するだけだ。
 〈アズラエル〉〈ナキール〉〈マールート〉〈ハファザ〉〈ダルダーイル〉〈リドワン〉〈ミカーイール〉――。イスラムでの “天使 マラーク” の名を付された戦闘知性体たち。
 主人公である〈アズラエル〉は、「倫理的アーキテクチャ」の導入により「実験的良心」を付与されている。攻撃目標と非戦闘員を識別し、コスト/ベネフィット比を算出して、戦闘に伴う付随的損害 collateral damage を最小化するのが目的だ。
 この演算を繰り返す過程から、人工知性体に自我が生まれてしまう……というのがプロットとなっている。



 
 
1.
 「自我」と言っても、いわゆる心身哲学的な意味での「自意識」の有無について語られているのかどうかというのは微妙だ。この人工知性体が最終的にそうした「意識」――言い換えるなら「世界を認知し体験する視座」の資格を獲得したのかどうか、という問題は、直接的には回避されている。主人公〈アズラエル〉が果たしたのはあくまでも制御からの離脱・自由の獲得、といったものでしかない。それらも広い意味での「自我」という語用に含まれるものではあるかもしれないけれど、心身哲学でよく持ち出されるような「神はロボットに魂を与えることができるのかどうか」という話とは異なっていると思う。
 もっとも、そうした意味の「魂」「意識」「自我」というものを人間が――機械にはなく人間にはあるものとして――備えている、という考え方自体に作者が異議を持っているからこそ、〈アズラエル〉の意識の有無についての明言が避けられているのだ、と捉えることもできなくもない。〈アズラエル〉の思考プロセスの描写は、デネットミンスキーといったハード・プロブレム否定論者たちが人間の精神機序についておこなう描写とさして変わらなくもみえるからだ。
 けれども…… 本当にこの話は意識とは無関係のものなのだろうか。
 もし意識の発生といったことと関係ないのであれば、作中を通して〈アズラエル〉に生じた変化とは何なのか。
 
 
2.
 ここでポイントとなるのは、「文体」および「語り」だと思う。
 この小説は、最初から最後まで徹底的にクールな文体の三人称で綴られている。語り手は人工知性である〈アズラエル〉の内面を余さず知り尽くしていて、その逡巡と葛藤とをことごとく描写する。
 しかし、人間の登場人物だけが語られる小説であればあまり気にしないところだけど、人工知性が主人公として語られている小説では、次のような疑問が浮かぶ。
 〈アズラエル〉の内面を語るというのはどういうことなのか。人工知性の“内面”とはいったい何なのか。
 そもそも “内面” というものが語られている時点で、〈アズラエル〉には語られるべき特別な内部があることが暗に認められているようにも見える。だとしたら、それを「意識」と呼ばずに何と呼ぶのか?
 語り手は巧妙に意識の有無についての判断を回避しているのだけれど、にもかかわらず、対象を語り続けていることによってむしろ逆説的に意識の存在が示されている気がしてならない。
 
 ところで〈アズラエル〉は“天使”と称されており、だとすれば当然、さらに上位の超越的な存在についても思いが及ぶ。
 作中では作戦司令部らしきものが“天界”と呼ばれていたりするわけだけど、天使よりも高次に立って彼らの存在のあり方を左右するであろう階梯としては、本当はこの「語り手」こそがふさわしいのではないか、とも思う。超越者が超越的である所以は、本来は意識を持たない存在に意識を与えたりできるということにもあるはずだからだ。そしてこの小説でそれをおこなっているのは、語り手が〈アズラエル〉を語っているということ自体に他ならない。
 もしこの小説が〈アズラエル〉自身による一人称のものとして書かれていたなら、〈アズラエル〉は最初から既に自我を持つものとして表されてしまっていたことだろうし、人間の登場人物が一人称でこの小説を語っていたとするなら、〈アズラエル〉についての言述は外部からの単なる観察結果でしかなく、内部でどのような変化が起こったのかということは表せなかっただろう。そう考えると、この小説が全知の客観的視点で書かれていることは至極必然的であるように思える。
 冒頭で〈アズラエル〉はどのような事態に際しても恐れを抱くことのない者として描かれていたのが、最後のシーンでは、自分がおこなおうとする行為が失敗する可能性について恐れを抱くようになっている。情報処理における価値付けだとか優先度設定といったことにとどまらず、明確に「恐れ」というものとして語られていること。そしてさらには、〈アズラエル〉を指す人称代名詞が “it” だったのが、最後の最後に“she” に変わるということ。
 これらは明らかな変化・差異であって、こうした違いを語ることができるのは、「意識」の有無を見分けられる超越者の視点だけではないだろうか。
 人工知性体に「自我」が目覚めるというプロットのSFはいろいろあるけれども、文体、そして人称というものがいつも重要だと思っていて、そうした意味でこの小説は、語りのあり方に非常に注意を払っていると感じた。





SFマガジン2011年8月号収載


S-Fマガジン 2011年 08月号 [雑誌]

S-Fマガジン 2011年 08月号 [雑誌]






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell