::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 イアン・ハッキング “言語はなぜ哲学の問題になるのか”



“Why Does Language Matter to Philosophy?”
 1975
 Ian Hacking
 ISBN:4326152192



言語はなぜ哲学の問題になるのか

言語はなぜ哲学の問題になるのか






 近世以降の言語哲学を整理した本。
 標題の「言語はなぜ哲学の問題なのか」という問いは最後に語られているが、全体的には、言語がこれまでの哲学にとってどのようなかたちで扱われてきたかについての文量の方が多い。
 対象は主に英米哲学、17世紀以降。時代を以下のような三つに区分している。

 
    • AからB・Cへの流れのなかで、精神的言説(観念)から公共的言説への転換が起こっている。
      17世紀イギリスの観念論哲学は、精神的言説を議論の根底に据えていた。現代の我々は、かつての精神的言説を公共的言説によって置きかえた。
    • 「意味の理論」:言語の公共的な側面に関わる。われわれが互いに語り合うことを可能にするような、共有されている何ものかについての理論。





 A. 観念の全盛期
 17世紀 イギリス経験論哲学 … ロック、ホッブス、ミル、バークレー
      • イギリスの経験主義哲学者たちは、公共的な言語に対し精神的な言説(=観念)を優先させた
         
    • 観念とは何か
          • 「観念」とは、自我と世界の媒介となるもの。
            思考する存在が、それ自身の存在以外のいかなるものの存在についてもコミットせずに黙想することのできる対象のすべて。
            • 今のわれわれからすると「観念」とは何でもありの概念であるかのように見える。
          • 観念の理論は言語と結びついている。言葉は観念を表示するからである。
          • 言語の用途のひとつに意思伝達というものがあるとして、精神的言説を持つ私が言語によって会話するということは、他人の内に意図した精神的言説を生み出すこと。
          • しかし、他人の精神をのぞきこむことができないのに、どうして他者が自分と同じ観念を持つに至ったと知ることができるのだろうか。他者の観念と自分の観念が同じであるとはどういうことか。同じとされるのは次のうちのどれなのか。「表示内容」/「指示対象」/「共通の受け取られ方」/「感覚的刺激」
             
    • 経験論哲学と公共的言説
          • 経験論哲学者たちは、今日与えられているような意味での「意味の理論」は持っていなかった。
            • 「意味の理論」:語り合うことを可能にするような、共有されている何ものかに関わる理論
            • 現在のわれわれは、「言語の哲学」を「意味の理論」と等置する。
          • 彼らの研究関心はわれわれと同一の構造を持っていたが、そのなかで現在では公共的なものが割り振られているところが、当時は私的な・精神的なもので説明されていた。「精神的言説」が公共的な意思伝達に先行し、その基礎とされている。

            フレーゲは「共通の受け取られ方」を「意義 Sinn」として、「指示対象 Bedeutung」と区別した。
            この後、言語は本質的に公共的なものと見なされるようになった。現代の我々は精神的言説を公共的言説によって置きかえている。



 B. 意味の全盛期
 19世紀 フレーゲ以降 … ラッセル、ウィトゲンシュタインウィーン学団チョムスキー
      • フレーゲ以降に議論された問題と言語との関係
         
    • 言語の習得
          • 言語は生まれながらに持っている能力なのか、生まれた後に獲得される能力なのか。
            →言語構造は人間の精神の本性に結びついているのか、精神の外の現実世界の本性に結びついているのか。
             前者がチョムスキー。後者はラッセル。
          • ラッセル:表層的な文法的形式の下には、論理的形式がある。(論理的形式によって、偽であるけれど有意味である文というものが明確となる)
            論理的形式という考えには、ある文が真であることの条件に関わる、という問題もあり、これはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』につながる。
          • 意味の全盛期の哲学者のなかでラッセルだけは言語を本来的に公共的だとは考えず、私秘的なものと考えた。
             
    • 一般文法の追求
          • 事物はそれぞれがひとつの全体からなるのに対して、語はそれぞれ分節化されている。抽象観念は分節化できるものなのかどうか。
            一般文法の問題とは、語によって分節化された言語が、いかにして世界のなかの分節化されていない部分の表象を生み出すことができるか、ということを説明すること。
          • 論理哲学論考』:言葉が合致すべき現実とは本質的に物的なものである、と考えるのは誤っている。世界は、事実からできている。(命題1.1)
          • 人々はあらゆる種類の文について、それがいまだかつて誰にも発せられたことがなくても、文法にかなったものであることを認識できる。
          • 文法形式に対立する論理形式というラッセルの考えは、表層文法と深層文法というチョムスキーの考えに相似している。
            (言語の深層文法がどのようなものであるかは、未決着の問題)
             
    • 検証原理の追求
          • ウィーン学団論理実証主義による形而上学批判:形而上学のような問いは、立てることそのものが根本的な誤謬である。

            ここで検証原理の必要性が出てくる。
            有意味性に関する一般的な判定基準を定式化しようとする試み。→しかし結局失敗に終わった。(有意味な言明が実際検証可能であるわけではない)
             
    • 文の使用規則
          • 「私は今夢を見ている」という文が真であることは可能なのかという哲学の古典的問題に対して、検証主義は通用するのか。
            文の使用規則 規準

            この問題は実は一般的な主題を巻き込んでおり、それは科学哲学における今日の根本的問題にも結びついている。
            ;理論の進歩は新しい規準を生み出すことによって意味を変化させるのか。(「夢」という言葉はレムの発見の前と後とで同じ意味を持つと言えるのか。18世紀における「酸」という言葉は、その後の発見と科学理論の進展とを経た現代の「酸」と同じものを意味すると言えるのか)



 C. 文の全盛期
 20世紀以降 … キャンベル、ファイヤーアーベント、タルスキ、クワインデイヴィドソン
      • 存在している事物は、社会の理論や前提といったものにどの程度まで依存しているのかという問題。
        両立不可能な複数の理論があった場合にどう対処するか。
        これを考えることはつまり、理論についての理論を考えるということになる。

         
    • タルスキ ——真理の理論
          • タルスキの数理論理学以前には、真理の理論には「真理の対応説」と「整合説」があった。これらはどちらも曖昧。
          • タルスキは真理に厳密性を与えたという点に功績がある。
            [T]:「言語Lの文sはpであるとき、またそのときにかぎって、真である」
             (ex. 「“Snow is white.”という英語の文は、雪が白いとき、またそのときにかぎって、真である」)
          • ある言語Lに含まれる文の数には上限がない。我々の有限な基底が無限個のT文を証明できなくてはならない、ということになる。そうした有限の基底はどのようなものでありうるだろうか。
            無限の文が可能な言語にとっての真理の理論とは何か。
             
    • デイヴィドソン ——言語の真理の理論
          • タルスキは数学や自然科学などの形式化された言語を扱ったが、デイヴィドソン自然言語に対してアプローチした。
            デイヴィドソン自然言語に関する真理の理論では、真理値を持つものは文ではなく個々の発語または発話行為であると考える。あるいは真理というものを、文と話者と時間との間に成立する関係であると考える。
          • 言語の真理の理論
            • 「ドイツ語の文 “Es regnet.” は雨が降っているとき、またそのときにかぎって、真である」
              クワインが「根底的翻訳」と呼ぶ特殊な条件下(互いの知識がゼロの状態から相手を理解しようとするモデル)であると考える場合、ドイツ人がわれわれと同じような信念・考え方等々を持っているという諸々の想定(前提)が必要となる。……「慈善の原理」(ウィルソン)
          • 信念と欲求の問題
            • 翻訳に関するひとつのプラグマティックな制約として、彼らに対して帰する欲求と信念と世界との関係が、われわれのそれと可能なかぎり類似であるべきである、という条件。……「博愛の原理」(グランディー)
          • 翻訳可能性
            • どの言語も、それがそもそも言語であるためには、われわれ自身のものと同一の論理構造を基礎においていなければならない。
              抽象的概念はともかく、もっと一般性の低いレベルにある事柄、日常的な事柄については、きわめて多くの一致があるはずだ。これらについて翻訳可能性が成立するなら、より複雑な文の真理条件を再帰的に生成させる方法を通して翻訳の方法が確立されるだろう。
              われわれはそのとき、真理に関しては強い欲求をつきつけるがしかし意味と呼ばれる特別の存在者の想定を必要としないようなひとつの意味の理論(公共的言説の理論)を手にする。



 言語はなぜ哲学の問題になるのか
      • 観念の全盛期 / 意味の全盛期 / 文の全盛期
         
          • ロックやバークレーの思想の時代と、ファイヤーアーベントやデイヴィドソンの時代は、構造を同じくしながらも内容において異なるふたつのものだ。
          • かつて「観念 idea」が占めていたところは、現在では、「文 sentence」によって取って代わられている。
            今日の哲学では、公共的言説が精神的言説に取って代わっている。あらゆる公共的言説において、その疑うことのできない要素とは文である。
            文はかつての哲学者が観念について語ったことと同様、あまりに単純なので定義不可能なもの。
          • 観念から文への移行は、われわれの反省の様態全体のラディカルな変換である。
             












music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell