::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

イーガン “ビット・プレイヤー”



“Bit Players and Other Stories”
 2019
 Greg Egan
 ISBN:4150122237



ビット・プレイヤー (ハヤカワ文庫SF)

ビット・プレイヤー (ハヤカワ文庫SF)






 短編集。全6作品収載。
 おおまかに分けると、近未来3編(“七色覚” “不気味の谷” “ビット・プレイヤー”)、遠未来2編(“鰐乗り” “孤児惑星”)、並行世界の過去&現在が1編(“失われた大陸”)、といったところ。

 “七色覚 Seventh Sight”, 2014
 “不気味の谷 Uncanny Valley”, 2017
 “ビット・プレイヤー Bit Players”, 2014
 “失われた大陸 Lost Continent”, 2008
 “鰐乗り Riding the Crocodile”, 2005
 “孤児惑星 Hot Rock”, 2009




  “七色覚”

 これは映像作品化するとヴィジュアル的になんかすごいことになりそう。
 もしこの作品を映像化した場合、「〈七色覚〉の視覚像をテクノロジーで再現して体験する〈三錐体〉」という作中の関係をなぞり直すことにもなる。


  “不気味の谷

 長編 “ゼンデギ” でも出てきた「サイドローディング技術」を用いた作品。
 話としては、ミステリー的な構造。最後ちょっと曖昧にしてるけど、「心の安らぎをもたらしたかっただけ」という台詞で理解できる。

 サイドロードとは、簡単に言えば「必ずしも記憶が全部残らず性格も100%同一ではない状態への若返り」を意図してつくられた存在。しかし厳密なコピーやクローンというほどの同一性には至っていない。この作品の主人公も、オリジナルとは別人格であることをすごく意識している。またこの話のなかでは、オリジナルがサイドロードの記憶の一部を意図的に封じていて、それがより実質的で決定的な差異になっている。
 欠落した過去を現在の世界にある手がかりから外部情報として知ることと、自分の記憶機能の枷を物理的に解き放って知ることとは、意味合いが異なる。「記憶を取り戻す」というのは、それを知っていた自分を取り戻すこと。完全にではないにせよ、オリジナルの自分に近づいたということになる。
 オリジナルの職業が、脚本家という「物語をつくる営為」であるのもポイント。単に記憶を解放させただけでなく、そこにたどりつくまでの探索行がそのまま、あらたな/独立した自分の生を開始させる物語として価値を持っている。


  “ビット・プレイヤー”

 タイトルは、「端役」という元の語義と「ビット世界の住人」という意味をかけあわせたもの。
 この作品では、仮想世界の中しか描かれていない。仮想世界の外がどのような時代なのかは、はっきりしない。キャラクターたちの覚えている最後のアメリカ大統領がバラクオバマなのに、一方でこれだけの仮想世界技術が実現されてるというところで、明らかに時間のギャップがある。けれど、人間のあり方が大きく変わり恒星間航行も実現してるような時代まではおそらくいってなさそう。
 そういう意味ではひとまず近未来あたりに区分してよさそうに見えるけど、ほんとうのところはよくわからない。現実世界との実際の関係性が曖昧という点で他の5作品と区別することもできる。

 「被造物が創造主を越えようとする」といった内容自体については、SFマガジン掲載時点で感想を書いた。→ https://lju.hatenablog.com/entry/20140531/p1


  “失われた大陸”

 タイムトラベルとか並行世界とかが用いられてるけど、語られてる内容そのものは完全に現在の現実世界と共通する。
 難民および難民支援者たちに同情的・共感的な視点で書かれた作品。
 編訳者あとがきで、ゼロ年代のイーガンが小説執筆を中断するほど難民支援と抗議活動にコミットしてたことが書かれている。“要塞” “ゼンデギ” “万物理論” あたりを読めばこの問題に対する政治的スタンスはわかるけど、そこまで積極的に運動していたという事実は初めて知った。「現時点でイーガン唯一のタイムトラベルもの」とも解説されてる。科学的設定が顧みられていないこととも併せて、イーガン作品のなかではわりと異色な方だ。

 でもこれ、タイムトラベル設定にすることにどういう意味があるんだろう……? SFの伝統に「未来を描きつつも現実社会を風刺的に語る」という面があったことを考えるなら、この作品はSFらしいSFと言ってもよいかもしれない。しかし「寓話」と言うには現実世界をただありのまま描いてる感じではある。過去のイスラム世界からの難民を語ってるけど、別に現実の現在におけるシリアであってもよいような話だ。並行世界のフィクションだったらそれこそもっとよくわからないファンタジー世界から来たことにしてもいいのに、シーア派/スンニ派ってそのままだからなー…。いや、実在の民族・宗派を架空の設定でスライドさせるからこそ批評性があるのか?
 いずれにしてもイーガン本人にとってこのテーマが重要であるのはまちがいないわけで、他の作品にも直接的ではないにせよ影響を及ぼしているだろうことを考えると、この一編を収載したことには意義がある。なお、入管問題や難民受け入れ数に見られるように、日本という国はこうした内容以前の状況にあることは付記しておかなければならない。

 「宛先が書かれた手紙は必ず届ける規則 → 手紙が来る可能性が希望につながる」あたりは、ストレートに心を打つ。シビアな状況下でのこういった情感、これは他のイーガン作品ではほぼ見られない。
 長年の読者であればあるほど戸惑いそうな作品だけど、イーガンを理解する上では、この短編集のなかでもっとも重要な作品。


  “鰐乗り”

 長編 “白熱光” と共通する〈融合世界/孤高世界〉を舞台設定とした作品。
 イーガンの遠未来もののいつも通りで、デジタル化し、特定の肉体に固執することなく情報的存在となって宇宙の膨大な距離を移動できる知性体たちが主人公。事実上、不死の存在であり、科学的な試行をおこなうために平気で何千年・何万年もの客観時間経過を許容するような精神構造の持ち主。それなのに、暮らし方が妙に凡庸——というか、現在の生身の人間とそれほど変わらない生活/言動/思考をしてるのは、よくよく考えると気になるところ。
 自然科学についての会話内容は普遍性があるから変化しないのだと一応受け入れるとしても、しかし、たとえば会話の形式などはどうか。現代の人間と同様に、「互いに順番で発話をおこなう」といったような規則がこの遠未来の存在たちにも通じている。そういった諸々は、単にわれわれ現代の人間にも馴染みあるように翻訳されたものにすぎないと考えてもよいのだが……。でも、庭いじりとか、ふたつの性による夫婦形態とかについては、何万年も生きてきた存在がそんな現代人でも理解できる生活をするのか、もっと想像できないほど変化し続けるのではないか、とやっぱり思ってしまう。
 今の人間存在と大幅に変わってるところもあるけど、一方で今とそれほど変わらない部分もかなり残ってる。そういう「存続」を自明にしてるのが特徴で、言ってみれば保守的。

 ……こういう感想って、イーガン作品に対していまさらすぎることではあるけれども。
 でも “ビット・プレイヤー” で「どいつもこいつもきちんと設定構築しろよ、10歳の子どもでも5分でツッコミ入れられるような浅いものつくるな」みたいなこと言ってたことを考えると、じゃあイーガンが自然科学部分以外でも隙のない「ありそうな外挿」を徹底できてるかっていうとそんなことないよな、とは思う。まあ、「自然科学の普遍性」は絶対のものだけど「社会的・文化的なるもの(社会科学・人文科学)」はそういう普遍性は備えていない、だからそのあたりの設定は適当でいいんだ/適当にしかなりようがない——ということなのかもしれないが。

 だとしたら、自然科学以外の部分、社会的・文化的な設定の与え方にこそフィクションとしてのテーマが関わっているのだとも考えられる。遠未来における人類の末裔が実際にいれば今と何もかもが変容しててもおかしくないけれど、でもそんなわれわれとまったく連続するものがないのだったら、小説や文学は成り立ちづらくなってしまうし。
 これは次の “孤児惑星” で、主人公が睡眠周期を先祖の生物形態と同じあり方に意図的にこだわってるということにもつながる話。要は、何を残して何を変えているのか、そこに「意味」があるということだ。


  “孤児惑星”

 最後を飾るこれも〈融合世界〉シリーズ。
 “鰐乗り” もそうだけど、イーガンの遠未来ものの作品でなんかすごい技術・よくわからない事象が出てきたらだいたい正体はフェムトテクノロジー、ぐらいに考えてもいいんじゃないかって思うぐらいフェムトテクが大活躍してる。この頃の(ゼロ年代の)イーガンのなかで熱いトピックだったのかも。

 よく知られた「ナノテクノロジー」に対して「フェムトテクノロジー」というのは、単に大きさが違うだけじゃなくて(ナノ:10のマイナス9乗、フェムト:10のマイナス15乗)、質的にも異なる。フェムトマシンでは、人為的構造が安定する「存続時間」というファクターが重要になってくるからだ。“シルトの梯子” だと極小の時間に無限の演算をするような使われ方だし、“鰐乗り” だと、超相対論的速度での時間の遅れによって目的の観測活動に充分なだけの持続を確保する……といったように、単にサイズが小さいだけではなく、存続時間も小さいことをいかにうまく利用できている機構なのかが問題となってくる。
 そういったところは、かつてのSFで「何かすごいテクノロジーはとにかくナノテクによるもの」みたいな流行があったときの扱われ方とは違って、きちんと物理学的詳細を知ってないと簡単には書けない設定だ。
 この “孤児惑星” では、存続問題を解決した〈輪〉というものが出てきて、一連のフェムトマシンのアイデアのなかでもかなり先進的。ただその分、説明読んでも詳細はよくわからず難解。作中でも完全に仕組みが明かされてるわけではない。そもそもこういうのって、別に現実の物理学に認められた事実ではなくて単にそれっぽくこしらえられた設定にすぎないわけだけど、でもそれをつい忘れてしまうぐらい、なんか説得力はある。
 あと、〈円環派〉〈内螺旋派〉〈外螺旋派〉っていう区分もよかった。





 






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell