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古田徹也 “ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考”




 概要

 ウィトゲンシュタイン前期の思想を示す重要文献『論理哲学論考』の全文詳解。(実際にはいくつか本論から離れた個所は省略されているので「全文」ではないが)
 『論考』の1節から最後の7節まで順を追って解説している。


 『論考』には、全文が番号付の節でできているという特徴がある。
 基幹となるのは次の7つの文章。

    1. 世界は、成立している事柄の総体である。
    2. 成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。
    3. 事実の論理像が、思考である。
    4. 思考とは、有意味な命題のことである。
    5. 命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、自分自身の真理関数である。)
    6. 真理関数の一般形式は、[ p, ξ, N(ξ) ] である。これは命題の一般形式である。
    7. 語りえないことについては、沈黙しなければならない。

 これらに対する補足が枝番号で細かく入れ子状に書かれていって全体を構成している。
 こうした節をいくつかまとめてそのつど解説しているのがこの本。

 著者によれば、『論考』で難解なのは3番台の節まで。このあたりまでの「写像」「命題」「名」といった論理形式の概念を押さえつつ、あとは『論考』が「言語の限界を見きわめる」という作業をおこなっているのだということを理解すれば、全体についていける。

 随所で例示が用意されているのがわかりやすい(『論考』はほとんど例示を出さない書物なので)。また、原理的に例示できないものもあるんだけど、そういうときはそれを明確に言ってくれるところがよい。『論考』を素直に前から読んでいくと躓く個所もあって、そうしたところでは後で出てくる内容を先取りして説明してくれていたりする。実際、『論考』は最初の1節の時点で既に相当わかりづらいのだが、そのあたりに特に親切な解説が集中している。1.13節の「論理空間」などは例文も多く示しながら説明されていて、理解しやすかった。
 『論考』で言われる「言語」というのが思考上の抽象的な究極概念であることなども、注意喚起がなされている。このあたりも『論考』を理解する上でのポイントだと思う。



 『論考』の目的

 これまでの哲学の問題のほとんどは言語使用の混乱から生じた擬似問題であり、『論考』は、言語の限界を明らかにすることで哲学の問題を解決しようとする「言語批判」の哲学。


 キーワード

世界の論理形式
  • 写像
    • 言語と世界を写像という関係で把握することが前半のポイント。
      どんな写像形式にも当てはまる写像形式一般の本質とは何か、というのが主要な問いのひとつにある。
  • 命題
    • 命題とは世界と射影の関係にある記号である。
    • 命題には意味の形式は含まれている(真か偽であるのに先立って、すでに意味を持っている)が、内容(命題が真か偽か)は含まれていない。すなわち、命題の意味が現実と一致しているか否かが含まれていない。(命題の意味とはその真理条件のこと)
    • 写像・命題だけでは、それが真であるか偽であるかはわからない。その真偽はアポステリオリな事柄(経験的な事柄)である。
    • 命題と呼びうるものすべてに共通する本質:命題の一般形式は、「事実はしかじかである」というもの
  • 論理的文法
    • 哲学の擬似問題を解決するために重要なのは、日常言語の見かけ上の論理形式に惑わされずに本当の論理形式を見通すこと。→論理的文法・真理表・概念記法


言語の限界を見極めるための概念 ──言語の究極 / 名(名辞)/ 要素命題

    • 『論考』での「言語」「名」「要素命題」といった概念は、語りうることの可能性を最大限担保するために要請された、抽象性の高い概念。
    • 『論考』で扱われる「言語」とは、最大限の表現能力を持ち、写像関係を語りうるメタ言語がもはや原理的に存在しないような、いわば〈究極の言語〉が想定されている。
      そのような究極を想定してもなお「語りえないこと」は何か、をあらかじめ定めることを『論考』は目指している。
    • 「名」や「要素命題」も、具体的にどういう対象を指しているのかは捉えがたい。(この点が『論考』を難解にしている原因のひとつでもある)
      「名」や「要素命題」、またそれと対になる「対象(物)」や「(最も単純な)事態」という概念は、「語りうる」ということの可能性を極限まで広げるために用いられたもので、これらが何であるかを例示できないということは、名や要素命題によって構成される〈究極の言語〉が、語りうることの一切を明確に語りうるということを保証する、不可欠の条件になっている。
    • その上で『論考』は、そうした究極の言語であってもなお語りえないものは何か、ということを考察していくわけである。


語りえないもの
  • 超越論的な条件
      • 世界がさまざまに具体的なあり方をするための前提条件(世界が何らかの経験的な内容を有する可能性の条件)
        世界の前提条件であるがゆえに、それ自体について有意味に語ることができない。
    • 1.
      • 写像は世界を写し取るが、究極の言語をもってしても、世界と写像のその対応関係自体を写像は写し取ることができない。言語と世界が共有する論理的性質(論理形式)は超越論的。
    • 2.
      • また、世界があることも超越論的である。すなわち、世界のあり方に先立ち、論理にも先立つ、それらの可能性の条件である。そして、そうであるがゆえに、我々はこの条件についていかようにも語りえない。その意味で、世界があることは神秘なのである。
      • さらに、「世界があること」と同様に超越論的なこととして、「私」というものが示される。
        世界の可能性はそもそも誰によって語られるのかと問うとき、独我論が姿を現す。
        世界の可能性を思考し、世界の具体的なあり方を知覚する主体は、世界のなかには存在しえない。むしろ、主体とは世界の限界それ自体のことだ。

  • 言語の限界
      • 論理的に不可能なこと(非論理的なこと)は我々には思考できない。(完全にランダムな文字列など)
      • 我々は、非論理的な命題を語ることができない。我々はどうあがいても、言語の外に出て、言語を用いずに考えることはできない。
      • ただしこれは、あらゆる事態は言語によって生み出された構築物にすぎない、と言っているわけではない。
        ウィトゲンシュタインが主張しているのは、〈世界は、我々が命題というかたちで語りうるのと同じあり方をしうる〉ということ、すなわち、〈世界がさまざまなあり方をしうるその可能性は、われわれがさまざまに命題をこしらえることができるその可能性と一致する〉ということでありそれ以上でも以下でもない。

  • 限界の越境
      • しかし、「語りえないもの」であるはずなのに、『論考』では語られてしまっているのではないか?
        5・6番台の節以降、限界の外側への越境がはっきりとおこなわれるようになってきている。



 






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell