- 作者: 古田徹也
- 出版社/メーカー: 新曜社
- 発売日: 2013/08/05
- メディア: 単行本
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この前読んだ『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』の著者による2013年の本。書店で興味を引かれ読んでみたけど、読み終わるまで同じ著者だと気付かなかった。内容はけっこうおもしろかった。
「〜として理解するためのそもそもの条件」というような考え方が特徴的。こういうものを追求することこそが哲学なのだと思う。
全体としては「言語主義」的なところがある。心身問題で一元論にも二元論にも与さない第三の道を探るというなら、行き着く先はやはり「言語」となるのだろう。
倫理学へ移行する第3章では、「割り切れなさ」というキーワードが印象に残った。
- 全体構成
- 第1章 行為の意図をめぐる謎
- 自由意志とはそもそも何か
- 「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」
- [ウィトゲンシュタイン→ライル]
- 第2章 意図的行為の解明
- 心身問題における機能主義の批判的検討
- 第3章 行為の全体像の解明
- 行為の概念
- 「(図らずも)やってしまったことから、起こってしまったことを引いたら、後には何が残るのか?」
- [ウィリアムズ]
- エピローグ 非体系的な倫理学へ
第1章 行為の意図をめぐる謎
- 「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」(ウィトゲンシュタイン)
- この問いへの答として考えられるのは、「意図」というものになるだろう。だが「意図」とは実際のところ何なのか。
- 意図にあたる現象として何を提示しても、無限後退に陥る。(内語することもイメージすることも、それ自体がひとつの行為である)
- 出来事を引き起こす心の働きなど本当にあるのだろうか? 「心の働きが出来事を引き起こす」というモデル自体に問題があるのではないか。
- ライルによる物心二元論批判:「出来事を引き起こす心の働き」などそもそも存在しない。カテゴリー・ミステイク。行為とは傾向性の発現にすぎない。心とは、客観的に観察可能なさまざまなふるまいや変化に他ならない。(行動主義)
- 現代では物的一元論・唯物論的な見方が席巻している。しかしこうした見方は、「意図」を説明しきれているだろうか。
- 科学的知見の検討
- 環境的要因・身体的要因による決定論
- 「大きな影響を及ぼしている」と「決定していること」は同じではない。傾向性を示しているにすぎない。
- 社会心理実験が示す結果(ミルグラム実験など)
- 人間は思っているよりもはるかに周囲の状況や条件に支配されやすいが、しかし完全に支配されることが示されたわけではない。
- リベットの実験 (例の“0.5秒前に決まっている”という実験)
- 「意図すること」と「意図を意識すること」は同じではない。(広く見られる混同)
- というより、「意図を意識すること」とは何かがまったく明確にされていない。
- 「意図する」ことに「意識する」ことと同様の始まりの瞬間があるかどうか自体が疑わしい。
- 何かを自覚的に意識した瞬間の前に、そのこと自体を準備する脳内活動が起こっているということも充分にありえる。
- つまり、まだ最初の問いから一歩も前に進んでいない。この実験で「意図」が解明されたわけでもなく、自由意志が否定されたわけでもない。
- 心身問題に対する本書の立場
- 心は非物質的な実体でもなければ、物的一元論者の言うような物質的な実体でもなく、付随するものでもなく、それらとは別の仕方で存在する。
- その他
- 「しよう」と「したい」の違い
- 「しよう」:「意図」 … 行為論では、「しよう」を「コミットしている」と言う。
- 「したい」:「欲求」 … 「したいけれどしようとはしていない」ことがある。
- ある意図がある行為を実際に成立させるかどうかは、まさにその行為が成立しないかぎりはわからない。(行為とは基本的に「為されたもの」として回顧されるものである)
- 何であれ行為をするには、それに関連して何ごとかを信じている必要がある。:信念
- 日常で使われる意味とは少しずれている。「『…と信じている』という思い」とか「…と疑っていない」という感じの意味。多くのケースでは「知識」と言い換えられる。正しい事柄を適切な仕方で信じていること。
第2章 意図的行為の解明
- 意図と信念の諸特徴
- 自覚的な意識を伴う必要がない。
- 始まりの瞬間が問題にならない。
- 極めて長時間持続しうる。
- 様々に再記述できる(場合がほとんどである)。
- 我々は多くの信念をもっている。
- 以上を考えると、心の働きを単なる脳の働きに還元するのは無理がある。
- 心をめぐる「一人称権威」の非対称性
- 行為者の本当の意図が何であるかに関しては、一人称(行為者当人)に権威があり、他人との間に非対称性がある:一人称権威
- 「理由を問い、答える」という観点から行為を捉える
- アンスコム:意図的行為というものは、「なぜそれをしたのか?」という問いに対して何らかの適切な説明が与えられうる場合に、それとして理解可能なものとなる。「なぜそれをしたのか?」という問いが受け入れられる(問いが機能する)ものが意図的行為である。
- デイヴィドソン:「人はたまにはおかしなことをするけれども、基本的には自分がする行為の意味(理由・意図)をちゃんと知っているのだ」という寛容さを働かせているかぎり、我々はその人を精神的に健常な人物と見なしている。:寛容の原則
- これはある人を理解可能な人物と見なそうとするならば絶対に採用しなければならない最低限の原則であり、自由に取捨選択できるようなものではない。「ちゃんと意味(理由)があって、意図的に行為したはず」という寛容さを発揮することが、その人を行為者として理解するためのそもそもの条件を構成する。
- これを用いて、「隠蔽説」とは別の説明
- 発話した言葉の意味を話し手があらかじめ知っているというのは、話し手を理解可能な人物と見なすために、聞き手がそう回顧することを離れてはありえない。発話の後に聞き手がそれを振り返り、話し手に帰属させているものが「知っている」という心の働きなのであって、それは「話し手の脳内活動」などとは関係ない。
- ここでいう「あらかじめ知っている」とは、「観察と解釈によらずに知っている」ということを意味する。
- 心をめぐる自他の非対称性は、心の働きが身体内に隠されているから生じているのではない。行為者当人は自分がした行為の意味(理由・意図)を観察と解釈によらずに知っている一方で、それ以外の人々は、観察し、それを解釈することによって知るということが、非対称性の中身なのである。
- 「意識していること(およびそれに対応する脳内活動)」と「知っていること」とは同一ではない。
- そしてこの非対称性は、出来事を行為として、人を行為者として理解するためのそもそもの条件に由来する。すなわち、人を理解可能な人物と見なすためには、その人が基本的に自分のした行為の意図を観察と解釈によらずに知っていると推定することが不可欠だ、という点に由来している。
- 意図は、理由への問いのコミュニケーション(およびその可能性)から離れて「脳」や「霊魂」といったモノの働きとして自立的に存在するのではない。
- 一人称権威は、人を理解可能な人物と見なすためにいわば論理的に要請されている条件であり、むしろ事実がこの要請に従う必要があるのである。
- 意図や信念は「語られうるもの」として存在する
- 意図や信念を虚構の存在とすることも反実在論の立場を取ることもなく、それらが行為の実際の原因だと言うことができる。
心の働きは「行為の理由への問いと応答」というコミュニケーションの可能性の中で輪郭づけられるのであって、そうした可能性から離れて「脳」や「霊魂」といったモノの働きとして存在するわけではない。
つまり意図や信念は、指し示されうるようなものではなく、語られるもの(語られうるもの)である。行為の理由を語る中でまさに語られる当のもの、語られるまでもなく前提にされているもの、に他ならない。:これが、ライルがやりかけた課題に対する解答。 - ライルは、意図や信念といった心の働きを人々の行動の束に回収するが、本書ではそれを、人々が多様な場面で行為の理由を提示する際に語るもの(語りうるもの)として特徴づける。そうした無数の言語的実践全体において示されるもの、それが心の働きなのである。
- 心の働きを説明する因果過程の拡張
- 心の働きは物理的な因果過程で言い換えることができるが、それは脳内に限定された話ではなく、もっとはるかに広いものである。(←言語の全体論的性格による)
- デイヴィドソン:言語を理解しているというのは、意識に対応する脳の働きが生じることではなく、数多くの言語実践を積み重ね、生活していく十分な技術を身につけているということ。
「心の働きが物理的な過程に付随する」という場合、その物理的な過程とは、脳内で束の間生じた物理的過程のみを指すのではなく、その個人が長年の生活の中で言葉の意味を学び使用してきた周囲の環境や、その間に生じたさまざまな身体の運動や脳の活動などすべて、時間的空間的に極めて幅の広い複雑な過程全体を指す。 - 本書で問題にしてきたのは、あくまでも行為を成立させる心の働きであって、その他の感覚や感情が脳の働きと同一視できるかどうかは本書の関心の埒外にある。
第3章 行為の全体像の解明
- 「(図らずも)やってしまったことから、起こってしまったことを引いたら、後には何が残るのか?」
- 「意図的」と言える要素が完全に消え去る地点はどのような行為に見出しうるのか。
- 過失という行為には結果に関する運というものが大きく関わる場合がある。
- 「コントロールする能力をもっていた」ということだけで「コントロールできた」というのは、我々に対する過剰な要求になる。
- 「完全無欠の道徳的行為者」というファンタジー
- 行為者的視点(主観的視点)と傍観者的視点(客観的視点)の割りきれなさ
- 何が「不注意」で何が道徳的・法的な義務に対する違反であったかは、何らかの重大な悪い出来事が起こった後に遡及的に輪郭づけられる部分が大きい。
- そうして輪郭づけられた「不注意」が捏造だというわけではない。あくまでも、何か問題が起こってから「不注意」の内容がそれとして特定される順番になっている、ということである。
- 行為概念は「意図的にしたこと」と「自分の身に降りかかったこと」とをきれいに峻別することはできない。行為概念ははるかに曖昧で複雑なものなのである。
- われわれの人生は、部分的には意志の産物であり、部分的には運の産物である。両者は分かちがたい仕方で互いに支え合い、ひとつの網の目を形成している。
エピローグ 非体系的な倫理学へ