オープニング・タイトルのところがまず良かった。
災いの出てくる「後ろ戸」を閉じて鍵を掛けたところでタイトル画面が出る。
閉めるという行為が映画のオープニングとなって物語を開くというのがおもしろい。
全国を旅して扉を閉めていく物語で、「戸締まり」には災厄を封じ込めるという意味があるのだけれど、では扉を開くこと何もかもが災いに結びつけて描かれているかというとそうではなく、自転車の鍵を開けたり、草太を助けるために常世への扉を開けたり、肯定的な意味合いで描かれているものもある。映画内に出てくる扉や鍵の細かな開け閉めをすべて拾い上げていくとかなりの量になりそうで、たとえば電車のドアやオープンカーのループ開閉、あるいは草太の視点から見た瞳のまばたきなど、観客が必ずしも意識しないだろうものも含めてきちんと考えて描写しているはずだ。
常世への扉は閉じていて然るべきものであるとしても、それが開かなければ物語は生まれない。
封印が解かれてまたかかり、常世へと世界がつながれまた外れて、この映画はそのように開閉を繰り返して構成されている。
『君の名は。』が架空の災害を扱っていたのに対し、『すずめの戸締まり』でははっきりと東日本大震災を扱っている。すずめが過去の日記をめくるとき、日付が3.11に向かうのを見て、観客はもう心の準備ができている。あの日の朝、玄関の扉を開け「いってきます」と言って出ていき、そして戻らなかった無数の人々。
4歳だったすずめが17歳になるだけの時間が過ぎたあとにこうした弔いの物語がおこなわれる意味はどのようなものなのか。
(略)かつてはにぎやかだったのに今は廃れてしまった場所を目にすることが増えました。そのたびに疑問に思っていたのが、何かを始めるときは地鎮祭のような祈とうの儀式をするけれど、何かが終わっていくときはなぜ何もやらないんだろう、ということだったんです。人にはお葬式があるけれど、土地や街にはない。じゃあそれらを鎮めて祈ることで悼む物語はどうだろうという考えが、ここ何年かずっと、自分の中にあったんです。
(新海誠本)
中盤で東京に巨大地震が迫るとき、すずめたちを除いて誰にもそれを見ることができないのだけど、でも観客たちは、それがいつか来る可能性が高い現実の脅威であったと思い出すことになる。
このシーンはほんとうにおそろしいのだが、それは地震が迫ることをうまく視覚化しているからだと思う。ル・グウィンの『影との戦い』で魔法使いオジオンが地震を鎮めた話が出てくるのだが、地震を未然に防いだなら人々にはそのすごさはわからないよね?と思っていたものだが、『すずめの戸締まり』では巨大地震のエネルギーが視覚的に描写されているので、これが落ちたらとんでもないことになる……というのが観客に如実に伝わってくる。
ただこのシーンの恐怖も、描写だけが生み出しているわけではなく、阪神大震災や東日本大震災を知り、いつかはまたどこかで巨大地震が起こることを頭の片隅でわかっているわたしたちだからこそのものなのだろう。天災と背中合わせにあるこの列島に住む者、映画内で何度も鳴り響く緊急地震速報に耳が馴染んでいる者でなければ、真の意味で理解することはなかなかできない映画なのかもしれない。
震災を弔う映画だけど、物語としては、すずめが過去の自分へメッセージを与えるかたちでできている。
未来へ踏み出すための前向きなメッセージ。
最終的に現在の自分が過去の自分とどのように結びついていたのかが明かされる。
冷静に考えるとよくある設定かもしれない、と思ったりする。とくに『ハウルの動く城』を連想させるものがあるし、こういう展開のSFやファンタジーって他にもいろいろありそう。
でも、たとえありがちな物語展開なのかもしれなくても、これ実際見ているときは涙が止まらなくなりそうになって、それはストーリーテリングがほんとうによくできているからだというところははっきり言える。