“HELLO WORLD”
監督 : 伊藤智彦, 脚本 : 野崎まど
2019
量子コンピュータにシミュレートされた仮想世界での物語。
脚本は野崎まど。
展開に驚きがあって、最後の最後にどんでん返しがある……と謳われている映画。
舞台となる世界が仮想的なものであることは予告編でもいきなり言われてる設定なので、特段伏せる必要はないけれど、後半の展開と最後についてはたしかに肝なので伏せた方がいいかもしれない。
[以下ネタバレ含む]
現実世界を寸分違わず記録した仮想世界、というのが設定の中心にある。(ただし記録範囲は全世界ではなく、京都だけに限定される)
記録は外部から介入し内容を変えることができる。つまり単なる記録ではなく、シミュレートの機能がある。
この「シミュレートされた仮想世界」が入れ子状になっているのが作品全体の構造となっている。
- [レベル1]
2027年 堅書直実1をシミュレートした仮想世界
- レベル1より下位の世界をシミュレートしているアルタラ - [レベル2]
2037年 堅書直実2をシミュレートした仮想世界
- レベル1をシミュレートしているアルタラ
最後に堅書直実3が登場し、そこにはさらにレベル2をシミュレートしているアルタラが存在する、という構図が明らかにされる。
一応、最後の世界が「真の現実世界」だった……というオチとして受け取るべきものだとは思う。
でもこれ、最後の世界もまたさらに上位からシミュレートされた仮想世界だった、ということもありえる気がする。
アルタラというのは、原理はともかく、「無限の記憶容量(そして、おそらくは無限の演算能力)」を持つシミュレータ。この「無限」っていうところこそがポイント。単に能力の膨大さを示す形容的な語句じゃなくて、文字通りの無限に達していると捉えた方がよいのではないか。
あと、ふつうに考えると最後の世界(月面)が真の現実で、そこにあるアルタラが下位世界すべてを演算している、と考えられるけど、そうじゃなくて、むしろレベル1が実は始まりで、アルタラができたことによって上位の世界の方が創造された……と解釈することもできるのではないだろうか?(イーガンの『順列都市』的な創造主と被造物の逆転)(劇中で “開闢” とか言われてるし)
アルタラに能力・容量の制限がないのだとしたら、最後のようなメタ的転回(“さらに上位が存在した”)の無限の繰り返しが論理的に可能。
下方に無数のレベルを持つ世界であっても、無限の能力を持つアルタラだったらそれらすべてをまるごと記録・計算することができる。
どのようなレベルの世界であっても、そこから下の全レベルと共に包み込むさらに上位の世界がありえる。少なくともアルタラの能力という点では、この想定を不可能にする限界に達することはない。
どこまでいっても真の現実がなくて、入れ子構造を上方へ永遠に伸ばしていける──そういう状態がつくり出されたのであれば、それは “開闢” と言い表すのにふさわしいのではないか。
また、感情のクライマックス的な状態が再現されることによって「器」を「中身」に一致させることができる、というところも重要。
下位レベルから上位レベルへの侵犯という超越的なことが、毎回、恋愛感情が頂点に達することで果たされる──。ここがなんかもう、すごいな…と思った。恋愛の、言うなれば究極的状態。そういう状態にふたりが到達するたびに、上位宇宙が展開される、みたいな。
そしてそれは互いに反転することすらもあって(一行瑠璃の側からシミュレートしているのか、堅書直実の側からシミュレートしているのか)、どちらとも定まらぬまま無限に続いていく。一行瑠璃と堅書直実というふたりの関係は、無限に絡まり合って続くこの連なりに昇華しているのだ……と。
SF-ラブストーリーということで新海誠とよく比べられそうな気がするんだけど、このあたりはかなり一線を画している……というか、HELLO WORLD の独自性がはっきり見える。
いろんなものを強引にまとめてる側面もあるとはいえ、そういう暴走的で無理矢理、だけど極限収束的なラブストーリーというものは、わりと好み。