::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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Vanishing Twin “The Age of Immunology” (2019)



Age of Immunology



 ロンドンを拠点とするグループ。出身国も言語も異なる5人から成る。
 それぞれ熟練したミュージシャンで、複数のユニットに所属していたりマルチ・アーティストだったりする。メンバー各自の母語で歌われた曲が含まれている。演奏は精妙。サイケデリックと言うには落ち着いていて、ジャズ・ロックといった方がよい感じ。
 全体として、耽美性がある。そのあたりの志向は、メンバーの出生に絡むエピソード(一緒に生まれるはずだった双子)から取られたというユニット名の他、各曲のタイトルにも表れている。
 この世界観を確立しているのはまちがいなくヴォーカルラインだけど、それを基盤として支え厚みを与えているのはバックトラックであり、特に、うねり揺れ動くベースが寄与するところは大きい。



Vanishing Twin
Information
  Current Location   London & Margate, UK
  Years active  2015 -
  Current members   
    Cathy LucasVocals
    Susumu MukaiBass
    Valentina MagalettiDrums
    Phil M.F.U.synth, guitar
    Elliott Arndtflute, percussion
 
Links
  Officialhttps://www.vanishingtwin.co.uk/
    SoundCloud  http://www.soundcloud.com/vanishingtwin
    Instagram  http://www.instagram.com/vanishingtwinmusic
    bandcamphttps://v-twin.bandcamp.com/
  LabelFire Records  
https://www.firerecords.com/product/vanishing-twin-the-age-of-immunology/

ASIN:B07PRW64FX


古田徹也 “それは私がしたことなのか 行為の哲学入門”




それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門



 この前読んだ『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』の著者による2013年の本。書店で興味を引かれ読んでみたけど、読み終わるまで同じ著者だと気付かなかった。内容はけっこうおもしろかった。
 「〜として理解するためのそもそもの条件」というような考え方が特徴的。こういうものを追求することこそが哲学なのだと思う。
 全体としては「言語主義」的なところがある。心身問題で一元論にも二元論にも与さない第三の道を探るというなら、行き着く先はやはり「言語」となるのだろう。
 倫理学へ移行する第3章では、「割り切れなさ」というキーワードが印象に残った。


  • 全体構成
    • 第1章 行為の意図をめぐる謎
      • 自由意志とはそもそも何か
      • 「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」
      • [ウィトゲンシュタイン→ライル]
    • 第2章 意図的行為の解明
      • 心身問題における機能主義の批判的検討
    • 第3章 行為の全体像の解明
      • 行為の概念
      • 「(図らずも)やってしまったことから、起こってしまったことを引いたら、後には何が残るのか?」
      • [ウィリアムズ]
    • エピローグ 非体系的な倫理学



 第1章 行為の意図をめぐる謎

  • 「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」ウィトゲンシュタイン
      • この問いへの答として考えられるのは、「意図」というものになるだろう。だが「意図」とは実際のところ何なのか。
      • 意図にあたる現象として何を提示しても、無限後退に陥る。(内語することもイメージすることも、それ自体がひとつの行為である)
      • 出来事を引き起こす心の働きなど本当にあるのだろうか? 「心の働きが出来事を引き起こす」というモデル自体に問題があるのではないか。
      • ライルによる物心二元論批判:「出来事を引き起こす心の働き」などそもそも存在しない。カテゴリー・ミステイク。行為とは傾向性の発現にすぎない。心とは、客観的に観察可能なさまざまなふるまいや変化に他ならない。(行動主義)
      • 現代では物的一元論・唯物論的な見方が席巻している。しかしこうした見方は、「意図」を説明しきれているだろうか。
  • 科学的知見の検討
      • 環境的要因・身体的要因による決定論
        • 「大きな影響を及ぼしている」と「決定していること」は同じではない。傾向性を示しているにすぎない。
      • 会心理実験が示す結果ミルグラム実験など)
        • 人間は思っているよりもはるかに周囲の状況や条件に支配されやすいが、しかし完全に支配されることが示されたわけではない。
      • リベットの実験 (例の“0.5秒前に決まっている”という実験)
        • 「意図すること」と「意図を意識すること」は同じではない。(広く見られる混同)
        • というより、「意図を意識すること」とは何かがまったく明確にされていない。
        • 「意図する」ことに「意識する」ことと同様の始まりの瞬間があるかどうか自体が疑わしい。
        • 何かを自覚的に意識した瞬間の前に、そのこと自体を準備する脳内活動が起こっているということも充分にありえる。
        • つまり、まだ最初の問いから一歩も前に進んでいない。この実験で「意図」が解明されたわけでもなく、自由意志が否定されたわけでもない。
  • 心身問題に対する本書の立場
      • 心は非物質的な実体でもなければ、物的一元論者の言うような物質的な実体でもなく、付随するものでもなく、それらとは別の仕方で存在する。
  • その他
      • 「しよう」と「したい」の違い
        • 「しよう」:「意図」 … 行為論では、「しよう」を「コミットしている」と言う。
        • 「したい」:「欲求」 … 「したいけれどしようとはしていない」ことがある。
      • ある意図がある行為を実際に成立させるかどうかは、まさにその行為が成立しないかぎりはわからない。(行為とは基本的に「為されたもの」として回顧されるものである)
      • 何であれ行為をするには、それに関連して何ごとかを信じている必要がある。:信念
        • 日常で使われる意味とは少しずれている。「『…と信じている』という思い」とか「…と疑っていない」という感じの意味。多くのケースでは「知識」と言い換えられる。正しい事柄を適切な仕方で信じていること。


 第2章 意図的行為の解明

  • 意図と信念の諸特徴
      • 自覚的な意識を伴う必要がない。
      • 始まりの瞬間が問題にならない。
      • 極めて長時間持続しうる。
      • 様々に再記述できる(場合がほとんどである)。
      • 我々は多くの信念をもっている。
    • 以上を考えると、心の働きを単なる脳の働きに還元するのは無理がある。

  • 心をめぐる「一人称権威」の非対称性
      • 行為者の本当の意図が何であるかに関しては、一人称(行為者当人)に権威があり、他人との間に非対称性がある:一人称権威
    • 「隠蔽説」へ。(一元論「心は身体に宿る」もしくは二元論「心は実は身体である」)→どちらも、「心は(条件付きで)観察可能である」という立場。
    • しかしこれらには、意図と信念の諸特徴を説明しきれないという難点がある。
    • それらとは別の仕方・別のカテゴリーで特徴付け直す必要。→アンスコムデイヴィドソン
  • 「理由を問い、答える」という観点から行為を捉える
      • アンスコム:意図的行為というものは、「なぜそれをしたのか?」という問いに対して何らかの適切な説明が与えられうる場合に、それとして理解可能なものとなる。「なぜそれをしたのか?」という問いが受け入れられる(問いが機能する)ものが意図的行為である。
      • デイヴィドソン:「人はたまにはおかしなことをするけれども、基本的には自分がする行為の意味(理由・意図)をちゃんと知っているのだ」という寛容さを働かせているかぎり、我々はその人を精神的に健常な人物と見なしている。:寛容の原則
        • これはある人を理解可能な人物と見なそうとするならば絶対に採用しなければならない最低限の原則であり、自由に取捨選択できるようなものではない。「ちゃんと意味(理由)があって、意図的に行為したはず」という寛容さを発揮することが、その人を行為者として理解するためのそもそもの条件を構成する

  • これを用いて、「隠蔽説」とは別の説明
      • 発話した言葉の意味を話し手があらかじめ知っているというのは、話し手を理解可能な人物と見なすために、聞き手がそう回顧することを離れてはありえない。発話の後に聞き手がそれを振り返り、話し手に帰属させているものが「知っている」という心の働きなのであって、それは「話し手の脳内活動」などとは関係ない。
          • ここでいう「あらかじめ知っている」とは、「観察と解釈によらずに知っている」ということを意味する。
      • 心をめぐる自他の非対称性は、心の働きが身体内に隠されているから生じているのではない。行為者当人は自分がした行為の意味(理由・意図)を観察と解釈によらずに知っている一方で、それ以外の人々は、観察し、それを解釈することによって知るということが、非対称性の中身なのである。
          • 「意識していること(およびそれに対応する脳内活動)」と「知っていること」とは同一ではない。
      • そしてこの非対称性は、出来事を行為として、人を行為者として理解するためのそもそもの条件に由来する。すなわち、人を理解可能な人物と見なすためには、その人が基本的に自分のした行為の意図を観察と解釈によらずに知っていると推定することが不可欠だ、という点に由来している。
      • 意図は、理由への問いのコミュニケーション(およびその可能性)から離れて「脳」や「霊魂」といったモノの働きとして自立的に存在するのではない。
      • 一人称権威は、人を理解可能な人物と見なすためにいわば論理的に要請されている条件であり、むしろ事実がこの要請に従う必要があるのである。

  • 意図や信念は「語られうるもの」として存在する
      • 意図や信念を虚構の存在とすることも反実在論の立場を取ることもなく、それらが行為の実際の原因だと言うことができる。
        心の働きは「行為の理由への問いと応答」というコミュニケーションの可能性の中で輪郭づけられるのであって、そうした可能性から離れて「脳」や「霊魂」といったモノの働きとして存在するわけではない。
        つまり意図や信念は、指し示されうるようなものではなく、語られるもの(語られうるもの)である。行為の理由を語る中でまさに語られる当のもの、語られるまでもなく前提にされているもの、に他ならない。:これが、ライルがやりかけた課題に対する解答。
      • ライルは、意図や信念といった心の働きを人々の行動の束に回収するが、本書ではそれを、人々が多様な場面で行為の理由を提示する際に語るもの(語りうるもの)として特徴づける。そうした無数の言語的実践全体において示されるもの、それが心の働きなのである。
  • 心の働きを説明する因果過程の拡張
      • 心の働きは物理的な因果過程で言い換えることができるが、それは脳内に限定された話ではなく、もっとはるかに広いものである。(←言語の全体論的性格による)
      • デイヴィドソン:言語を理解しているというのは、意識に対応する脳の働きが生じることではなく、数多くの言語実践を積み重ね、生活していく十分な技術を身につけているということ。
        「心の働きが物理的な過程に付随する」という場合、その物理的な過程とは、脳内で束の間生じた物理的過程のみを指すのではなく、その個人が長年の生活の中で言葉の意味を学び使用してきた周囲の環境や、その間に生じたさまざまな身体の運動や脳の活動などすべて、時間的空間的に極めて幅の広い複雑な過程全体を指す。
      • 本書で問題にしてきたのは、あくまでも行為を成立させる心の働きであって、その他の感覚や感情が脳の働きと同一視できるかどうかは本書の関心の埒外にある。


 第3章 行為の全体像の解明

  • 「(図らずも)やってしまったことから、起こってしまったことを引いたら、後には何が残るのか?」
      • 「意図的」と言える要素が完全に消え去る地点はどのような行為に見出しうるのか。
      • 過失という行為には結果に関する運というものが大きく関わる場合がある。
      • 「コントロールする能力をもっていた」ということだけで「コントロールできた」というのは、我々に対する過剰な要求になる。
      • 「完全無欠の道徳的行為者」というファンタジー
      • 行為者的視点(主観的視点)と傍観者的視点(客観的視点)の割りきれなさ
      • 何が「不注意」で何が道徳的・法的な義務に対する違反であったかは、何らかの重大な悪い出来事が起こった後に遡及的に輪郭づけられる部分が大きい。
          • そうして輪郭づけられた「不注意」が捏造だというわけではない。あくまでも、何か問題が起こってから「不注意」の内容がそれとして特定される順番になっている、ということである。
      • 行為概念は「意図的にしたこと」と「自分の身に降りかかったこと」とをきれいに峻別することはできない。行為概念ははるかに曖昧で複雑なものなのである。
      • われわれの人生は、部分的には意志の産物であり、部分的には運の産物である。両者は分かちがたい仕方で互いに支え合い、ひとつの網の目を形成している。


 エピローグ 非体系的な倫理学









  

LOFT “and departt from mono games” (2019)



and departt from mono games






 LOFT の音源タイトルには、吃音的な言語感覚がまとわりついている。
 “iinnnn mm m my y yy ww wwaa y yyy” とか “SpOoKiii BleNzz 4 sPoOkii fReNzz” とか。そこまで全体が切り裂かれてなくても、“sSLABicks”、“shouldn wouldn couldn leavv” など、一部に文字の転置・重複を含んだものだったり。全般的に、独特の拘泥がはっきり感じ取れる。
 こうした表象は、彼女のサウンドをダイレクトに描き出したものだと言ってもいい。
 躓き、破砕、断片的な転倒。散乱するのは、そこに絡まり合うビート。一定の進行形態を取らず、随所で突っかかるリズム、隙なくパルス/グリッチが押し寄せる攪乱。かといって完全な混沌には陥らず。発語において、多少の吃音があっても全体の意味を受け取るには支障がないことと同じように。


 LOFT/ Aya Sinclair はマンチェスターを拠点とするプロデューサーで、これまでの音源としては、2017年のEP2枚と、2018年のアルバム “Ell Oh Eff Tea Too Oh Won Ate” などがある。
 “and departt from mono games” というタイトルのこの作品は、4曲入りのEP。エディットのコンピレーションだった “Ell Oh Eff Tea Too Oh Won Ate” よりも、EP “Three Settlements Four Ways” の方に近いけれど、リズムの散乱具合は少しばかり増していて、さらにエクスペリメンタルなものになっている。
 とくに M-2 “And Eats Itself and Eats Itself and Eats Itself”、M-4 “That Hyde Trakk”。ドラムンベースを出自としつつも、ノイズ要素をビートに昇華させる手法、断片的メロディを要所に配置してトラックを引き締める巧緻など、捉えがたくも洗練された技で無比の境地に達している。
 ビート・アプローチの先鋭性という点で言うと、バックグラウンドはそれぞれ異なっているが JLIN や NKISI あたりとの同時代性を強く感じさせる。






LOFT
Information
  Birth name  Aya Sinclair
  Current Location   Manchester, UK
 
Links
  SoundCloud  https://soundcloud.com/loftminduk
  Instagram  https://www.instagram.com/loft_aya/
  Twitterhttps://twitter.com/loft_aya
  LabelTri Angle Records  http://tri-anglerecords.com/

ASIN:B07QFD43R3


古田徹也 “ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考”




 概要

 ウィトゲンシュタイン前期の思想を示す重要文献『論理哲学論考』の全文詳解。(実際にはいくつか本論から離れた個所は省略されているので「全文」ではないが)
 『論考』の1節から最後の7節まで順を追って解説している。


 『論考』には、全文が番号付の節でできているという特徴がある。
 基幹となるのは次の7つの文章。

    1. 世界は、成立している事柄の総体である。
    2. 成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。
    3. 事実の論理像が、思考である。
    4. 思考とは、有意味な命題のことである。
    5. 命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、自分自身の真理関数である。)
    6. 真理関数の一般形式は、[ p, ξ, N(ξ) ] である。これは命題の一般形式である。
    7. 語りえないことについては、沈黙しなければならない。

 これらに対する補足が枝番号で細かく入れ子状に書かれていって全体を構成している。
 こうした節をいくつかまとめてそのつど解説しているのがこの本。

 著者によれば、『論考』で難解なのは3番台の節まで。このあたりまでの「写像」「命題」「名」といった論理形式の概念を押さえつつ、あとは『論考』が「言語の限界を見きわめる」という作業をおこなっているのだということを理解すれば、全体についていける。

 随所で例示が用意されているのがわかりやすい(『論考』はほとんど例示を出さない書物なので)。また、原理的に例示できないものもあるんだけど、そういうときはそれを明確に言ってくれるところがよい。『論考』を素直に前から読んでいくと躓く個所もあって、そうしたところでは後で出てくる内容を先取りして説明してくれていたりする。実際、『論考』は最初の1節の時点で既に相当わかりづらいのだが、そのあたりに特に親切な解説が集中している。1.13節の「論理空間」などは例文も多く示しながら説明されていて、理解しやすかった。
 『論考』で言われる「言語」というのが思考上の抽象的な究極概念であることなども、注意喚起がなされている。このあたりも『論考』を理解する上でのポイントだと思う。



 『論考』の目的

 これまでの哲学の問題のほとんどは言語使用の混乱から生じた擬似問題であり、『論考』は、言語の限界を明らかにすることで哲学の問題を解決しようとする「言語批判」の哲学。


 キーワード

世界の論理形式
  • 写像
    • 言語と世界を写像という関係で把握することが前半のポイント。
      どんな写像形式にも当てはまる写像形式一般の本質とは何か、というのが主要な問いのひとつにある。
  • 命題
    • 命題とは世界と射影の関係にある記号である。
    • 命題には意味の形式は含まれている(真か偽であるのに先立って、すでに意味を持っている)が、内容(命題が真か偽か)は含まれていない。すなわち、命題の意味が現実と一致しているか否かが含まれていない。(命題の意味とはその真理条件のこと)
    • 写像・命題だけでは、それが真であるか偽であるかはわからない。その真偽はアポステリオリな事柄(経験的な事柄)である。
    • 命題と呼びうるものすべてに共通する本質:命題の一般形式は、「事実はしかじかである」というもの
  • 論理的文法
    • 哲学の擬似問題を解決するために重要なのは、日常言語の見かけ上の論理形式に惑わされずに本当の論理形式を見通すこと。→論理的文法・真理表・概念記法


言語の限界を見極めるための概念 ──言語の究極 / 名(名辞)/ 要素命題

    • 『論考』での「言語」「名」「要素命題」といった概念は、語りうることの可能性を最大限担保するために要請された、抽象性の高い概念。
    • 『論考』で扱われる「言語」とは、最大限の表現能力を持ち、写像関係を語りうるメタ言語がもはや原理的に存在しないような、いわば〈究極の言語〉が想定されている。
      そのような究極を想定してもなお「語りえないこと」は何か、をあらかじめ定めることを『論考』は目指している。
    • 「名」や「要素命題」も、具体的にどういう対象を指しているのかは捉えがたい。(この点が『論考』を難解にしている原因のひとつでもある)
      「名」や「要素命題」、またそれと対になる「対象(物)」や「(最も単純な)事態」という概念は、「語りうる」ということの可能性を極限まで広げるために用いられたもので、これらが何であるかを例示できないということは、名や要素命題によって構成される〈究極の言語〉が、語りうることの一切を明確に語りうるということを保証する、不可欠の条件になっている。
    • その上で『論考』は、そうした究極の言語であってもなお語りえないものは何か、ということを考察していくわけである。


語りえないもの
  • 超越論的な条件
      • 世界がさまざまに具体的なあり方をするための前提条件(世界が何らかの経験的な内容を有する可能性の条件)
        世界の前提条件であるがゆえに、それ自体について有意味に語ることができない。
    • 1.
      • 写像は世界を写し取るが、究極の言語をもってしても、世界と写像のその対応関係自体を写像は写し取ることができない。言語と世界が共有する論理的性質(論理形式)は超越論的。
    • 2.
      • また、世界があることも超越論的である。すなわち、世界のあり方に先立ち、論理にも先立つ、それらの可能性の条件である。そして、そうであるがゆえに、我々はこの条件についていかようにも語りえない。その意味で、世界があることは神秘なのである。
      • さらに、「世界があること」と同様に超越論的なこととして、「私」というものが示される。
        世界の可能性はそもそも誰によって語られるのかと問うとき、独我論が姿を現す。
        世界の可能性を思考し、世界の具体的なあり方を知覚する主体は、世界のなかには存在しえない。むしろ、主体とは世界の限界それ自体のことだ。

  • 言語の限界
      • 論理的に不可能なこと(非論理的なこと)は我々には思考できない。(完全にランダムな文字列など)
      • 我々は、非論理的な命題を語ることができない。我々はどうあがいても、言語の外に出て、言語を用いずに考えることはできない。
      • ただしこれは、あらゆる事態は言語によって生み出された構築物にすぎない、と言っているわけではない。
        ウィトゲンシュタインが主張しているのは、〈世界は、我々が命題というかたちで語りうるのと同じあり方をしうる〉ということ、すなわち、〈世界がさまざまなあり方をしうるその可能性は、われわれがさまざまに命題をこしらえることができるその可能性と一致する〉ということでありそれ以上でも以下でもない。

  • 限界の越境
      • しかし、「語りえないもの」であるはずなのに、『論考』では語られてしまっているのではないか?
        5・6番台の節以降、限界の外側への越境がはっきりとおこなわれるようになってきている。



 

Daniel Brandt “Channels” (2018)



Channels [ボーナストラックのダウンロードコードつき]






 2018年のアルバム。Erased Tapes からのリリース。見落としてたけど最近聴いてみたらけっこう良かったので記録しておく。
 ざっくり言えば、生楽器とテクノを融合したようなタイプの作風。ギター/トロンボーン/ピアノなどによるポスト・クラシカルな感触を持ちつつ、はっきりしたビートで進行していく。
 ゆるやかなメロディライン、軽やかできれいな音が特徴。でもそこに確固としたリズムが伴われていて非常に動的、展開にも抑揚があり、全体として熱量がある。
 ループ要素が一貫してるわけでもないしビートチェンジしてる個所もあるので、明らかにテクノっぽいというほどではない。でも随所で4/4ビートが曲を牽引するリズミカルな構成だったり、低音部がしっかり扱われているところなどに、テクノとの同時代性が表れている。
 なかにはかなりBPMが高い曲もある。特に M-7 “Twentynine Palms” はアルバムのなかで最も激しい曲調で、疾走するトロンボーンとパーカッションがとてもダンサブル。
 こういうジャンル横断的なものを聴くことで逆にテクノの本質が見えてくるような感じもある。


 Daniel Brandt はロンドン/ベルリンを拠点とするプロデューサー。2008年から、ベルリンのエレクトロニック・ジャズのグループ Brandt Brauer Frick のひとりとして活動。2016年には Hauschka などと共に Steve Reich の “Six Pianos” にも参加している。



Daniel Brandt

ピーター・ワッツ “巨星”



“The Island and Other Stories”
 2019
 Peter Watts
 ISBN:4488746055



巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)

巨星 ピーター・ワッツ傑作選 (創元SF文庫)






 短編集。全11作品収載。全体として少し玉石混交なところはあるかも。
 “天使” “遊星からの物体Xの回想” “帰郷” “付随的損害” “巨星” “島” あたりはおもしろかった。

“天使 Malak”, 2010
遊星からの物体Xの回想 The Things”, 2010
“神の目 The Eyes of God”, 2008
“乱雲 Nimbus”, 1994
“肉の言葉 Flesh Made Word”, 1994
“帰郷 Home”, 1999
“炎のブランド Firebrand”, 2013
“付随的損害 Collateral”, 2014
“ホットショット Hotshot”, 2014
“巨星 Giants”, 2014
“島 The Island”, 2009

 なお、これらの作品のほとんどは、作者のウェブサイトで原文がCCLで公開されている。
 https://rifters.com/real/shorts.htm




  “ホットショット”
  “巨星”
  “島”

 この3作品は “Sunflower cycle” と呼ばれるシリーズの物語。
 なかでも “巨星” と “島” は、古典的な「機械による反抗」「機械と人間の対立」という図式を刷新したような話で、非常におもしろかった。

 銀河系中をジャンプ・ゲートのネットワークで結びつけようというプロジェクトを開始した人類。ゲートをつくるための小惑星改造船を、光速の20%のスピードで銀河系各所へ送り出す。船はAIが完全に制御しており、人間の乗員たちは長大な行程のほとんどを冷凍状態で過ごしている。数千人に及ぶ人員は単に多様性を確保する量的ストックであって、ゲート建造作業のときと、AIが処理できないイレギュラーな事態が発生したときだけ、彼らのうちわずかな人数が目覚めさせられる。
 ゲート建造船のひとつ〈エリオフォラ〉はそんなミッションを長いこと続けていたが、いつしか地球も太陽に飲み込まれてしまっただろうほどの時間が経過してしまう。もはや任務など無意味であるとして旅の中止を試みる乗員たち。しかし船のAI〈チンプ〉はそれを反乱とみなし、鎮圧しようとする。両者はかろうじて和解状態に至るが、以後、人間の乗員とAIとの潜在的対立が始まり、彼らを乗せたまま船は終わりのない旅を続けていく。
 ……というのがこのシリーズの基本的な設定。

 このAIが、予測もつかない行動を起こさないようにわざと愚かにつくられている、というのがおもしろいところ。それがチンプ(=チンパンジー)という名の由来だ。愚かといっても、人間のような直感的発想力を持たないという意味であって、計算能力が低いわけではない。敵に回れば手強い相手となる。他方、人間の乗員たちは柔軟な思考が可能であり人数も多いのだが、機械のように不老不死ではないので、冬眠の間のごくわずかな覚醒時間で活動するしかない。
 そのように制約を持った者同士が相手を出し抜こうと策を弄しつつも、完全に互いを切り捨てることもできず同じ船で過ごし続けるという、永遠の両竦み状態。無限の航行時間と刹那の覚醒活動の対比のなか、緊張と安定が奇妙に持続する両者の関係がこのシリーズの主たる魅力。

 作中時系列では、“ホットショット”、未訳の “The Freeze-Frame Revolution”、“巨星”、そして “島” という順に進む。この他に執筆途中の作品があり、“Hitchhiker” という名で作者のウェブサイトに隠されている*1。これらのうち “The Freeze-Frame Revolution” が、核心イベントである反乱を描いた話で、執筆自体はもっともあたらしい。“巨星” と “島” は反乱後。“ホットショット” は出航前、「望めばいつでもやめられること」を確認しようとする話で、後の「止められない旅」「止めさせてくれないAI」という状況につながる*2
 “The Freeze-Frame Revolution” は読んでいないけれど、反乱後の時代の方がこのシリーズの本題ではないかと思う。実際、時間幅で見てもそう。反乱が失敗しても、その後、何千万年、何億年という時間を乗員たちは生きていかなければならない(そして実際にそれだけの時間を生きた)のだから。
 “島” の最後で登場人物が考えるように、おそらくこの航行は終わることがなく、チンプを屈服させることもできないだろう。永遠の抗争/拮抗/停滞のなかで彼らにできるのは、かろうじて次善を模索していくということのみ。

 というように、勝利とハッピーエンドが訪れるような物語ではなく、それどころか明確な区切りや終わりといったものすらもないようなタイプのシリーズ。この基本的な構図、世界観に、けっこう心を揺さぶられた。
 一般に物語における勝利やハッピーエンドというものは、その後に持続するかどうかは不問とされている。だが現実世界の生には、到達しさえすればあとはどうでもいいという終幕や大団円などはない。
 そしてこのシリーズにも、同じような感じがある。しかし単に「物語などない現実の生」に似てるというだけではなくて、ここには一方で、紛うことなく「物語性」というものもある。終わりがなく解決にも至らない状況であるのにしっかりと成り立つ物語が。
 緊張ある拮抗。そのなかでも「敵」は地道にあらたな試みを講じてくるので、変化がまったくないわけでもない。“島” で描かれたように、宇宙には想像も及ばぬ形態の存在もいて、外部からのそうした刺激も、わずかにではあれ乗員にとって救いや安らぎといった効果を及ぼしていく。無限の航行時間を背景に、漸進的な変化が乗員たちの切り詰められた覚醒時間*3のなかでどのように関わってくるのかというように、異なる時間モードの流れの上で物語が構築される。終わりを迎える見込みなどない両竦みのなかで、いかにして生存していくのかという人々を描くものとして。
 だからこの物語は、解決不能な問題が続き、勝利にも大団円にも到達することのない現実社会を生きるに当たって切実に響いてくる。



  “帰郷”

 これは全体的な雰囲気がよかった。かなり根源的な恐怖を感じさせる。
 深海の恐怖というのもあるが、それよりも、思考力の減退、自我が失われていくという恐怖。
 長編 “Rifters” シリーズに拡張される話らしい。



  “天使”

 無人機が自己意識を持つまでの話……と思わせるけど、実はそうではない。「意識」「自我」があるかどうかははっきり否定されている。
 末尾で獲得されたものがあるとすれば、それは「自由意志」と呼ぶべきものだろう。——というか、実は自由意志ですらなくて、アズラエルは最後まで単にルールに従い続けているだけ。アズラエルは何も獲得していない。厳密にルールへ従う結果、あたかも人間/上位存在に反抗するかのような結果につながった、ということ。それを「自由意志」と呼ぶこともできる。むしろ、『法則に従っているだけなのに外部からはそれを「自由意志」と観察することができる、それこそが自由意志、ひいては自我というものなのだ』——ということなのかもしれない。でもほんとうはこの無人機に、自由意志も自我もない。
 ……そう、これは現実の人間に対してもまったく同じことを言うことができる。であればこそ逆説的に、末尾でのアズラエルも人間同等の存在なのだ、と言ってもいいのだ。こうした論理の過程を経た上であらためて『末尾で無人機が自我を獲得する』と言うことが可能となるような、手の込んだ物語になっている。

 そんなふうにこの作品は、『無人機が意識を持つ話』と思わせてそうではなく、でも再度の捻りがあってやはり実はそういう話なのだ、と読むことができるのだけど、最初SFマガジン掲載時に読んだときは表面的に『無人機が意識を持つ話』と誤読してしまっていて、いまさらながら自省している。(→ https://lju.hatenablog.com/entry/20110708/p1 )
 そもそもアズラエルは「意識」を導入された無人機ではなくて、「倫理性」を与えられた無人機。このあたりについては 視神経 - ピーター・ワッツ『巨星』に関するメモ というエントリが参考になった。指摘の通り、原語は ‘conscience’ であって ‘consciousness’ ではない。初出の石亀訳ではきちんと「良心」と訳されているが、今回の訳だと「意識」となってしまっている。

 ただ自分の場合、アズラエルが最後に自我を獲得するって最初思ってしまったのはこの訳語とはあまり関係なくて、『実験的に高度な判断力を持たされた無人機が登場する物語なら、最後には自己意識を獲得する終わり方になるだろう』っていう先入観を、読み始めてすぐ持ってしまったことの方が大きい。意識や自我なんてなくてもいいっていう世界観に立つ話なのに、でも意識が獲得された話であるかのように読んでしまう、それこそが人の意識概念が一般に持つ特徴なのだ——と言うこともできると思う。だから自分が陥った罠はまさしく意識という概念に不可避にまとわりつく本質的なものであって、その効果によって人間のコミュニケーション一般は成り立っている、みたいなことかもしれない。


 以上のような「読み」の問題がある一方で、この作品では「語り」というものも重要、という自分の認識は初読時から変わってはいない。アズラエルが意識を持つ存在のように見えるのは、何よりもまず、語りによって視座の位置に置かれているためだ。
 そして、語りの重要性という意味で考えるなら、今回の訳より、以前の石亀訳の方がよかった。このあたり、全般的な訳語についても前掲のエントリは参考になる。石亀訳の方が文体も良い、っていう点も同意。あの訳文はリズミカルでクールだった。原文の現在形表記もきちんと訳してたし。時制って、この作品を特徴付ける上で重要な機能を果たしてると思うのだが。


 あと、これ人間側の登場人物がちょっと謎なんだけど。
 この発話をおこなっている者は正規の技術者なのか、それとも不正な工作員なのか。ペルシャ語部分と英語部分が同じ人物なのか違う人物なのかも不明瞭。ペルシャ語ってことで一瞬「イラン?」って思ったけど、アフガニスタンでもペルシャ語系統の言語が話されてるらしいのでひとりはアフガン人と思ってよさそう。
 で、「オーバーライドし続ければ……」みたいなこと言ってるから、倫理的判断をあえて覆すことが意図的におこなわれているというのはわかる。(強制を繰り返すことで服従を強化するということだろうか)
 何であれ、オーバーライドできる者である以上、ふつうに考えれば〈天界〉つまりシンダンド空軍基地側の者ということだ。もし敵対者なのにオーバーライドできる技術があるなら、まわりくどいことせずにもっと直接的な破壊工作をしてただろうし。
 とはいえ、もし最後に〈天界〉へ反抗させたのが意図的な工作の結果なのだとしたら、アズラエルは自由意志を獲得したのだと読者に思わせておいて、その実、他者の意図の上を走らされていたにすぎなかった、という更に一段上の皮肉となる。
 ピーター・ワッツはそのぐらいのこと平気でやりそうなイメージだけど、「われわれが求めていた、善悪の判断力を持った殺し屋」という台詞が開発意図の通りなので、やはり最後の行動が計画的に引き起こされたようには思えない。むしろ、皮肉な結果がもたらされた、という描き方だろう。





 

*1: 
https://rifters.com/Eriophora-Root-Archive-Log-Ahzmundin-frag/derelict.htm

*2: 
「妨げられずに行動できる」という意味での自由意志論。(両立論的自由の概念)

*3: 
これがまさしく“The Freeze-Frame Revolution” というタイトルにある Freeze-Frame(コマ止めされた画像)という語で端的に表現されている。
 

イーガン “ビット・プレイヤー”



“Bit Players and Other Stories”
 2019
 Greg Egan
 ISBN:4150122237



ビット・プレイヤー (ハヤカワ文庫SF)

ビット・プレイヤー (ハヤカワ文庫SF)






 短編集。全6作品収載。
 おおまかに分けると、近未来3編(“七色覚” “不気味の谷” “ビット・プレイヤー”)、遠未来2編(“鰐乗り” “孤児惑星”)、並行世界の過去&現在が1編(“失われた大陸”)、といったところ。

 “七色覚 Seventh Sight”, 2014
 “不気味の谷 Uncanny Valley”, 2017
 “ビット・プレイヤー Bit Players”, 2014
 “失われた大陸 Lost Continent”, 2008
 “鰐乗り Riding the Crocodile”, 2005
 “孤児惑星 Hot Rock”, 2009




  “七色覚”

 これは映像作品化するとヴィジュアル的になんかすごいことになりそう。
 もしこの作品を映像化した場合、「〈七色覚〉の視覚像をテクノロジーで再現して体験する〈三錐体〉」という作中の関係をなぞり直すことにもなる。


  “不気味の谷

 長編 “ゼンデギ” でも出てきた「サイドローディング技術」を用いた作品。
 話としては、ミステリー的な構造。最後ちょっと曖昧にしてるけど、「心の安らぎをもたらしたかっただけ」という台詞で理解できる。

 サイドロードとは、簡単に言えば「必ずしも記憶が全部残らず性格も100%同一ではない状態への若返り」を意図してつくられた存在。しかし厳密なコピーやクローンというほどの同一性には至っていない。この作品の主人公も、オリジナルとは別人格であることをすごく意識している。またこの話のなかでは、オリジナルがサイドロードの記憶の一部を意図的に封じていて、それがより実質的で決定的な差異になっている。
 欠落した過去を現在の世界にある手がかりから外部情報として知ることと、自分の記憶機能の枷を物理的に解き放って知ることとは、意味合いが異なる。「記憶を取り戻す」というのは、それを知っていた自分を取り戻すこと。完全にではないにせよ、オリジナルの自分に近づいたということになる。
 オリジナルの職業が、脚本家という「物語をつくる営為」であるのもポイント。単に記憶を解放させただけでなく、そこにたどりつくまでの探索行がそのまま、あらたな/独立した自分の生を開始させる物語として価値を持っている。


  “ビット・プレイヤー”

 タイトルは、「端役」という元の語義と「ビット世界の住人」という意味をかけあわせたもの。
 この作品では、仮想世界の中しか描かれていない。仮想世界の外がどのような時代なのかは、はっきりしない。キャラクターたちの覚えている最後のアメリカ大統領がバラクオバマなのに、一方でこれだけの仮想世界技術が実現されてるというところで、明らかに時間のギャップがある。けれど、人間のあり方が大きく変わり恒星間航行も実現してるような時代まではおそらくいってなさそう。
 そういう意味ではひとまず近未来あたりに区分してよさそうに見えるけど、ほんとうのところはよくわからない。現実世界との実際の関係性が曖昧という点で他の5作品と区別することもできる。

 「被造物が創造主を越えようとする」といった内容自体については、SFマガジン掲載時点で感想を書いた。→ https://lju.hatenablog.com/entry/20140531/p1


  “失われた大陸”

 タイムトラベルとか並行世界とかが用いられてるけど、語られてる内容そのものは完全に現在の現実世界と共通する。
 難民および難民支援者たちに同情的・共感的な視点で書かれた作品。
 編訳者あとがきで、ゼロ年代のイーガンが小説執筆を中断するほど難民支援と抗議活動にコミットしてたことが書かれている。“要塞” “ゼンデギ” “万物理論” あたりを読めばこの問題に対する政治的スタンスはわかるけど、そこまで積極的に運動していたという事実は初めて知った。「現時点でイーガン唯一のタイムトラベルもの」とも解説されてる。科学的設定が顧みられていないこととも併せて、イーガン作品のなかではわりと異色な方だ。

 でもこれ、タイムトラベル設定にすることにどういう意味があるんだろう……? SFの伝統に「未来を描きつつも現実社会を風刺的に語る」という面があったことを考えるなら、この作品はSFらしいSFと言ってもよいかもしれない。しかし「寓話」と言うには現実世界をただありのまま描いてる感じではある。過去のイスラム世界からの難民を語ってるけど、別に現実の現在におけるシリアであってもよいような話だ。並行世界のフィクションだったらそれこそもっとよくわからないファンタジー世界から来たことにしてもいいのに、シーア派/スンニ派ってそのままだからなー…。いや、実在の民族・宗派を架空の設定でスライドさせるからこそ批評性があるのか?
 いずれにしてもイーガン本人にとってこのテーマが重要であるのはまちがいないわけで、他の作品にも直接的ではないにせよ影響を及ぼしているだろうことを考えると、この一編を収載したことには意義がある。なお、入管問題や難民受け入れ数に見られるように、日本という国はこうした内容以前の状況にあることは付記しておかなければならない。

 「宛先が書かれた手紙は必ず届ける規則 → 手紙が来る可能性が希望につながる」あたりは、ストレートに心を打つ。シビアな状況下でのこういった情感、これは他のイーガン作品ではほぼ見られない。
 長年の読者であればあるほど戸惑いそうな作品だけど、イーガンを理解する上では、この短編集のなかでもっとも重要な作品。


  “鰐乗り”

 長編 “白熱光” と共通する〈融合世界/孤高世界〉を舞台設定とした作品。
 イーガンの遠未来もののいつも通りで、デジタル化し、特定の肉体に固執することなく情報的存在となって宇宙の膨大な距離を移動できる知性体たちが主人公。事実上、不死の存在であり、科学的な試行をおこなうために平気で何千年・何万年もの客観時間経過を許容するような精神構造の持ち主。それなのに、暮らし方が妙に凡庸——というか、現在の生身の人間とそれほど変わらない生活/言動/思考をしてるのは、よくよく考えると気になるところ。
 自然科学についての会話内容は普遍性があるから変化しないのだと一応受け入れるとしても、しかし、たとえば会話の形式などはどうか。現代の人間と同様に、「互いに順番で発話をおこなう」といったような規則がこの遠未来の存在たちにも通じている。そういった諸々は、単にわれわれ現代の人間にも馴染みあるように翻訳されたものにすぎないと考えてもよいのだが……。でも、庭いじりとか、ふたつの性による夫婦形態とかについては、何万年も生きてきた存在がそんな現代人でも理解できる生活をするのか、もっと想像できないほど変化し続けるのではないか、とやっぱり思ってしまう。
 今の人間存在と大幅に変わってるところもあるけど、一方で今とそれほど変わらない部分もかなり残ってる。そういう「存続」を自明にしてるのが特徴で、言ってみれば保守的。

 ……こういう感想って、イーガン作品に対していまさらすぎることではあるけれども。
 でも “ビット・プレイヤー” で「どいつもこいつもきちんと設定構築しろよ、10歳の子どもでも5分でツッコミ入れられるような浅いものつくるな」みたいなこと言ってたことを考えると、じゃあイーガンが自然科学部分以外でも隙のない「ありそうな外挿」を徹底できてるかっていうとそんなことないよな、とは思う。まあ、「自然科学の普遍性」は絶対のものだけど「社会的・文化的なるもの(社会科学・人文科学)」はそういう普遍性は備えていない、だからそのあたりの設定は適当でいいんだ/適当にしかなりようがない——ということなのかもしれないが。

 だとしたら、自然科学以外の部分、社会的・文化的な設定の与え方にこそフィクションとしてのテーマが関わっているのだとも考えられる。遠未来における人類の末裔が実際にいれば今と何もかもが変容しててもおかしくないけれど、でもそんなわれわれとまったく連続するものがないのだったら、小説や文学は成り立ちづらくなってしまうし。
 これは次の “孤児惑星” で、主人公が睡眠周期を先祖の生物形態と同じあり方に意図的にこだわってるということにもつながる話。要は、何を残して何を変えているのか、そこに「意味」があるということだ。


  “孤児惑星”

 最後を飾るこれも〈融合世界〉シリーズ。
 “鰐乗り” もそうだけど、イーガンの遠未来ものの作品でなんかすごい技術・よくわからない事象が出てきたらだいたい正体はフェムトテクノロジー、ぐらいに考えてもいいんじゃないかって思うぐらいフェムトテクが大活躍してる。この頃の(ゼロ年代の)イーガンのなかで熱いトピックだったのかも。

 よく知られた「ナノテクノロジー」に対して「フェムトテクノロジー」というのは、単に大きさが違うだけじゃなくて(ナノ:10のマイナス9乗、フェムト:10のマイナス15乗)、質的にも異なる。フェムトマシンでは、人為的構造が安定する「存続時間」というファクターが重要になってくるからだ。“シルトの梯子” だと極小の時間に無限の演算をするような使われ方だし、“鰐乗り” だと、超相対論的速度での時間の遅れによって目的の観測活動に充分なだけの持続を確保する……といったように、単にサイズが小さいだけではなく、存続時間も小さいことをいかにうまく利用できている機構なのかが問題となってくる。
 そういったところは、かつてのSFで「何かすごいテクノロジーはとにかくナノテクによるもの」みたいな流行があったときの扱われ方とは違って、きちんと物理学的詳細を知ってないと簡単には書けない設定だ。
 この “孤児惑星” では、存続問題を解決した〈輪〉というものが出てきて、一連のフェムトマシンのアイデアのなかでもかなり先進的。ただその分、説明読んでも詳細はよくわからず難解。作中でも完全に仕組みが明かされてるわけではない。そもそもこういうのって、別に現実の物理学に認められた事実ではなくて単にそれっぽくこしらえられた設定にすぎないわけだけど、でもそれをつい忘れてしまうぐらい、なんか説得力はある。
 あと、〈円環派〉〈内螺旋派〉〈外螺旋派〉っていう区分もよかった。





 






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―Angela Mitchell