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epic45 “Through Broken Summer” (2018)



Through Broken Summer [ボーナストラック1曲のダウンロードコードつき]






 2011年の “Weathering” 以来、7年振りのアルバム。
 スタイルは何も変わっていない。期待するものがすべてそのまま維持されている。
 彼らが拠点とするイングランドの田園地帯を体現するようなサウンド。慎ましい農家や村といったものではなくて、見渡すかぎり連なる丘陵や、雲の混じる雄大な空、星を湛えて覆い被さる夜といったような、峻厳ではなくても人を圧倒する自然の情景。
 変わっていないというより、変えようがないスタイルなのだろう。様式的・技術的な挑戦は彼らの課題とはならない。追求するとすれば、さらなる洗練。
 そういう意味で言うと、本作品の完成度はこれまでのアルバムから比べてもかなり完成度が高いと思う。不動のスタイルを続けるグループへの形容としては常套すぎるかもしれないけれど、集大成、ということばを使いたくなってしまう。長いブランクを経て、良い方へ熟成しきった感じ。

 epic45って、何となく2人のミュージシャンがアコースティックに楽器を弾いているようなイメージを抱いてしまうけど、実際はシンセも使っているし、ドラムも含めゲストミュージシャンも参加して、多重的な音を展開している。
 穏やかにメロディをつむぎ始め、抑えながらも壮大に感情を高めていくという楽曲。単に素朴というようなものではなく、寸分の隙なく構成された情感描写というような。



Epic45
Information
  Current Location   Staffordshire, UK
  Years active  1995 -
  Current members   Ben Holton, Rob Glover
 
Links
  Officialhttp://www.epic45.com/
  Twitterhttps://twitter.com/epic45
  LabelWayside and Woodland  
http://store.waysideandwoodland.com/products/623472-epic45-through-broken-summer

ASIN:B07G234DH9


エイドリアン・オーウェン “生存する意識”



“Into the Gray Zone : A Neuroscientist Explores the Border Between Life and Death
 2017
 Adrian Owen
 ISBN:4622087359


生存する意識――植物状態の患者と対話する

生存する意識――植物状態の患者と対話する



 概要

 この本で問われていることは次のふたつ。

  • 植物状態と思われる患者に、実は意識があるとしたら?
  • 意識とは何か? 脳科学的に見たとき、何をもって意識の有無が判定できるか。

 前者は、植物状態の患者との意思疎通の試み。
 後者は「意識」に対する脳神経学的な探求。


 「植物状態での意識の有無」っていうのがまず、トピックとして端的に訴求力がある。
 この話って科学記事とかでたまに話題になることがあったけど、見返してみたらそのほとんどがこの著者に関連する研究だった。本書は、脳神経科学者である著者によるそうした研究のまとめ・振り返りのようなもの。
 「植物状態での意識」というトピックに対する自分の興味は、もし自分がそのように身体を動かせない状態になってそれでも知覚も思考も続いていたらどう感じるだろう……ということへの想像から来るもので、でもそういう状況ってほんとうは植物状態というより「閉じ込め症候群」の方が近い。閉じ込め症候群の患者とは、わずかではあっても意思疎通が可能だし、冒頭でも触れられている通り、まばたきだけで手記を書き上げたような事例もある。
 しかしこの本で著者が対象としているのは閉じ込め症候群とは違い、完全な植物状態と判定された患者たちの方。何の反応も見せない患者に対し、著者は脳スキャン技術を用いて意思疎通の方法を確立させていく。結果、植物状態なのに実は意識があると判明した患者が2割程度もいることがわかってきたらしいのだが、それには率直に驚きがある。
 意識があったというなら、植物状態ではなく閉じ込め症候群だった、と考えるべきだという気もしなくもない。しかし著者は植物状態と閉じ込め症候群に最初から区別を引いている。それは書中で語られているようにいくつかの私的体験の積み重ねから導かれたことなのだが、「まったく動くこともできずただ眠り続ける状態の患者」から本人の意識を「見つけ出そう」という点にこそ著者の研究モチベーションの大きな部分が向けられているからだ。



 内容

  • 研究
    • 植物状態の患者へ脳スキャンをおこない意識があるかどうかを調べる試み
    • [装置]
      • 最初はPETスキャン → 使用負荷・制限の少ない fMRI の導入で飛躍的進歩 → 今ではポータブルEEGによる出張調査もおこない、さらに可能性を拡げている
    • [方法]
      • 写真を見せる・音声を聞かせるなどによる反応を見る → 意識的な決定があれば意識の存在を証明できるという考えに基づき、「能動的課題」という方法へ → やがて「テニスのイメージ(=運動前野の活性化)」「自宅の空間ナビゲーション(=海馬傍回の活性化)」の二択による意思疎通へ。映画を見せて反応を調べるという方法も。
      • ただし成果の出ないテストもあった。方法は完璧ではない。

  • 意識とは
    • 意識とは何かについて、科学者の間に一致した定義はない。
      著者は、意図の存在を実証できれば意識も存在するという想定のもとに研究を進める。
      意図、つまり意図的決定を下すことこそが意識の証拠であると。
        • 理解と経験の区別
        • 意識の有無に関わると思われるものの例:言語 / 痛み / 決定
        • 意識の計測では、意識そのものではなく、意識があるという経験に関連する脳の変化を計測していることになる

  • 関連してくる問題
    • [倫理的問題]
        • 法的問題:延命と「死ぬ権利」
        • 意思疎通の内容の問題:彼らには意思疎通に応じる意識があるが、しかし自身に関わる重大な問題に答える判断能力まであるとまでは言えないのではないか。(「死にたいですか」「痛みがありますか」という質問の是非)
        • 研究の意義:本人には恩恵はないだろう。しかしいずれ他の患者に臨床的な恩恵がもたらされる見込みはある。とはいえ意識があるとわかることで本人にも良い方向へ寄与する可能性を、著者は信じている。(「スキャンによって見つけてくれた」と感謝する患者)
    • [哲学的問題]
        • 自由意志
        • 意識の還元主義的把握
    • [文学的問題]
      • おもしろかったのは、映画を見せることに対する脳反応を見ることで意識活動を探るという方法で、「ヒッチコック映画」が意識の有無を測るのに向いている、というところ。つまり意識の有無を探りやすい筋運び・演出というものがあるようなのだ。(脳科学的なナラトロジーというものを展開できる可能性)



 文章の特徴

 学術書という感じではなく、もっと軽い語り口で読み手を引き込むような文章。
 著者の人生体験が随所で語られる。わりと重いエピソードだと思うのだが、それが研究の動機付けや方向性にも直接関わっている。



 メモ
 
内面の把握
 脳スキャンを使った二択テストも、「質問」に対し脳反応で「答」を知るというやり取りなので、コミュニケーションの形式としては日常での会話と同じ。「脳スキャンで意思疎通」みたいに聞くとあたらしく思えるけれど、いまのところ広いコミュニケーションの一形態という範囲を決定的に超えてはいない。
 ただし今後、秘密を暴くとか記憶を読み取るというようなことが可能になったら、それはあたらしい事態を招くことになるかもしれない。
 とはいえそのような段階に到達したとしても、「世界は結局自分の視座から開かれることしかできない」という根源的な部分は不変だと思うので、哲学的な難題はどこまでも残り続けるだろうとは思う。
    • 脳スキャンで誰かの内面を余さず把握できるようになったり、他人と脳神経をつないで相手が感じている痛みを自分も感じることができるようになったりしたとして、でもそれらもやはり「自分」の視座から体験されることであり、「他人の内面」をそのままに体験することはできない。——というか「体験」は常に「自己」と結びついているので、「他人の内面」を体験するということがまず原理的なレベルで不可能。
    • 一方で、日常生活上、他人の内面は理解できるものとして振る舞われるという実態もある。内面がわかるときとわからないときがあるからこそ、「内面がわからない」ということが問題となる(有意味なものとなる)。
       
自由意志
 選ぶことのできる問いからの「決定」こそ意識の証だ、というのが本書を貫く根源的な仮定になっているわけだが、物理還元主義的立場からは基本的に否定されるだろう「自由意志」というものがここでは容認されることになっているのがおもしろい。ある意味、自由意志の存在証明を懸命におこなっているような本。
    • それは「決定」に至る前の因果的詳細までは探求されていないからだが……。
    • 「決定」を生む原因を脳科学で精彩に解明することはさすがに容易ではないと思う。問題が与えられたときどのような返答を返すかは、そう遠くない将来に高い確度で予想できるようにはなるだろうとしても。
 そもそも人間には「意識」というものがあるということも明白な前提とされていて、その存在に疑問は差し向けられていない。
    • 「意識」の定義はいろいろで、医学において「覚醒」や「認識」という概念と関連するものとしての「意識」が否定されていないのは当然。(「意識がある/ない」というフレーズが、たとえば救急現場では日常的に用いられている)
    • もっとも、「意識」を錯覚などとして否定あるいは格下げしてしまうのはむしろ哲学者の方なのかもしれない。







 

“バッド・ジーニアス”






“Bad Genius” (ฉลาดเกมส์โกง)
 Director : Nattawut Poonpiriya
 Thailand, 2017





 嘔吐するヒロイン。意図的に、しかも2回も。
 ……っていう点を言っとけばこの映画のおもしろさは充分要約できる気がする。

 タイの映画。高校生によるカンニングを題材にしたストーリー。
 現代的でスタイリッシュ。いかにしてカンニングを成功させるかというクライム・ムービーの軸があり、そこにユーモアも混ぜながらテンポよく進んでいく。
 込み入った手順で実行される最後の作戦がクライマックス、さまざまな感情がもつれ合ってほろ苦くも意志を感じさせるラストへつながる。


 どのキャラクターも良かったけれど、特に主人公のリン。
 いかにも秀才然とした風貌の冒頭から、やがて不正グループとしての活動を始め、大作戦を仕切るリーダーとなり、外観としても次第に垢抜けたものになっていく。最初から自信に満ち能力も充実しているキャラクターなので、別に内面の成長や社交性の獲得が外見に反映されていく…というようなわけでは全然ない。不正の只中へ浸かっていく過程がスタイル的な洗練によって表現されているという感じ。つまり、ピカレスク的なかっこよさを徐々に高めて最終ミッションの緊迫へと連なるという流れ。
 モデル出身ということもあって、たたずまいや眼差しに力がある。単なる天才、あるいは単なる犯罪者に納まらない屈折したキャラクターに合っている。白黒はっきり区分できないキャラクター、というのは、腐敗や格差、競争や駆け引きといったものが渦巻く社会的状況にあるからこそでもあるだろう。


 それから、折に触れ挿入されるインタビュー(尋問)のシーン。事後的にストーリーを振り返りながらキャラクター相互の本音の評価を語っているような内容なんだけど、これ失敗を予兆させるものに見えて実はミスリードなのが意外性あって良かった。サブキャラクターのひとりであるグレースは演劇もやっているキャラなので、どこまで演技なのかって思わせるものにもなっているし。(ちなみにリンがグレースに対して「演技やる方が勉強できるのよりよっぽど頭がいい」みたいに言うのは含蓄に富んだ台詞だと思う)
 すべてがフェイクと思いきや、全体を見てみるとそれなりに本心を語っているようにも見える。
 たとえばリンがバンクを父親と比較するところ。この両者は最後でも対比されていて、全体のテーマ構成で象徴的に扱われている。
 この映画、ストーリーはシンプルにエキサイティングなんだけど、テーマ面ではけっこう難解。心情や関係性がすぐわかるようなものとしては描写されていないので。ラストでリンがバンクの誘いに乗るのか乗らないかっていう局面も、どちらを選んでもすっきりまとまるようなものでもなく、結局、葛藤が最後まで残る。だからこそ、その上でリンがああいう行動を選んだということが意義深いのだが。
 ただ、分け前を拒否したっていうところはリンの内面を表す明快な部分だと思う。


 監督はもともとグラフィック・デザインを学んだ人で、PV制作などを経てこれが映画2作品目。そういうセンスは、OP/EDクレジットなどのデザイン志向にも表れている。





 

IMDb : https://www.imdb.com/title/tt6788942/

ニール・スティーヴンスン “七人のイヴ”



“Seveneves”
 2015
 Neal Stephenson




七人のイヴ ? (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ) 七人のイヴ ? (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ) 七人のイヴ III (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)





 原書は全一冊だけど、邦訳は第1部/第2部/第3部のそれぞれに分冊して全三巻での刊行。合計で1,000ページ以上に達する。
 第2部と第3部の変化は巨大。第1部と第2部の間ではそれほど変化はなく、漸進的に移り変わっていく感じ。第2部の後半から急加速的に転落していき、ひとつの極限点に達してそのまま第3部への激変につながっている。

 あらすじをひとことで言えば、人類規模でのサバイバル。
 あるとき何らかの宇宙的事象によって月が破壊されてしまうところから物語が始まる。物理計算の結果、月は衝突と細分化を繰り返し、やがて無数の隕石となって地球に降り注ぐことが判明。この隕石雨で地球上の生物は絶滅すると予測されたため、既設の宇宙ステーションを中核として軌道上に集住施設を構築し、限られた人類だけでも生き延びさせよう、という全人類合同のプロジェクトが実行される。困難はあっても人類の叡智が結集されて何とか施設は完成し計画通りに稼働、ついに〈ハード・レイン〉による大破壊が始まるのだが、居住者間での反目と分離、資源の枯渇など、次第にものごとがうまくいかなくなって、生存者数がどんどん減少していく……。

 科学的に極力正確であろうしているタイプのSF。
 各巻通じて、科学的描写のウェイトが非常に大きい。第1部・第2部では人類を生存させる工学的詳細、第3部ではまったく新奇な世界とそのテクノロジーなど、しばしばストーリーを中断させて冗長に感じさせるほどに。とはいえこの描写だから説得力と臨場感がある。


[以下ネタバレ含む]

続きを読む

はてなブログへの移行






はてなブログへ移行した。ずっとはてなダイアリーで書いていくつもりでいたけど、廃止予告されたのでさすがに移行する覚悟を決めた。


一応全エントリを移行。表示がうまくいかないものも多いので、少しずつ調整していくか、あまりにも古いものは放置するか、あるいは消すかも。
はてな記法のASIN表示や動画表示がそのままだとだめっぽい。
Archiveの一覧表示ページが前ほど見やすくないのがいまのところ困っている。
とはいえ比較的あっさりインポートできたし、プラットフォームが変わったとはしても、はてな自体がこうして今も存続していることには感謝している。




 Galcher Lustwerk “200% Galcher” (2018)



200% Galcher [Explicit]






 ディープでジャジーなヒップ・ハウス。
 場の雰囲気をこの上なく醸出しているタイプのアルバム。再現されているのは、薄暗いクラブやライブハウスに込められた気怠げでスモーキーな空気感。
 サックスやキーボード、シンセやドラムマシーン。それらのどれかひとつが突出するということなく規律的に全体へまとまっていて、ひとつの室内感覚とでもいうようなものが生み出されている。空間、ということばだけに尽くされず、その場の微かな反響や人の息吹も含めた体験の総体として。
 さらにここへ Lustwerk の抑制的なラップが加わっている。メッセージを主張するというより、その場から感性が自動記述している語りのようでもある。(“like, whatever phrase or term or combination of words ― come up, letting it come up and deciding if I want to do something with it or not.” FADER - Galcher Lustwerk interview
 あたかも他のサウンドと同列に扱われた要素のように聞くこともできるけれど、けれどもやはりこのラップは、言葉によって場の空気の描出をおこなっているという特別な要素として区別したい。それはこのアルバムがラップ入りの各曲に対してインストバージョンも収録していることに表れていると思う。ラップのありなしではっきり違いがあることが示唆されているのだ。
 かぎりなく音と溶け合ってはいるけれど、つぶやかれる言葉、語り手の気配といったもののごくごくわずかな存在感に意味があって、この空間に対して生命を与える最後の仕上げのように働いている。


 2013年、Blowing Up the Workshop のポッドキャストとしてリリースしたミックステープ “100% Galcher” によりデビューし注目された。
 “200% Galcher” は 2017年にリリースした “Dark Bliss” に続く正規アルバムの二作品目で、自身のレーベル Lustwerk Music から発表。





Galcher Lustwerk

Information
  OriginCleveland, Ohio, US
  Current Location   New York, US
  Years active  2013 -
 
Links
  Officialhttp://galcherlustwerk.tumblr.com/
    SoundCloud  https://soundcloud.com/galcher-lustwerk
    YouTube  http://youtube.com/galcherlustwerk
  LabelLustwerk Music  http://lustwerkmusic.com/

ASIN:B07CT5ZDYK


 “ゴードン・マッタ=クラーク展” 2018.06.19. - 2018.09.17.







ゴードン・マッタ=クラーク展
 Gordon Matta-Clark: Mutation in Space

 東京国立近代美術館





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f:id:LJU:20180813165451j:image:w320:left   Gordon Matta-Clark: Mutation in Space
   MoMAT, 2018


   《壁=紙》 Walls Paper

   《サーカス》模型 Model of Circus



 ゴードン・マッタ=クラークの作品は、都市や建築を対象に、切断や穿孔といった操作を施すことでつくられている。こうした作品を美術館であらためて展示することは、難しい試みだ。
 本展覧会の会場デザインを手がけた小林恵吾とキュレーターの三輪健仁の対談でも、サイトスペシフィックでパフォーマティヴなアートを美術館のホワイトキューブで展示するジレンマにどう取り組んだかが語られている。まず否定されるのは、マッタ=クラークの作風を模擬して壁を切り取ったりするような安易な方法。一方で、記録写真や作品断片の展示といった定石にも満足せず、こうしたものにとどまらない方法が模索された。
 かつて青木淳はこの同じ国立近代美術館で、ホワイトキューブの隙間に着目したインスタレーションをおこなったことがある(《連続と侵犯》 2002)。あれはホワイトキューブというものがどう成り立っているのかを直感的に浮き彫りにする良い試みだったと思う。
 だが本展覧会では、マッタ=クラークという展示対象が不可欠な文脈を成している。こうした前提の中でどのような会場デザインが可能か。
 カタログにおける三輪健仁と小林恵吾の対談は、興味深い内容を含んでいる。


このような課題を受けて今回採った方法は、まずはマッタ=クラークのコンセプトやアプローチから出発することでした。その出発点を端的に言うと、マッタ=クラークは「リアクション」の人であったということです。彼は自分が身を置く場や環境、文脈といった「対象」に反応し、その性質を読み取ることがとてもうまい。そして何かを取り除いたり、付加したり、ズラしたりとった介入行為によって、対象の有り様を変容させるわけです。ここで、私たちが今回の展覧会を行なう際には、リアクションし、ズラすべき対象のほうがマッタ=クラークになる、という反転が生じている点が重要です。
三輪健仁(カタログ p283 《変容の場としてのミュージアム》)

今回のご依頼を差し上げたときに小林さんがおっしゃったことで、すごく印象に残っていることがあります。マッタ=クラークは、無機質なホワイトキューブの外に自由を求め、都市の中でプロジェクトを行なったけれど、現代の都市の状況で同じことをやったとしても、それが本質的には「外に出る」ことにはならないのではないか、というご指摘です。というのも、現在の都市はいたるところ規制に満ちているからだと。そんな状況で、反転して、美術館という場所が一時的にでも自由を求める場所にならないかとおっしゃっていたのが、すごく面白かった。
三輪健仁(カタログ p284 《変容の場としてのミュージアム》)

[…] 都市の公共空間にしがらみや暗黙のルールみたいなものがたくさんあるということです。たとえば公園に行っても、すごい数の「やってはいけない行為」がリストアップして貼り出されている。他国では、当然のように行なわれているあらゆる行為が、日本の公共空間では極端に制限されている。[…]
今回の計画の中で、当初は美術館の中に都市を持ってくるイメージで考えていたのですが、都市自体にあまり自由な場所というイメージがないとすると、逆に与えられている展示空間内にて、ある程度自由な公園のような状態が作れないか、というようにプランの方向性が移っていった気がします。
小林恵吾(カタログ p284 《変容の場としてのミュージアム》)

たとえばチケットの裏を見ると、あれはやってはいけません、これはやってはいけませんと、いろいろな禁止事項が書いてある。それが今の美術館の制度、場所が持っているルールです。ところが一見長閑に見える「Playground」の案が成立すると、美術館の今までの空間の使われ方とは、全然違った場所が成立する可能性があるかもしれないという気がしました。この案は、冒頭に触れた、場の側から作品に介入する一形態として考えられるかもしれないと。
三輪健仁(カタログ p286 《変容の場としてのミュージアム》)


 この展覧会では、マッタ=クラークがもともと何を問題と捉えたのかというところよりも、彼の方法論を今どう用いるかという図式的側面に注力されている。「マッタ=クラークをいかに展示するか」という主題へのひとつのアプローチではあると思うし、自分としてもおもしろいと感じたものの、すべて共感できるとまではいかなかった面もある。
 特に「都市ではなく美術館」というロジックについては、理解できるところと納得いかないところの両方があった。ルールから逃れられていない美術館でも一時的に自由の場になると言い得るなら、美術館外でもそうした自由は可能のはずだろう。「一時的な自由」だったらどのみち「本質的な外」とは言えないのだし。そもそもマッタ=クラークの時代でも、美術館の外部にあらゆる規制から逃れた自由を期待できたわけではない。都市にはもちろん規制があった。彼の活動経歴において、そうした規制は大きく意味を持っている。都市内での彼の活動は遵法的ではなく、作品制作=建造物損壊に対して逮捕状も出されたりしているのだから。
 世界は以前よりも監視社会化していて、そうした意味で自由が減少してきているとは言えるだろうし、現代日本の公共空間が束縛的というのも、特に政治行動や社会的不寛容といった問題系から見るならば概ね妥当な認識だと思うのだが、しかしそれは、マッタ=クラークが美術館外に場を求めた話とは必ずしも重ならない。彼が脱しようとしていたのは美術の制度なのだから、社会のあらゆる規制や束縛から逃れようとしていたかのごとく括るのは、問題構成が微妙にずらされている。
 とはいえ、マッタ=クラークの時代では美術館内部に対して都市が相対的に自由であったのと同様、現代の日本では規制に満ちた都市に対して美術館内の方が相対的に自由となる可能性がある、という認識を受け入れるならば、マッタ=クラークの方法を反転して美術館内に用いるという方法が図式としてスマートであることは確かだと思う。本展覧会が行き着く “Playground” というコンセプトも、「変容」「転置」といったマッタ=クラークの方法がうまく応用されたものとして理解できる。


 この点で惜しむらくは、デザイン自体が結局のところ間仕切下地の露出だとか仮設建材の使用だとか、言ってみれば建築的解法のよくある常套に落ち着いてしまっているところだ。
 こうしたなかで、カタログp290の『検討模型の残骸のほうが、むしろ理想的なplaygroundの様相を呈している?』というキャプションがいみじくも示すように、完成した会場デザインよりもむしろ中途のさまざまなプロセスを含んだ総体の方が、問題に対する答として魅力的と映る。たとえばp285での検討段階の多数の模型案、p288での結局実現しなかった遊具的要素の案など。カタログに記載されている対談のテクストや検討資料の図版を見れば見るほど、「マッタ=クラークをいかに展示するか」という問いへは、この試行錯誤を展示することの方にこそ可能性があったのではないかと思えてくる。いくら活動を誘発する意図でデザインされているとはいっても美術館での展示は固定化されたものであり、これと比べるとアンビルトというものは、より原初的な「自由」を内在させているように見えるのだ。
 《スプリッティング》においてアーティスト・ブックでのコラージュ写真が作品表現の一環を成しているように、回顧展でマッタ=クラークをどう展示するかという問題への解は、このカタログに垣間見える苦闘の痕を除いては語れないのではないか、という気がしている。





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f:id:LJU:20180813165447j:image:w320:left   Gordon Matta-Clark: Mutation in Space
   MoMAT, 2018


   《スプリッティング》 Splitting

    展覧会カタログ





 






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell