::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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“センコロール 2”






センコロール 2 Cencoroll 2
 監督/脚本/作画 : 宇木敦哉
 2019




 監督/脚本/作画を宇木敦哉ひとりでおこなった2009年のアニメ『センコロール』の続編。
 今回も主要部分は宇木敦哉だけで制作しているが、上映時間は30分から75分へと大きく伸びている。登場人物も増え、物語としても若干アクティブなものになった。
 2014年に一度センコロール2公開の発表があったのだけど、結局延期、それからしばらく情報が途絶え、ようやくこのほど公開に至ったということからも、個人制作の労苦がうかがえる。もう制作中止かな…とも思ってたので、ちゃんと完成させたのはすばらしい。
 1と2を併せて『センコロール・コネクト』として6月29日から上映中。


 このシリーズの特徴は、「ゆるさ」と「動き」。
 物語は〈ドローン〉と呼ばれる超自然的な存在を中心にめぐるのだが、作品全体には、何とも言えない独特のゆるさがずっと漂っている。
 この雰囲気は、基本的には主人公テツの淡泊で動じない性格によるもの。もうひとりの主人公ユキはテツよりもずっと行動的で楽観的。とはいえ熱いわけでもなく、テツとの組み合わせだとまったり感が強調される。
 一方で、奇妙なクリーチャーたちが繰り広げる超常的なバトルの「動」の側面がある。ぬるぬる動き飛び回る不可思議な形体、その動画の激しさ。ここには単純に、視覚的な新鮮さと快感とがある。
 この緩/急という相反する方向性があって、それが作品内に共存しているのが大きな特徴。

 ただしこれ、必ずしもパーフェクトなバランスで編み合わさってはいない。
 強力なクリーチャーとそれを駆使するキャラクターが邂逅して、バトルが始まり思いっきり激しく展開していきそう、BGMも盛り上がってきたし……ってなったら何か急にBGMも止んで穏和な雰囲気に引き戻されて、っていう流れがけっこうあって、ふたつの方向性が衝突し合っている感じがないこともない。1もそうだったけど2でもやはりそういう傾向。
 そして困ったことに、両方にそれぞれ魅力がある。配分の問題というか、もっと緩急をはっきりさせた方がよいような……。
 でもやっぱりこの「ゆるさ」というのが重要で、ふつうだったら熱闘に移行しきってしまうところ、むしろそれを押し止めようとしてこうなってる気もする。単なる激しいバトルものにして終わらせたくない、っていう意志が見えるような。

 ゆるさを生む大きな要因は明らかにテツのキャラクターなのだが、達観や諦観っていうわけでもないし、超絶的な力を持つことの自信の裏返し、ってわけでもないし……。ただ乾いてる、っていう感じがある。変えようのない監督の人生観の表れなのか。
 ハリウッド的文法のような定型に絶対に沿わなければおもしろい映画にならない、なんてことはないし、そういう意味でこの作品は王道からだいぶ逸れてるとは思うけど、代わりに、独特の感覚が満ちている。


 で、まあとにかく「動き」がとても良い。
 1もそうだったけど2はさらに。特に最初の海岸のところ。
 あと、1もそうだったけど2でも、クリーチャーの口の中に飲み込まれていく(乗る)ところがすごく気持ちよさがある。
 全体的に「動き」を満喫できるアニメだと思う。


 さらに続編ありそうな終わり方。というか、『センコロール3』の制作決定が公開初日舞台挨拶で既に発表されている。
 




 

The Caretaker “Everywhere At The End Of Time” (2016-2019)



Everywhere at the End of Time [Analog] EVERYWHERE AT THE END OF TIME: STAGE 2 [LP] [Analog] EVERYWHERE AT THE END OF TIME: STAGE 3 [LP] [Analog] Everywhere At The End Of Time: Stage 4 [Analog] Everywhere At The End Of Time: Stage 5 [Analog] Everywhere at the End of Time: Stage 6 [Analog]


 概要

 アンビエント・ミュージックが行き着いたひとつの極北と言っていいと思う。

 The Caretaker はマンチェスター出身のジェームス・カービーによるプロジェクトで、「記憶」をテーマとしたアンビエント/ノイズの作品をつくり続けている。
 “Everywhere at the end of time” は 6枚のアルバムから成るシリーズ。2016年のステージ1から2019年のステージ6まで3年かけて完結したもので、全50曲・計6時間31分の作品。まとまった音源は Bandcamp から入手できる。https://thecaretaker.bandcamp.com/album/everywhere-at-the-end-of-time


 減退過程

 この長大な作品は、全体を通して認知症の進行を表現したものだと説明されている。
 記憶と認識が緩やかに減退し、終極へと向かう経路。
 全50曲をかけて、メロディをもった曲が次第にノイズを増していって、やがて何もかも壊れていく──というような過程が描かれている。
 どこか好きなトラックから聴いていけばいいという音楽ではない。この作品を理解するには、どうあっても最初から順に聴いていって最後へたどり着かなければならない。

 ステージ1は、1930年代のジャズ〜ラウンジ・ミュージックに微かなノイズが混ざるというつくりになっている。
 穏やかでどこか甘美なサウンドは、満ち足りた若年期の日々を思わせる。被せられたノイズはそのままアナログ・レコードのノイズのようでもあって、前世紀メディアの痕跡として「過去」を想起させるし、あるいは、記憶が劣化していくことを示したものとも受け取れる。
 ステージ2・ステージ3と進むにつれて、徐々にノイズは増していき、強くリバーブがかかるようになってくる。やがて音像のなかでのバランスは逆転し、過去を醸し出すラウンジ・ミュージックはノイズの背後に薄れていく。ところどころでメロディが「正常」に戻るような局面もあるけれど、全体としてははっきり不可逆的に進む。
 ステージ4・5では相当に「症状」が進行し、完全なノイズ・ミュージックとなっていく。漸進的に体験していくと違和感を覚えないけど、あらためて比較して聴いてみると、最初の方の曲とのあまりの落差にけっこう衝撃を受ける。曲の長さもここからは軒並み20分超に。ゆるやかに追っているからこそ聴けるものの、いきなりこのあたりの純粋なノイズ曲から聴き始めていたら抵抗あったかもしれない。最初の「まともな状態」のメロディアスな楽曲があったから後半のノイズが許容できる面がある。
 原型を留めぬメロディの残骸のなかに、しかしノイズとのわずかなトーンの差が感知できて、離散的なそれらを脳が拾ってメロディらしきものが認識されていく……というか、ノイズのなかのわずかな手がかりを脳がより合わせて、自分が最初の方で聴いたメロディが記憶から再現されているというような。
 こうしたところはほんとうに全体構成の妙だと思う。

 そしてたどり着く終極点。
 ステージ6後半では、ついにノイズも消え、広大な空間を感じさせるドローン・サウンドアンビエントが訪れる。虚無、というか、人を超越した深みというような域が。だがそれは、どこかやすらぎを感じさせるトーンのものでもある。
 突如それは途絶し、替わって現れるのは、レコードノイズの混ざったメロディと歌唱。
 ……6時間31分の行程を締めくくるのは、45秒ほどの純粋な空白。


 コニー・ウィリスが書いた『航路』というSF小説があるのだが、あの作品では、人間の生命活動が終わり意識が完全に消え去る直前に、限りなく濃密に凝縮された「死後」が現れる。
 "Everywhere At The End Of Time" がたどり着く空白は、『航路』が描いたあの極致にも似ている。
 最後の瞬間に、生の記憶すべてを使ってつくられた無限の時間。
 『航路』は小説として言葉を使ってこの無限を示したのだけど、"Everywhere At The End Of Time" は、同時的に音楽を聴いていくプロセスを通じて、これを追体験させる。絶対的な無と、その直前にある境地を。


 テキスト

 各曲のタイトルが非常に示唆的で、曲そのものをさらに補完している。
 たとえば、
  A1 “It's Just A Burning Memory”
  C5 “Surrendering To Despair”
  D1 “I Still Feel As Though I Am Me”
  F6 “An Empty Bliss Beyond This World”
 など。

 特にステージ6のタイトルはどれも印象深い。
  O1 “Confusion So Thick You Forget Forgetting”
  P1 “A Brutal Bliss Beyond This Empty Defeat”
  Q1 “Long Decline Is Over”
  R1 “Place In The World Fades Away”



The Caretaker
Information
  Birth name  James Leyland Kirby
  OriginManchester, UK
  Born1974
  Years active  1996 -
 
Links
  Bandcamp  https://thecaretaker.bandcamp.com/
  LabelHISTORY ALWAYS FAVOURS THE WINNERS
https://www.brainwashed.com/vvm/

ASIN:B01LXZTOFR, ASIN:B071QWF91V, ASIN:B0768NXJRB, ASIN:B07C5HNBTQ, ASIN:B07HSR2L4J, ASIN:6317788936


Vanishing Twin “The Age of Immunology” (2019)



Age of Immunology



 ロンドンを拠点とするグループ。出身国も言語も異なる5人から成る。
 それぞれ熟練したミュージシャンで、複数のユニットに所属していたりマルチ・アーティストだったりする。メンバー各自の母語で歌われた曲が含まれている。演奏は精妙。サイケデリックと言うには落ち着いていて、ジャズ・ロックといった方がよい感じ。
 全体として、耽美性がある。そのあたりの志向は、メンバーの出生に絡むエピソード(一緒に生まれるはずだった双子)から取られたというユニット名の他、各曲のタイトルにも表れている。
 この世界観を確立しているのはまちがいなくヴォーカルラインだけど、それを基盤として支え厚みを与えているのはバックトラックであり、特に、うねり揺れ動くベースが寄与するところは大きい。



Vanishing Twin
Information
  Current Location   London & Margate, UK
  Years active  2015 -
  Current members   
    Cathy LucasVocals
    Susumu MukaiBass
    Valentina MagalettiDrums
    Phil M.F.U.synth, guitar
    Elliott Arndtflute, percussion
 
Links
  Officialhttps://www.vanishingtwin.co.uk/
    SoundCloud  http://www.soundcloud.com/vanishingtwin
    Instagram  http://www.instagram.com/vanishingtwinmusic
    bandcamphttps://v-twin.bandcamp.com/
  LabelFire Records  
https://www.firerecords.com/product/vanishing-twin-the-age-of-immunology/

ASIN:B07PRW64FX


古田徹也 “それは私がしたことなのか 行為の哲学入門”




それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門

それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門



 この前読んだ『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』の著者による2013年の本。書店で興味を引かれ読んでみたけど、読み終わるまで同じ著者だと気付かなかった。内容はけっこうおもしろかった。
 「〜として理解するためのそもそもの条件」というような考え方が特徴的。こういうものを追求することこそが哲学なのだと思う。
 全体としては「言語主義」的なところがある。心身問題で一元論にも二元論にも与さない第三の道を探るというなら、行き着く先はやはり「言語」となるのだろう。
 倫理学へ移行する第3章では、「割り切れなさ」というキーワードが印象に残った。


  • 全体構成
    • 第1章 行為の意図をめぐる謎
      • 自由意志とはそもそも何か
      • 「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」
      • [ウィトゲンシュタイン→ライル]
    • 第2章 意図的行為の解明
      • 心身問題における機能主義の批判的検討
    • 第3章 行為の全体像の解明
      • 行為の概念
      • 「(図らずも)やってしまったことから、起こってしまったことを引いたら、後には何が残るのか?」
      • [ウィリアムズ]
    • エピローグ 非体系的な倫理学



 第1章 行為の意図をめぐる謎

  • 「私が手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いたとき、後に残るのは何か?」ウィトゲンシュタイン
      • この問いへの答として考えられるのは、「意図」というものになるだろう。だが「意図」とは実際のところ何なのか。
      • 意図にあたる現象として何を提示しても、無限後退に陥る。(内語することもイメージすることも、それ自体がひとつの行為である)
      • 出来事を引き起こす心の働きなど本当にあるのだろうか? 「心の働きが出来事を引き起こす」というモデル自体に問題があるのではないか。
      • ライルによる物心二元論批判:「出来事を引き起こす心の働き」などそもそも存在しない。カテゴリー・ミステイク。行為とは傾向性の発現にすぎない。心とは、客観的に観察可能なさまざまなふるまいや変化に他ならない。(行動主義)
      • 現代では物的一元論・唯物論的な見方が席巻している。しかしこうした見方は、「意図」を説明しきれているだろうか。
  • 科学的知見の検討
      • 環境的要因・身体的要因による決定論
        • 「大きな影響を及ぼしている」と「決定していること」は同じではない。傾向性を示しているにすぎない。
      • 会心理実験が示す結果ミルグラム実験など)
        • 人間は思っているよりもはるかに周囲の状況や条件に支配されやすいが、しかし完全に支配されることが示されたわけではない。
      • リベットの実験 (例の“0.5秒前に決まっている”という実験)
        • 「意図すること」と「意図を意識すること」は同じではない。(広く見られる混同)
        • というより、「意図を意識すること」とは何かがまったく明確にされていない。
        • 「意図する」ことに「意識する」ことと同様の始まりの瞬間があるかどうか自体が疑わしい。
        • 何かを自覚的に意識した瞬間の前に、そのこと自体を準備する脳内活動が起こっているということも充分にありえる。
        • つまり、まだ最初の問いから一歩も前に進んでいない。この実験で「意図」が解明されたわけでもなく、自由意志が否定されたわけでもない。
  • 心身問題に対する本書の立場
      • 心は非物質的な実体でもなければ、物的一元論者の言うような物質的な実体でもなく、付随するものでもなく、それらとは別の仕方で存在する。
  • その他
      • 「しよう」と「したい」の違い
        • 「しよう」:「意図」 … 行為論では、「しよう」を「コミットしている」と言う。
        • 「したい」:「欲求」 … 「したいけれどしようとはしていない」ことがある。
      • ある意図がある行為を実際に成立させるかどうかは、まさにその行為が成立しないかぎりはわからない。(行為とは基本的に「為されたもの」として回顧されるものである)
      • 何であれ行為をするには、それに関連して何ごとかを信じている必要がある。:信念
        • 日常で使われる意味とは少しずれている。「『…と信じている』という思い」とか「…と疑っていない」という感じの意味。多くのケースでは「知識」と言い換えられる。正しい事柄を適切な仕方で信じていること。


 第2章 意図的行為の解明

  • 意図と信念の諸特徴
      • 自覚的な意識を伴う必要がない。
      • 始まりの瞬間が問題にならない。
      • 極めて長時間持続しうる。
      • 様々に再記述できる(場合がほとんどである)。
      • 我々は多くの信念をもっている。
    • 以上を考えると、心の働きを単なる脳の働きに還元するのは無理がある。

  • 心をめぐる「一人称権威」の非対称性
      • 行為者の本当の意図が何であるかに関しては、一人称(行為者当人)に権威があり、他人との間に非対称性がある:一人称権威
    • 「隠蔽説」へ。(一元論「心は身体に宿る」もしくは二元論「心は実は身体である」)→どちらも、「心は(条件付きで)観察可能である」という立場。
    • しかしこれらには、意図と信念の諸特徴を説明しきれないという難点がある。
    • それらとは別の仕方・別のカテゴリーで特徴付け直す必要。→アンスコムデイヴィドソン
  • 「理由を問い、答える」という観点から行為を捉える
      • アンスコム:意図的行為というものは、「なぜそれをしたのか?」という問いに対して何らかの適切な説明が与えられうる場合に、それとして理解可能なものとなる。「なぜそれをしたのか?」という問いが受け入れられる(問いが機能する)ものが意図的行為である。
      • デイヴィドソン:「人はたまにはおかしなことをするけれども、基本的には自分がする行為の意味(理由・意図)をちゃんと知っているのだ」という寛容さを働かせているかぎり、我々はその人を精神的に健常な人物と見なしている。:寛容の原則
        • これはある人を理解可能な人物と見なそうとするならば絶対に採用しなければならない最低限の原則であり、自由に取捨選択できるようなものではない。「ちゃんと意味(理由)があって、意図的に行為したはず」という寛容さを発揮することが、その人を行為者として理解するためのそもそもの条件を構成する

  • これを用いて、「隠蔽説」とは別の説明
      • 発話した言葉の意味を話し手があらかじめ知っているというのは、話し手を理解可能な人物と見なすために、聞き手がそう回顧することを離れてはありえない。発話の後に聞き手がそれを振り返り、話し手に帰属させているものが「知っている」という心の働きなのであって、それは「話し手の脳内活動」などとは関係ない。
          • ここでいう「あらかじめ知っている」とは、「観察と解釈によらずに知っている」ということを意味する。
      • 心をめぐる自他の非対称性は、心の働きが身体内に隠されているから生じているのではない。行為者当人は自分がした行為の意味(理由・意図)を観察と解釈によらずに知っている一方で、それ以外の人々は、観察し、それを解釈することによって知るということが、非対称性の中身なのである。
          • 「意識していること(およびそれに対応する脳内活動)」と「知っていること」とは同一ではない。
      • そしてこの非対称性は、出来事を行為として、人を行為者として理解するためのそもそもの条件に由来する。すなわち、人を理解可能な人物と見なすためには、その人が基本的に自分のした行為の意図を観察と解釈によらずに知っていると推定することが不可欠だ、という点に由来している。
      • 意図は、理由への問いのコミュニケーション(およびその可能性)から離れて「脳」や「霊魂」といったモノの働きとして自立的に存在するのではない。
      • 一人称権威は、人を理解可能な人物と見なすためにいわば論理的に要請されている条件であり、むしろ事実がこの要請に従う必要があるのである。

  • 意図や信念は「語られうるもの」として存在する
      • 意図や信念を虚構の存在とすることも反実在論の立場を取ることもなく、それらが行為の実際の原因だと言うことができる。
        心の働きは「行為の理由への問いと応答」というコミュニケーションの可能性の中で輪郭づけられるのであって、そうした可能性から離れて「脳」や「霊魂」といったモノの働きとして存在するわけではない。
        つまり意図や信念は、指し示されうるようなものではなく、語られるもの(語られうるもの)である。行為の理由を語る中でまさに語られる当のもの、語られるまでもなく前提にされているもの、に他ならない。:これが、ライルがやりかけた課題に対する解答。
      • ライルは、意図や信念といった心の働きを人々の行動の束に回収するが、本書ではそれを、人々が多様な場面で行為の理由を提示する際に語るもの(語りうるもの)として特徴づける。そうした無数の言語的実践全体において示されるもの、それが心の働きなのである。
  • 心の働きを説明する因果過程の拡張
      • 心の働きは物理的な因果過程で言い換えることができるが、それは脳内に限定された話ではなく、もっとはるかに広いものである。(←言語の全体論的性格による)
      • デイヴィドソン:言語を理解しているというのは、意識に対応する脳の働きが生じることではなく、数多くの言語実践を積み重ね、生活していく十分な技術を身につけているということ。
        「心の働きが物理的な過程に付随する」という場合、その物理的な過程とは、脳内で束の間生じた物理的過程のみを指すのではなく、その個人が長年の生活の中で言葉の意味を学び使用してきた周囲の環境や、その間に生じたさまざまな身体の運動や脳の活動などすべて、時間的空間的に極めて幅の広い複雑な過程全体を指す。
      • 本書で問題にしてきたのは、あくまでも行為を成立させる心の働きであって、その他の感覚や感情が脳の働きと同一視できるかどうかは本書の関心の埒外にある。


 第3章 行為の全体像の解明

  • 「(図らずも)やってしまったことから、起こってしまったことを引いたら、後には何が残るのか?」
      • 「意図的」と言える要素が完全に消え去る地点はどのような行為に見出しうるのか。
      • 過失という行為には結果に関する運というものが大きく関わる場合がある。
      • 「コントロールする能力をもっていた」ということだけで「コントロールできた」というのは、我々に対する過剰な要求になる。
      • 「完全無欠の道徳的行為者」というファンタジー
      • 行為者的視点(主観的視点)と傍観者的視点(客観的視点)の割りきれなさ
      • 何が「不注意」で何が道徳的・法的な義務に対する違反であったかは、何らかの重大な悪い出来事が起こった後に遡及的に輪郭づけられる部分が大きい。
          • そうして輪郭づけられた「不注意」が捏造だというわけではない。あくまでも、何か問題が起こってから「不注意」の内容がそれとして特定される順番になっている、ということである。
      • 行為概念は「意図的にしたこと」と「自分の身に降りかかったこと」とをきれいに峻別することはできない。行為概念ははるかに曖昧で複雑なものなのである。
      • われわれの人生は、部分的には意志の産物であり、部分的には運の産物である。両者は分かちがたい仕方で互いに支え合い、ひとつの網の目を形成している。


 エピローグ 非体系的な倫理学









  

LOFT “and departt from mono games” (2019)



and departt from mono games






 LOFT の音源タイトルには、吃音的な言語感覚がまとわりついている。
 “iinnnn mm m my y yy ww wwaa y yyy” とか “SpOoKiii BleNzz 4 sPoOkii fReNzz” とか。そこまで全体が切り裂かれてなくても、“sSLABicks”、“shouldn wouldn couldn leavv” など、一部に文字の転置・重複を含んだものだったり。全般的に、独特の拘泥がはっきり感じ取れる。
 こうした表象は、彼女のサウンドをダイレクトに描き出したものだと言ってもいい。
 躓き、破砕、断片的な転倒。散乱するのは、そこに絡まり合うビート。一定の進行形態を取らず、随所で突っかかるリズム、隙なくパルス/グリッチが押し寄せる攪乱。かといって完全な混沌には陥らず。発語において、多少の吃音があっても全体の意味を受け取るには支障がないことと同じように。


 LOFT/ Aya Sinclair はマンチェスターを拠点とするプロデューサーで、これまでの音源としては、2017年のEP2枚と、2018年のアルバム “Ell Oh Eff Tea Too Oh Won Ate” などがある。
 “and departt from mono games” というタイトルのこの作品は、4曲入りのEP。エディットのコンピレーションだった “Ell Oh Eff Tea Too Oh Won Ate” よりも、EP “Three Settlements Four Ways” の方に近いけれど、リズムの散乱具合は少しばかり増していて、さらにエクスペリメンタルなものになっている。
 とくに M-2 “And Eats Itself and Eats Itself and Eats Itself”、M-4 “That Hyde Trakk”。ドラムンベースを出自としつつも、ノイズ要素をビートに昇華させる手法、断片的メロディを要所に配置してトラックを引き締める巧緻など、捉えがたくも洗練された技で無比の境地に達している。
 ビート・アプローチの先鋭性という点で言うと、バックグラウンドはそれぞれ異なっているが JLIN や NKISI あたりとの同時代性を強く感じさせる。






LOFT
Information
  Birth name  Aya Sinclair
  Current Location   Manchester, UK
 
Links
  SoundCloud  https://soundcloud.com/loftminduk
  Instagram  https://www.instagram.com/loft_aya/
  Twitterhttps://twitter.com/loft_aya
  LabelTri Angle Records  http://tri-anglerecords.com/

ASIN:B07QFD43R3


古田徹也 “ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考”




 概要

 ウィトゲンシュタイン前期の思想を示す重要文献『論理哲学論考』の全文詳解。(実際にはいくつか本論から離れた個所は省略されているので「全文」ではないが)
 『論考』の1節から最後の7節まで順を追って解説している。


 『論考』には、全文が番号付の節でできているという特徴がある。
 基幹となるのは次の7つの文章。

    1. 世界は、成立している事柄の総体である。
    2. 成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。
    3. 事実の論理像が、思考である。
    4. 思考とは、有意味な命題のことである。
    5. 命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、自分自身の真理関数である。)
    6. 真理関数の一般形式は、[ p, ξ, N(ξ) ] である。これは命題の一般形式である。
    7. 語りえないことについては、沈黙しなければならない。

 これらに対する補足が枝番号で細かく入れ子状に書かれていって全体を構成している。
 こうした節をいくつかまとめてそのつど解説しているのがこの本。

 著者によれば、『論考』で難解なのは3番台の節まで。このあたりまでの「写像」「命題」「名」といった論理形式の概念を押さえつつ、あとは『論考』が「言語の限界を見きわめる」という作業をおこなっているのだということを理解すれば、全体についていける。

 随所で例示が用意されているのがわかりやすい(『論考』はほとんど例示を出さない書物なので)。また、原理的に例示できないものもあるんだけど、そういうときはそれを明確に言ってくれるところがよい。『論考』を素直に前から読んでいくと躓く個所もあって、そうしたところでは後で出てくる内容を先取りして説明してくれていたりする。実際、『論考』は最初の1節の時点で既に相当わかりづらいのだが、そのあたりに特に親切な解説が集中している。1.13節の「論理空間」などは例文も多く示しながら説明されていて、理解しやすかった。
 『論考』で言われる「言語」というのが思考上の抽象的な究極概念であることなども、注意喚起がなされている。このあたりも『論考』を理解する上でのポイントだと思う。



 『論考』の目的

 これまでの哲学の問題のほとんどは言語使用の混乱から生じた擬似問題であり、『論考』は、言語の限界を明らかにすることで哲学の問題を解決しようとする「言語批判」の哲学。


 キーワード

世界の論理形式
  • 写像
    • 言語と世界を写像という関係で把握することが前半のポイント。
      どんな写像形式にも当てはまる写像形式一般の本質とは何か、というのが主要な問いのひとつにある。
  • 命題
    • 命題とは世界と射影の関係にある記号である。
    • 命題には意味の形式は含まれている(真か偽であるのに先立って、すでに意味を持っている)が、内容(命題が真か偽か)は含まれていない。すなわち、命題の意味が現実と一致しているか否かが含まれていない。(命題の意味とはその真理条件のこと)
    • 写像・命題だけでは、それが真であるか偽であるかはわからない。その真偽はアポステリオリな事柄(経験的な事柄)である。
    • 命題と呼びうるものすべてに共通する本質:命題の一般形式は、「事実はしかじかである」というもの
  • 論理的文法
    • 哲学の擬似問題を解決するために重要なのは、日常言語の見かけ上の論理形式に惑わされずに本当の論理形式を見通すこと。→論理的文法・真理表・概念記法


言語の限界を見極めるための概念 ──言語の究極 / 名(名辞)/ 要素命題

    • 『論考』での「言語」「名」「要素命題」といった概念は、語りうることの可能性を最大限担保するために要請された、抽象性の高い概念。
    • 『論考』で扱われる「言語」とは、最大限の表現能力を持ち、写像関係を語りうるメタ言語がもはや原理的に存在しないような、いわば〈究極の言語〉が想定されている。
      そのような究極を想定してもなお「語りえないこと」は何か、をあらかじめ定めることを『論考』は目指している。
    • 「名」や「要素命題」も、具体的にどういう対象を指しているのかは捉えがたい。(この点が『論考』を難解にしている原因のひとつでもある)
      「名」や「要素命題」、またそれと対になる「対象(物)」や「(最も単純な)事態」という概念は、「語りうる」ということの可能性を極限まで広げるために用いられたもので、これらが何であるかを例示できないということは、名や要素命題によって構成される〈究極の言語〉が、語りうることの一切を明確に語りうるということを保証する、不可欠の条件になっている。
    • その上で『論考』は、そうした究極の言語であってもなお語りえないものは何か、ということを考察していくわけである。


語りえないもの
  • 超越論的な条件
      • 世界がさまざまに具体的なあり方をするための前提条件(世界が何らかの経験的な内容を有する可能性の条件)
        世界の前提条件であるがゆえに、それ自体について有意味に語ることができない。
    • 1.
      • 写像は世界を写し取るが、究極の言語をもってしても、世界と写像のその対応関係自体を写像は写し取ることができない。言語と世界が共有する論理的性質(論理形式)は超越論的。
    • 2.
      • また、世界があることも超越論的である。すなわち、世界のあり方に先立ち、論理にも先立つ、それらの可能性の条件である。そして、そうであるがゆえに、我々はこの条件についていかようにも語りえない。その意味で、世界があることは神秘なのである。
      • さらに、「世界があること」と同様に超越論的なこととして、「私」というものが示される。
        世界の可能性はそもそも誰によって語られるのかと問うとき、独我論が姿を現す。
        世界の可能性を思考し、世界の具体的なあり方を知覚する主体は、世界のなかには存在しえない。むしろ、主体とは世界の限界それ自体のことだ。

  • 言語の限界
      • 論理的に不可能なこと(非論理的なこと)は我々には思考できない。(完全にランダムな文字列など)
      • 我々は、非論理的な命題を語ることができない。我々はどうあがいても、言語の外に出て、言語を用いずに考えることはできない。
      • ただしこれは、あらゆる事態は言語によって生み出された構築物にすぎない、と言っているわけではない。
        ウィトゲンシュタインが主張しているのは、〈世界は、我々が命題というかたちで語りうるのと同じあり方をしうる〉ということ、すなわち、〈世界がさまざまなあり方をしうるその可能性は、われわれがさまざまに命題をこしらえることができるその可能性と一致する〉ということでありそれ以上でも以下でもない。

  • 限界の越境
      • しかし、「語りえないもの」であるはずなのに、『論考』では語られてしまっているのではないか?
        5・6番台の節以降、限界の外側への越境がはっきりとおこなわれるようになってきている。



 

Daniel Brandt “Channels” (2018)



Channels [ボーナストラックのダウンロードコードつき]






 2018年のアルバム。Erased Tapes からのリリース。見落としてたけど最近聴いてみたらけっこう良かったので記録しておく。
 ざっくり言えば、生楽器とテクノを融合したようなタイプの作風。ギター/トロンボーン/ピアノなどによるポスト・クラシカルな感触を持ちつつ、はっきりしたビートで進行していく。
 ゆるやかなメロディライン、軽やかできれいな音が特徴。でもそこに確固としたリズムが伴われていて非常に動的、展開にも抑揚があり、全体として熱量がある。
 ループ要素が一貫してるわけでもないしビートチェンジしてる個所もあるので、明らかにテクノっぽいというほどではない。でも随所で4/4ビートが曲を牽引するリズミカルな構成だったり、低音部がしっかり扱われているところなどに、テクノとの同時代性が表れている。
 なかにはかなりBPMが高い曲もある。特に M-7 “Twentynine Palms” はアルバムのなかで最も激しい曲調で、疾走するトロンボーンとパーカッションがとてもダンサブル。
 こういうジャンル横断的なものを聴くことで逆にテクノの本質が見えてくるような感じもある。


 Daniel Brandt はロンドン/ベルリンを拠点とするプロデューサー。2008年から、ベルリンのエレクトロニック・ジャズのグループ Brandt Brauer Frick のひとりとして活動。2016年には Hauschka などと共に Steve Reich の “Six Pianos” にも参加している。



Daniel Brandt






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell