“MÉTALEPSE. De la figure à la fiction”
2004
Gérard GENETTE
ISBN:4409041185
文学には「フィクション内フィクション」という入れ子状の物語構造を持つものがあるが、この入れ子構造が何らかの理由で破られるケースがある。たとえば、コルタサルの短編小説「続いている公園」では「自分が読んでいる小説の登場人物の一人によって殺される読者」が出てくる。このようにふたつの異なる物語世界の境界が侵犯される現象を、ジュネットのフィクション理論では「メタレプシス(転説法)」と呼んでいる。
もともと古典修辞学にもこの概念はあり、自分がつくった物語に作者が介入する表現をメタレプシスと指していた。ウェルギウスの叙事詩『アエネーイス』には、カルタゴの女王ディードーが死を遂げる場面があるが、このことを「ウェルギウスはディードーを死なせた」と表現する伝統的な言い回しがある。作者であるウェルギウスはただ作中人物の死を語っているだけなのに、あたかも作者ウェルギウスが作中人物の死を出来事として引き起こしたかのようにも聞こえる。
古典修辞学ではこのように「作者による物語への介入」をメタレプシスとしていたが、近代以降の文学ではコルタサルの例のように「物語から作者への介入」というパターンも見られ、ジュネットはこうした現象も包括するようにメタレプシスの概念を「物語水準」「語り手による表象」の幅広い侵犯・越境へ拡張して捉えている。
この書は境界の侵犯を起こす語りの技法・フィクション技法であるメタレプシスをさまざまな事例から拾い上げ、小説のみならず、演劇や映画、絵画にも見られることを示していく。
断章形式で章題がないので構成を掴みづらいけど、p26までが理論部分で、その先は事例によってメタレプシスのさまざまな様態を示していく内容。
メタレプシスの定義
- ギリシア語
- もともとのギリシア語ではメタレプシスは意味の転用によってある語を別の語のために用いる方法を指していたが、これは換喩(メトニミー)や隠喩(メタファー)も含んでしまう。
- 古典修辞学での定義
- 先行すること(原因)を理解させるために後続すること(結果)を説明するか、あるいはその逆をおこなうこと(デュマルセ)。継起関係に限定。換喩の特殊ケース。
ex.- 作者が(直説法過去で)自ら語る出来事を生じさせたふりをする。
(「『アエネーイス』の第四書でウェルギリウスはディードーを死なせる」) - 作者が(命令法で)出来事が生じるよう命ずるふりをする。
(フォントノワの戦いを命令形で語るヴォルテール)
- 作者が(直説法過去で)自ら語る出来事を生じさせたふりをする。
- これらの例のように、作者(語り手)が現実には自分が表象しているにすぎない物語に因果関係として介入していることを主張する言い回しを、「作者のメタレプシス」と呼ぶことができる。
- 先行すること(原因)を理解させるために後続すること(結果)を説明するか、あるいはその逆をおこなうこと(デュマルセ)。継起関係に限定。換喩の特殊ケース。
- 『新・物語のディスクール』でのメタレプシスの定義
- 入れ子の敷居の意図的な侵犯。
- 「入れ子にする物語(一次的物語)」の登場人物のひとりが「入れ子にされた物語(二次的物語)」を語るという関係を越え、一次的語り手がいつの間にか二次的物語に登場してくるような事態。
- 修辞学から転用した物語論的概念としての位置づけ
- ジュネットによるこの書でのメタレプシスの定義
- 表象を産み出す者(作者、語り手)をその表象そのものに何らかの意味で結びつける特定の因果関係の操作。
- 「一次的物語と二次的物語という境界の侵犯」と「表象の産出者(語り手)によって語られているという関係の侵犯」
- 『新・物語のディスクール』では「入れ子の敷居の侵犯」と定義していたが、この本では、
入れ子の侵犯では「表象の関係の侵犯」もともに生じている、と確認し明確化している。 - この本においてメタレプシスは、修辞学での「作者のメタレプシス」をもとに「表象の因果関係の操作」「物語の境界の侵犯/表象の関係の侵犯」へ拡張され、文彩からフィクションへの移行において重要な役割を果たすものとされている。
- メタレプシスが扱い得る「表象」は文学に限らず、絵画、演劇、写真、映画等も含まれ、物語論からより広いフィクション論・一般美学の領域へと対象が広げられている。
文彩/メタレプシス/フィクション
- 古典修辞学では、文章表現の技法として、比喩・換喩などの修辞的操作を「文彩(figure)」としており、「メタレプシス」(ex.「ウェルギリウスはディードーを死なせる」)も、文彩の一種として位置づけられていた。
- ジュネットは「文彩」を、修辞学のように文章の単なる装飾ではなく、「フィクション」を生む最小単位のようなものと捉える。また「メタレプシス」を、文彩の中で特に物語水準や表象の境界を侵犯する契機となる概念へと拡張する。
- 文彩にも、程度のグラデーションがある。
- 片側には、単純に字義通りの発話がある。純粋に形式的に文彩と見なされるが、意味論的には弱いもの
- もう片側には、強い意味での文彩がある。意味的転用の効果によって「驚異」をもたらすもの:メタレプシスは、強い意味での文彩に当てはまる。
- この真に文彩的な、それゆえすでにフィクショナルな性質にジュネットは着目する。
- フィクションは文彩の拡大された様態である。(字義通りに受け取られ、実際の出来事として扱われた文彩)
作者と語り手の区別
- (p12) 作者をその作品に、あるいはよりひろく、表象を産み出す者をその表象そのものに何らかの意味で結びつける特定の因果関係の操作
- (p14) この第一の水準の語り手を、ここで作者ウンベルト・エーコ自身と同一視するのはやや単純すぎるだろう
- (p36) この語り手は作者であるルイ・アラゴンとは根源的に区別されるべきである。
事例
- (p19) 字義通りの発話に翻訳可能なメタレプシスと、幻想的あるいは超自然的なタイプの完全なフィクション
- [小説]スターン『トリストラム・シャンディ』
- (p24) 自分が読んでいる小説の登場人物の一人によって殺される読者
- [小説]コルタサル「続いている公園」
- この小説は、物語世界的な水準(虚構の読者が位置する)とメタ物語世界的な水準(二つの水準を分かつ境界を越えて殺人者となる小説の登場人物が位置する)の間で展開される。物語世界の内部では、殺人者となる登場人物は(小説の人物なのだから)虚構的なものとして提示されるが、殺害される読者は「現実の」ものとして与えられている。虚構的物語世界は、それ自体の虚構的(メタ)物語世界に対しては、「現実的」なものとして現れる。
- 古典修辞学では自分が作ったフィクションに干渉する作者についてのみ考えられていたが、この事例のように自分が作ったフィクションが作者自身の現実生活に干渉するメタレプシスを、アンチメタレプシスと呼ぶことができる。
- (p26) 自分が作ったフィクションが作者自身の現実生活に干渉する
- [小説]ジオノ『ノア』- 小説内小説『気晴らしのない王様』
- 創作された世界を現実世界と重ね合わせることで、相互的な闖入が引き起こされる。
- (p31) 語り手が自ら報告しようとしている物事に命じるふりをするという、メタレプシスの古典的一種
- [小説]コルタサル「続いている公園」
- 登場人物を叱責する語り手/作者
- (p33) 二つの結末を提示し、読者の選択に任せる
- [小説]ファウルズ『フランス軍中尉の女』
- (p35) 共有された独白や自由間接話法を用いて登場人物の内的発話の中へと侵入する
- [小説]アラゴン『聖週間』
- ただしこの語り手は作者であるルイ・アラゴンとは根源的に区別されるべきである。
- (p37) 物語内の劇作品から小説の物語世界への絶えざる移動
- [小説]ゴーティエ『キャピテン・フラカス』
- ある作品について「語る」ことは、正確に言うと物語的行為ではなく、「注釈行為」と捉えるべきである(ヴァインリヒ:「注釈された世界」と「語られた世界」の区別)。批評家が語る作品は、「語られた世界」ではなく「注釈された世界」に属している。メタレプシスは、作品を記述する注釈のあり方とは異なる。
- (p50) フィクションを現実とみなすという幻影
- [演劇]コルネイユ『舞台は夢』
- (p53) 「俳優たちの喜劇」
- [演劇]モリエール『ヴェルサイユ即興劇』
- (p57) 精神病院の在院患者によって演じられる劇中劇
- [演劇]ペーター・ヴァイス『サド侯爵の演出のもとにシャラントン精神病院の演劇集団によって上演されたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』
- (p61) フィクションの登場人物とそれを演じる現実の役者
- [映画]ハワード・ホークス『ヒズ・ガール・フライデー』
- (p62) スクリーンを通り抜け、映画の物語世界の中に入り込む
- [映画]ウッディ・アレン『カイロの紫のバラ』
- (p65) 映画やテレビで見た俳優と街中ですれ違う体験
- (p68) 撮影途中のセットや舞台裏など映画制作の物語を内容とする映画(メタ映画)
- [映画]
- (p70) 〈映画内演劇〉
- [映画]エルンスト・ルピッチ『生きるべきか死ぬべきか』他
- (p74) イペルフィルム性(先行映画の変形・模倣)
- [映画]ハーバート・ロス『ボギー! 俺も男だ』
- (p76) 有名な俳優が「自分自身の役」として映画に現れる
- [映画]ロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』
- (p79) 音響的ディゾルブ(シーンの最後で次のシーンに属する物音を聞かせ始める手法)
- [映画]ジャック・ドレー『フリック・ストーリー』
- (p81) 俳優が複数の役を演じる
- [映画]ヒッチコック『めまい』
- (p84) 絵画内絵画
- [絵画]マネ《エミール・ゾラの肖像》、ベラスケス《ラス・メニーナス》
- (p87) 文学の中で動きを与えられた作品
- [叙事詩]ホメロス『イリアス』におけるアキレウスの楯の描写
[小説]ジオノ『ジャン・ル・ブルー』におけるブリューゲル《イカロスの墜落》への言及 - (p96) 歴史家の物語における二重の現前性
- [歴史物語]『フランス革命史』
- (p101) フィクション物語世界の中に、物語世界外の潜在的な読者が導き入れられる
- [小説]バルザック『あら皮』
- (p102) 主人公を二人称代名詞で指す
- [小説]ミシェル・ビュトール『心変わり』
- (p106) 〈男性読者〉と〈女性読者〉への語りかけ
- [小説]イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』
- (p110) 二人称の事実的物語
- [インタビューや演説]
- (p112) 自伝における人称の作用
- [自伝]ジャン=ジャック・ルソー『ルソー、ジャン=ジャックを裁く』他
- (p114) 「現実」かつ物語世界外の語り手を備えた自伝的物語
- [自伝]ルソー『告白』
- (p118) 自伝作者の三重のアイデンティティ
- [自伝]シャトーブリアン『回想録』
- (p119) 自伝の語り手と主人公に共通する「私」という代名詞の曖昧さ:メタレプシス操作子
- [小説]ガートルード・スタイン『アリス・B・トクラスの自伝』
- 自己についての自己による言及は、「発話する私」と「発話の対象である私」という審級の二元性を作動させる。ふたつの審級が同時に語られてしまうという意味で、メタレプシス的であると見なすことができる。
- (p121) アイデンティティをめぐる遊戯の頂点
- [小説]ナボコフ『青白い炎』
- (p123) 逆説的あるいは詭弁的な物語
- [小説]ボルヘス「刀の形」
- (p125) 夢の物語
- [小説]メリメ「ジュマーヌ」
- メタレプシスが生ずるのは一つの「世界」から別のものへの推移がなんらかの仕方で隠されたり覆されたりするときである。
- (p128) 「現実」として提示された筋がじつは「夢」であることが事後的に明かされる
- [テレビ連続ドラマ]『ダラス』
- (p132) メタ物語世界的な説明がスクリーンに映し出される
- [映画]
- (p135) 語り手が登場人物の一人に言葉を委ねるとき、語り手は表象の敷居を飛び越えている
- [批評]プラトン『国家』が語る『イリアス』
- (p138) 作者の執筆に関与してくる演劇学者たち
- [演劇]『アルマの即興劇』
- (p140) 読者に関わろうとする小説家=語り手
- [小説]クリスティーヌ・モンタルベッティ『人間の起源』
- (p141) 小説は、そのフィクション的な物語世界に、(別の物語世界である)歴史という外的物語世界から借りた重要人物たちをときおり導入する
- [小説] ウォルター・スコット『クエンティン・ダーワード』のルイ十一世、デュマ『三銃士』のリシュリュー、トルストイ『戦争と平和』のナポレオン
- 実際のところ、フィクションは、隅から隅まで現実に由来する諸要素に育まれ、またそれらによって満たされている。
- 現実的物語世界から虚構的物語世界への、そしてあるフィクションから別のフィクションへのこうした絶えざる移入と融合は、まさしくフィクション一般の、そして特にフィクションというものの真髄である。フィクションはすべて、メタレプシスで織り上げられているのである。このことは、現実のすべてについてもあてはまる。
- (p143) もしフィクションの登場人物が読者や観客になりうるのだとしたら、彼らの読者や観客である私たちも、フィクションの登場人物になりうる
- [小説]ボルヘス「『ドン・キホーテ』の部分的魔術」

