“Intention”
1957
G. E. M. Anscombe
ISBN:4000615270
ある男が、住居に飲み水を送るポンプを動かしている。ポンプの水源には毒が入れられている。その家には民族虐殺を目論む政治家が住んでいる。
このとき、男の行為は、
- 腕を上下に動かしている
- ポンプを操作している
- 家に飲み水を送っている
- 住人に毒を盛っている
- 人々を救おうとしている
だが、だとしたらその行為の「意図」とは何なのか。意図とは、行為の背後に隠れていて他人には知りえない心の内面のことなのか。
アンスコムはそうした見方を採らず、意図とは、行為を何らかの記述のもとで理由に結びつけて理解することだと捉え直した。
行為論を現代に再び確立させた20世紀哲学の古典。分析哲学において「行為とは何か」を定式化した意義がある。
行為の「意図」を「心的な内面状態」として説明することなく、「理由」「記述」「欲求」といった概念で説明。ウィトゲンシュタイン以降の哲学として言語使用・記述形式といった面を踏まえた分析を展開しつつ、行為をそもそも成立させるものとして「実践的知識」という概念を導入した。
重要ポイント
- 意図的な行為:特定の意味で「なぜそれをしたのか/しているのか?」の問いが適用される行為
- ある記述のもとでその行為がどう位置づけられるか:
人間の行為記述は「なぜそれをしたのか/しているのか?」という問いによって成り立つ
- ある記述のもとでその行為がどう位置づけられるか:
- 〈「観察によらない知識」で当人が知る事柄〉のクラスの下位に〈意図的な行為〉が位置
- 実践的推論:欲求に支えられた実践的連鎖(望ましいものとしての特徴付け)
- 意図的行為に内在する秩序構造を示す分析的道具
- 意図の説明に「心的な内面状態」を用いることを否定する理由:内面状態を生じさせること自体が当人の行為なのだとしたら、それを生じさせる別の内面状態が必要となり、無限後退となるため。同じ出来事が、ある記述のもとでは意図的で、別の記述のもとではそうでないのであれば、意図的行為を理解するには「どの記述のもとでその行為を見ているか」を考えなければならない。
[1] 第1〜3節 議論を進めるための基本的な諸概念の導入
──「意図」は多義語ではない
──「意図」は多義語ではない
- 行為の「意図」という語は、場面ごとに多義的に使われているわけではない。概念の性格を明らかにする必要がある。[第1節]
- 意図は本質的に未来に向いた発話のひとつであるように見える。
- 「予想」をいったん広く定義してみる。広く未来に向けられた発話の中で、予測・命令・意図の表明はどう違うのか。
予想とは:特定の活用形の動詞を含む文を用いて何ごとかを述べたとき、後になって、それとまさに同じことが、後で起こったことに応じて真(または偽)と呼ばれうるようになるもの。 - 意図の表明は、単なる予測ではない。「表現」を伴う命令と違い、意図は表現なしにも存在する。意図の表明は、慣習的・言語的なもの。[第2節]
- 意図の言語的表現の検討にも一定の意味はあるが、それだけでは不十分。心の内面と捉えるのでもうまくいかない。行為の意図は「理由」という観点から考えていくべきだ。[第3節]
[2] 第4〜18節 意図的行為の分析 / 意図的行為の解明的な定義
──「なぜ?」の問い、理由・原因・動機
──「なぜ?」の問い、理由・原因・動機
- 意図はまず、行為の中にどう現れているかから見た方がよい。[第4節]
- 意図を「心の私秘的な内面状態」と考えると行き詰まる
- 実際には、他人が何をしているかはかなり直接にわかる
- そして、その記述は本人自身による行為の記述と一致することが多い
- よって、意図を理解する出発点は、まず行為の記述である
- 特に「何をしているのか」「なぜそうしているのか」と問えるような意図的行為こそが重要
- 「意図的行為」の定義の案:意図的な行為とはそれに対し特定の意味での「なぜ」の問いが適用されるような行為のことである。「なぜ」の問いとは、それへの肯定的な答えが行為の理由を与えるような問いのこと。[第5節]
- ここではまだ、〈「なぜ」の問いの意味とはどのようなものか〉という疑問と、〈「行為の理由」とはどのような意味か〉がまだ明らかにはなっていない。行為の理由は、「証拠」や「原因」とは違う。
- 「行為より前にあった事実を述べている」というだけでは、原因と理由は区別できない。[第5節]
- 行為に適用可能な「なぜ」の問い:それがどのような意味での「なぜ」であるのかを考えるために、その問いが適用できないと考えられるケースを考える。
- 「なぜ?」が適用されないケース1:「私はそれをしていることに気づいていなかった」[第6節]
- 「なぜ?」が適用されないケース2:「それは随意的でなかった」[第7節]
- 不随意性の概念のなかに意図の概念が含まれているはずだが、「意図」「随意的」「不随意的」といった概念を使うことなく不随意運動のクラスを記述することが必要。
そのために〈「観察によらない知識」で当人が知る事柄〉のクラスを導入する。意図的行為はこの大きなクラスの中に入る。[第8節] - ここまでに得た結論のまとめ[第16節]
- 意図的行為は、〈「観察によらない知識」で当人が知る事柄〉のクラスに含まれる。
このクラスに含まれるものの中で、意図的行為は、心的因果性の有無や、不随意運動かどうかで決まるのではなく、「特殊な意味での「なぜ」の問いに対して、われわれの規定した範囲の答えが存在するもの」として定義される。 - 「特殊な意味での「なぜ」の問い」に当てはまらないもの:答えが証拠の提示であったり、心的原因も含めた原因を述べるものであったりするもの
- 「特殊な意味での「なぜ」の問い」へわれわれの規定した範囲の答:
- (a) 過去の経緯への言及
- (b) 行為に解釈を与えるもの
- (c) 未来の何かに言及するもの …… ただし、そのうち利益や害悪の観念を含むもの。あるいは、答えが「解釈的」動機や伴われている意図へと結びつくもの
- 意図的行為は、〈「観察によらない知識」で当人が知る事柄〉のクラスに含まれる。
- 「なぜ?」が当てはまらないのは主に三つ。
「気づいていなかった」「観察して分かった」「心的因果性が介在しえないような形」[第17節] - 「なぜ」の問いが適用を与えられる答え方の範囲は、行為の理由を与えるという答え方の範囲よりも広くなる。「なぜ」というこの問いは、そうした広い範囲に収まる何らかの答えを期待する問いとして定義できるだろう。[第18節]
[3] 第19〜27節 行為とその記述の関係
──ひとつの行為はさまざまに記述できる
──ひとつの行為はさまざまに記述できる
- 行為を意図的なものとして記述することは、行為に実行の時点で付随する心的状態のような何かを加えることではなく、行為を意図的行為のクラス(「なぜ」が当てはまる行為)に割り当てることである。[第19節]
- 行為を意図的なものとして記述する際、出来事の唯一基礎的な記述(自然科学的な記述など)を探し求め、意図を、そうしたものに対して意図性を付与する複雑な何か(心的状態のような)とみなすのは、間違いである。(そうした内的付帯物を生起させることが意図的行為になってしまうと、無限後退に陥る)
考慮すべき出来事は意図的行為そのもの以外にはない。[第19節] - 行為を意図的と記述することは、その行為がわれわれの与える何らかの記述のもとで意図的だと述べることにほかならない。[第19節]
- 目的と行為の関係
行為はつねに何かの目的のために行われるのか?→アリストテレスは、「目的の連鎖には終端が存在するはずだ」から「あらゆる連鎖の終端である何かが存在するはずだ」へ移行する不当な推論をしていた。だが、ともかく何らかの連鎖が始まらなければならないということは確かだ。答えとして行為の理由を与えうるような「なぜ」の問いが存在しなければ、そもそも随意的行為や意図的行為の概念も存在しないから。[第21節] - ポンプの例:飲み水を送るポンプを動かしている男の行為は、さまざまに記述することができる。行為には唯一の記述はなく、多くの記述がありうるが、意図的行為の記述になるのは、「なぜ?」への答えの連鎖に乗る記述のみ。
意図的行為の記述は連鎖する。答えの連鎖はいつかは途切れる。[第23節] - 記述は、行為中の特別な出来事や内的特徴によって支えられているわけではなく、実践的文脈の中にある。[第24節]
- 行為と意図の結びつきは、全体の文脈の中で理解される。[第25節]
- ここまでを踏まえたおおまかな定式:概して言えば、人は自分が為していることを行なうよう意図している(意図された行為は、行為者の最終目的を記述することによってのみ記述されるという考えへの反論)[第25節]
- 連鎖する記述列の中のそれぞれの記述と後続段階との関係は、目的に対して手段を記述するという関係になっている。
記述列の終端に位置する意図は、先行する記述すべてに対して、行為がその意図を伴って為されていると言える意図であり、全体の目的として、他の意図すべてを包み込む。[第26節] - 「意図は本人しか知らない」という文での「知る」は、「言える」 の意味でしかない。
行為者だけが自分の意図を内観して特殊な事実として知っているというのではなく、最終的に「私の意図はこうだ」と言いきれるのは本人だけだということ。これは「私秘的知識」の主張ではなく、第一人称の言明の特権についての話。
どの遂行も(たとえ内的な遂行であっても)それ自体としては意図の活動とみなせない。意図は、けっして心の内側での遂行ではない。ここで問題となっている事柄は、どれもかならず、外側に現われる活動が何らかの仕方で重要になるものばかりなのである。[第27節]
[4] 第28〜49節 実践的知識と実践的推論 / 観察によらない知識
第28〜32節 観察によらない知識 / 実践的知識
- 「観察によらない知識」をより本格的に説明
- 行為者が、自分のしていることを、ある結果やある事態に向かうものとして知っているなら、そのより広い記述のもとでも意図的行為の知識をもちうる。ただし、その知識は「観察してわかる知識」ではない。[第28節]
- 「何が起こっているかを観察で知る」ことと「自分が何をしているかを観察なしに知る」ことの違い
意図的行為を遂行するための知識や見解をわれわれがすでに手にしているならば、観察は、単なる補助にすぎない。[第29節] - 解決策の素描
意図的行為についての行為者の知識は、起こった事実を受け身に記述する観察的知識ではない。それは命令や買い物リストのように、行為が従うべき規準を与える知識。[第32節] - 買い物リストの例
行為者の自己記述は「実践的知識」であって、観察的知識とは別物である[第32節]
第33〜40節 実践的推論 ──アリストテレスの実践的三段論法、欲求と望ましさ
- 「実践的知識」の概念を理解するにはまず「実践的推論」を理解する必要がある。
実践的推論とは、「私はこうすべきだ」という命題で終わるものではなく、実際にそれを行為としておこなうことで終わるもの。「何のために」「どうするか」という実践的連関の中で、行為へ到達する推論[第33節] - 複雑な実践的思案も欲求対象から始まる。そして、得ようとしている目的であるその欲求対象は、行為記述の連鎖のさらに先にある。[第34節]
アリストテレスの実践的三段論法における「適している」「べき」「快い」という「評価語」
人が何かを欲するとき、それは評価語を含めた記述のもとで欲求される。その何かはあくまで記述のもとで目標としてめざされるのだが、同時にその記述のもとではじめてその何かが欲求の「対象」と呼ばれることになる。欲求は推論を現実に行為へ至らせる条件。[第35節] - 行為や意図にとって重要な欲求とは、単なる願望や欲望感ではなく、何かを得ようとして行動に向かうような志向的なあり方のもの。[第36節]
- 何かを欲するなら、その対象は「望ましいもの」として特徴づけられていなければならない。アリストテレスの評価語は、対象を望ましいものとして特徴づける語[第37節]
- 「何のために」という問いの連鎖は、望ましさによる特徴づけで最終的に止まり、そこでは「何のためにそれを欲しているのか」という問いはもはや生じない。
実践的推論は論理的証明ではなく、欲求に支えられた実践的連鎖である[第38節] - 答えが、望ましさによる特徴づけへと到達し、理解可能になるまで問いつづけられる
何らかの「良さ」のもとで自らの欲求の対象を捉えるというあり方[第39節] - 行為者の欲するものは、行為者自身によって良きものとして特徴づけられるのでなければならない。良さは、数多くの良さの形態のうちの実際に一つでなければならない
本書では、「快楽」の概念の内実はともかく、「なぜ」の問いの連鎖を終結させられるという点で快楽の概念を重要視する。[第40節]
第41–44節 実践的推論 ──意図的行為の記述に伴う秩序
- 実践的推論は、行為者の直接の身体行為を、より遠い目的・欲求対象に結びつける構造[第41節]
- 目的から現在の個別行為へ至る実践的推論:意図的行為に内在する秩序を分析的に示したもの
アリストテレスの説明は実際の心的過程の記述を想定しているのではなく、行為が意図を伴って為されるさいにかならず存在するある秩序を描写している。それはポンプの例を通じてたどり着いたあの序列と同じもの。[第42節] - 人間の行為記述は一見混沌としているが、そこには秩序がある。アリストテレスの「実践的推論」や、本書が示した「なぜ」の問いの系列は、こうした混沌のうちにある秩序を明るみに出すための分析的な道具立てとみなすことができる。[第43節]
第45〜49節 実践的知識 ──行為の記述を可能にする前提
- 実践的知識は、観察的知識ではない。それは「何が為されるべきか」「何をしているのか」を行為者が知っている知識[第45節]
- 何かを人間の行為として記述することは、「なぜ」の問いが存在するより前には生じえない。そもそも何かを「行為」として記述できるのは、「なぜ?」の問いが成り立つような概念的枠組みがあるからである。行為としての記述そのものが、最初から「なぜ?」の問いと結びついている。
行為の記述は、世界の中に自然に切り分けられているのではなく、理由や関心に応じて構成される。「行為」とは、単なる自然科学的記述ではない[第46節] - 実践的知識とは、出来事を「意図の実行」として記述可能にする知識であり、あらゆる意図的行為に前提されている。
行為者が、自分はいま何をしているのかを実践的に知っていることによって、その出来事は「意図の実行」として記述される。
実践的知識がなければ、そもそもその出来事を「意図の実行」として記述することができない。[第48節]
第50〜52節 未来への意図の表明 ──希望・予測・決意との関係
- 未来への意図の表明は、予測や希望とは違う。意図は、あくまで行為の理由に根拠をもつ。[第50節]
- 「ただそれをしたいだけだ」という表現は現在進行中の行為の説明にはなりにくいが、着手する行為の説明としては成立する。[第51節]
- 意図表明は単なる予測ではないが、未来に起こることについてのコミットメントを含む。
人は、自分がこのあと何かをすることを最大限確信しつつ、それをしないでおこうと意図することができる。[第52節]

