物語論 (ナラトロジー) の主たる流れに従って、非言語的な物語より言語的な物語を対象としており、なかでも特に 「一人称の物語テクスト」(物語論の用語で言うと 「等質物語世界的物語テクスト」) を扱う。
部分的には、エクフラシスというかたちで絵画に関連する物語も扱われている。
全6章+補論から成り、1〜3章が理論編、4章〜6章と補論が実践編。
- ポイント
- 語るということは、物語る世界の外側に立つことに他ならない。
- 語るということは、「語る〈私〉」(=潜在的な一人称の語り手) を不可欠に伴うことになる。
- どの登場人物の視点が語りのパースペクティブを方向づけているのかという問題と語り手は誰なのかという問題はまったく別であり、区別すべきである。
第1章 物語論の臨界 ──視点、焦点化、フィルター [41ページ]
- 物語論の 「進歩」 のプロセスは、物語内容と物語言説の二つのレベルの精緻な区別化という方向性をたどってきた。
- 初期の物語論 (ラボック、フリードマン等) は 「視点」 (いわゆる「一人称/三人称」の区分) を重視したが、そこでは 「誰が見ているのか」 という問題 (視点的人物) と 「誰が語っているのか」 という問題 (語り手) が混同されていた。
- ジュネットはこの二つの問題系を区別し、視点という語に伴われる視覚性を回避することも含めて「焦点化」 という概念を代わりに提示。物語内容の提示の量的問題に限定した。
- チャトマンは問題を物語内容のレベルのみに限定した (登場人物の視点:「フィルター」という概念)。しかしそうした限定は物語内容の提示の仕方に関わるこの現象の本質的側面を見過ごすことになった。
- この区別化の流れに対し筆者は、物語内容と物語言説のレベル間の混交という現象に着目する。
- 視点/焦点化/フィルターと呼ばれる現象、直示の時を表す副詞と過去形の共存 (ex. 「今、私は知ったのだ」)、自由間接言説では共通して、物語内容と物語言説への混交、とりわけ、登場人物の語りの現在への召喚が生じている。
- ここで起こっていることはディエゲーシス (語ること) / ミメーシス (示すこと) の問題系とは異なり、むしろ「語りによって示すこと」というそもそも不可能な事柄が可能になっている事態というべきである。
- この混交は、物語内容と物語言説の関係性自体の瓦解を意味する。
- 語りの現在への過去の物語内容の一部の召喚という超論理的な奇跡が可能になるのは物語という場以外にはあり得ない。
- しかし、物語内容と物語言説のレベルの区別は無効ではない。このような区別があるからこそ物語の本源的な力を確認することが可能になるのだから。
- 語ることによって示すことという不可能が可能になるのは、物語という制度が持つ二重の論理のまさに矛盾によってこそである。
第2章 旅行記者から小説作者へ 等質物語世界的小説における内的焦点化 [25ページ]
- 本章の目的:小説ジャンルの揺籃期に顕著な 「一人称の語り」 の内実を明らかにするために、先行する現実旅行記の語りの類型化を試み、それが18世紀の等質物語世界的小説の語りの多様性に概ね対応することを確認する。
- 「一人称の語り」 を 「一人称の視点」 と区別せず等価とするフリードマン的な認識が今でも小説論の場に流通してしまっている。
- ジュネットは、どの登場人物の視点が語りのパースペクティブを方向づけているのかという問題と語り手は誰なのかという問題はまったく別であるとして、「視点」 に代えて 「焦点化」 という概念を導入した。
- 物語テクストにおいて 「語っている」 のはストーリー中の登場人物ではなく語り手と考えるべきである。一人称の語りにあっても語り手の〈私〉と登場人物の〈私〉の区別はやはり可能。
- 記述モデル設定での参照先:ジュネットをベースとする他、チャトマン、プリンス、オニールなど
- 記述モデル
- (1) レベルの特定 … 語り手と物語世界の関係
- 語るということは、物語る世界の外側に立つことに他ならない
- (2) 人称の特定
- 「一人称の語り」/「三人称の語り」 に代えて「等質物語世界的物語 homodiegetic narrative」/「異質物語世界的物語 heterodiegetic narrative」 という用語を使用
- すべての物語テクストが語るという契機を内含するものであるなら、今ここで語る「私」は不可欠の与件となり、すべての物語には潜在的に一人称の語り手が存在する。この「私」が登場人物としても機能するかしないかで 「等質物語世界的物語」「異質物語世界的物語」 を区分
- (3) 「語り手の〈私〉」 と 「登場人物の〈私〉」 の関係
- 登場人物の〈私〉の時空間 (=物語られる過去 (物語内容) の時空間) と語り手の〈私〉の時空間 (=語りの現在 (物語言説) の時空間) とを区別した上で、両者が連接的関係にあることが明示されているか否かを問題にする
- (4) 語り手の顕在化とメタ物語的解説
- メタ物語的解説:(語り手の顕在化の指標を含む) 語り手の〈私〉による物語内容・物語言説への論評・解説
- (5) 語りの類型 … 物語内容の時間と物語言説の時間の関係を軸にした語りの類型
- 後置的語り/前置的語り/同時的語り/挿入的語り
- (6) 話法の類型 … 登場人物の発話を語り手がどのように再現報告するか
- 自由直接話法/直接話法/自由間接話法/間接話法/物語化された話法
- (7) 焦点化の類型 … ジュネットの理論を批判的に継承したオニールの理論を修正して採用
- 見る眼差し (=焦点化子) が物語内容の内部に位置する場合:内的焦点化 (登場人物が焦点化子)
- 見る眼差し (=焦点化子) が物語内容の外部に位置する場合:外的焦点化 (語り手が焦点化子)
- どのような物語でも外的焦点化が常に既に生起している。登場人物を焦点化子とする内的焦点化は、外的焦点化に埋め込まれる2次的な焦点化になる。
- 物語内容の物語言説への溶融、語られる過去の語りの現在への溶融、過去の登場人物の語りの現在への召喚といった事態が生じる
- 現実旅行記の分析
- フリードマン的小説論では 「一人称の語り手」 として同一視されてしまう 「回想録」/「日録」/「日録を偽装する回想録」の差異を、記述モデルに従って分析する。
- 日録タイプと回想録タイプの基本的な差異
- 日録タイプの旅行記:挿入的語り
- 語り手の時空間は不連続的で、語られた直後の物語世界の時空間に常に後続する。
(日録のプロトタイプとしての『コロンブス航海誌』) - 回想録タイプの旅行記:後置的語り (帰還後に記される体裁の語り)
- 語り手の時空間は連続的であり、物語内容内の諸事象すべてに後続する。
- だが必ずしもそうならない例もある。
- 日録を素材とし日録に典型的な挿入的語りを採用しつつ、語り手が語りの現在を前景化することで、回想録に典型的な後置的語りに回収される例
(回想録のプロトタイプとしての 『ジャワ滞留記』) - 日録を素材とし日録に典型的な挿入的語りを採用しつつ、語り手が語りの現在を前景化することで、回想録に典型的な後置的語りに回収される例
(日録を偽装する回想録としての 『東インドへの航海記』) - フリードマンが想定する一人称視点が厳密に該当するのは、等質物語世界的物語の内、語り手の〈私〉が後景に退き登場人物の〈私〉だけを前景化させるような等質物語世界的物語のみ。その典型例は、後置的語りを装う挿入的語りでメタ物語的解説の使用に抑制的なテクスト。
- 「一人称の視線」 といった概念では、一人称小説の多様な語りを分節することには不足する。
第3章 等質物語世界的小説の物語論 等質物語世界的語りの記述指標 [107ページ]
- 本章の目的:等質物語世界的語りに限定し、より動態的な等質物語世界的語りの下位タイポロジーの策定に必要な記述指標を検討すること
- 検討の中で確認していく主な対象:シュタンツェル、ジュネット、バル、オニール
- 提案された記述指標
- (1) 語りのコミュニケーションの場の範疇
- 語りのコミュニケーションの場の記述に必要な動作主:物語言説の言語場における語り手/聞き手、物語内容の言語場における登場人物
- 語り手の顕在化は聞き手の顕在化を意味し、その直示的表現を含む発話は、物語言説レベルおよび/または物語内容レベルへのメタ物語的言説を構成する。
- 1次的な物語の語り手は常に物語世界外的語り手になり、2次的、3次的…と入れ子構造を形成し得る。
- (2) 声の範疇
- 物語テクストに聞こえる声は語り手の声と登場人物の声以外にあり得ないという原則を踏まえつつ、物語テクストに響く声を次の7種類に区分
- ① 語り手によるメタ物語的解説 [MC]
- ② 語り手による叙述 [N]
- ③ 物語化された言説 [ND]
- ④ 間接言説 [ID] ex. He wondered if she still loved him.
- ⑤ 自由間接言説 [FID] ex. Did she still love him?
- ⑥ 直接言説 [DD] ex. He wondered, "Does she still love me?"
- ⑦ 自由直接言説 [FDD] ex. Does she still love me?
- (3) 焦点化の範疇
- 「(語り手による) 外的焦点化」 / 「(登場人物による) 内的焦点化」
- (4) 語り手の〈私〉と登場人物の〈私〉の関係性の範疇
- 語り手の〈私〉と登場人物の〈私〉の時空間的な関係性に基づく実存的関係性
- 時空間的関係性を特定するに当たって最も重要な手がかりは、メタ物語的解説
第4章 範疇化の病 メタユートピア物語としての「フウイヌム国渡航記」 [21ページ]
- スウィフト『ガリバー旅行記』第4部『フウイヌム国渡航記』に対するソフト派/ハード派の対立
- フウイヌム国をユートピアと見なす解釈:ハード派
- フウイヌム国をアンチユートミアと見なす解釈:ソフト派
- これまで、フウイヌムの言語にはウィルキンズの完全普遍言語が反映されているとする指摘がさまざまにおこなわれてきた。
- ウィルキンズの完全普遍言語の構想
- (1) 自然言語の相違を越えて認識可能な等質的な世界が所与としてある (2) そのような世界の分節化・範疇化が可能である (3) そのような分節化された世界の体系を正確に反映するような記号化された名辞体系の創出によってバベル以前のアダムの言語 (完全普遍言語) を再建する
- 二重のユートピア性:等質的世界というユートピア/言語に事物の本性が啓示されるというユートピア
- 異質なものを排除し、ともかく範疇化せずにおれない病
- フウイヌムによるガリバー追放は、フウイヌムの世界理解 (=世界の分節体系) を体現する彼らの名辞体系を維持するための必然的要請であり、ガリバーは範疇化の病の犠牲者といえる。
- ソフト派/ハード派は、人間の本来対立する二つの属性、理性と獣性のいずれを優勢と見なして解釈するかで対立しているといえるが、ソフト/ハード論争自体が範疇化の病そのものである。
- ガリバーは範疇化の病の犠牲者であり、範疇化され得ないガリバー、自然言語の特性である記号の恣意性を実践してみせるガリバーこそが人間一般の境位を指し示している。
第5章 『青い目がほしい』における声の現象 ピコーラの声はクローディアには聞こえない [44ページ]
- 分析対象:トニ・モリソンの長編小説『青い目がほしい』(1970)
- 黙読を前提とする近代種の物語である小説というジャンルにあって、視覚的な効果を狙ったグラフィック上の工夫が聴覚的な効果として読者に届けられることもある。
- 『青い目がほしい』のグラフィック上の工夫
- エピグラフとしてのパラテクスト:小学校英語読本『ディックとジェイン』/ 語り手クローディアによる一人称の語り / 登場人物クローディアによる一人称の語り / 全知の語り手による三人称の語り / パラテクスト:作者トニ・モリソンの「あとがき」
……というそれぞれが字体・レイアウトで弁別される。 - 小説では、日常の言語生活では聞こえない他者の思考、心の中の声が、読者には登場人物の声として聞こえるが、他の登場人物たちには互いに聞こえることはないというコードがある。
- クローディアの問い
- ピコーラの不幸はなぜなのか
- クローディアが語るピコーラの物語は、ピコーラの不幸の 「なぜか」 ではなく一連の経緯である 「いかに」 にならざるを得ない。
- 「なぜか」 を探しているのはピコーラではなくクローディア。ピコーラの不幸の 「なぜか」 をクローディアは未だ探し続けている。
- ピコーラは何を探しているのだろうか
- ピコーラは見つかるはずのない 「世界中でいちばんの青い目」 を探し続けている。
- ピコーラの妄想への自閉の軌跡とクローディアの差別の共同体への馴致化の軌跡は交わらない。
- 書物内的パラテクスト:トニ・モリソンによる 「あとがき」「まえがき」
- トニ・モリソンの 「声」 と 「視点」 の扱い方は物語論に即した筆者の分析と乖離。ジュネットによって弁別された 「誰が語っているのか」 と 「誰が見ているのか」 の混同の典型例と言える。
→ペリテクストにおける作者自身の解説だからといってそのまま真に受けるわけにはいかない場合もある一例。
第6章 エクフラシス/ブリューゲル 《雪中の狩人》(1565) を読む20世紀の詩人たち [21ページ]
- 本章の目的:ブリューゲルの《雪中の狩人》に対する3編のエクフラシス的実践がそれぞれの詩人の解釈であるという立場から、その相違を記述する。エクフラシスを物語論的知見から分析し、レッシング的な時間芸術としての詩/空間芸術としての絵画の弁別を 「物語性」 という概念で再考する。
- エクフラシス:視覚芸術作品を描写の対象とする詩の一ジャンル
- エクフラシスの伝統の背景には 「詩は絵のように」 というホラティウスの定式がある。
→この伝統は、レッシングによる時間芸術と空間芸術の区別によって途絶させられる - 分析に用いる物語論的装置
- (1) 外的焦点化と内的焦点化
- 絵画テクストの場合、
- 外的焦点化 (語り手による焦点化):
物語世界を切り取る制作者によるフレーム化、また、フレーム化された絵画世界内の存在者、状況・事物を対象とする世界外の受容者による知覚行為 - 内的焦点化 (登場人物による焦点化):
絵画世界内の人物の眼差しと人物間の眼差しの交錯 - (2) 時間性、空間性、物語性など
- 文学の物語テクストの場合、語り手による事象配列の時間性がそのまま物語性となる。
- 一方、絵画テクストの場合、事象配列の空間性がいかに時間化されるかでその物語性は規定される。たとえば絵画の受容者が絵画世界内の存在者・事象・状況をどのような順番で見ていくかによって、受容者にとっての物語性が確保される。
- エクフラシスでは、詩人=語り手によってどのような順序で存在者・事象・状況が提示されていくのかで当該絵画の解釈の仕方が示される。詩人=語り手によって空間としての絵画世界が時間化されることによって一つの物語になる。
- (3) フレーム化のモデル
- エクフラシス的実践に当たって詩人=語り手がどこまでを対象とするかの場合分け
- (a) 絵画世界のフレーム化までをも含めて対象とする場合
- →(a-1) 詩人=語り手が鑑賞者として描く場合 (a-2) 制作者の立場として描く場合
- (b) 絵画に描かれた世界自体を対象とする場合
- 3編のエクフラシスの分析
- ウォルター・デ・ラ・メアの『ブリューゲルの冬』
- 詩人は画家の生の意味を明かすことはできず最後に慨嘆する。
- ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの『雪中の狩人』
- 最後に、鑑賞者である詩人=語り手は実は制作者ブリューゲルのフレーム化を含む制作過程を追体験していたことが明らかになる。
- ジョン・ベリマンの『冬の風景』
- 《雪中の狩人》に描かれている絵画世界を描写の対象としている。絵画として描かれた世界を、そうであることをあたかも忘れたかのように世界そのものとして描写。
→絵画テクストを対象としたエクフラシスが二重の再現表象化であることを明示するのに対して、その二重性を隠蔽する試みと言える。
第6章 補論 「アキレウスの盾」の物語論 「詩は絵のように」の伝統の廃嫡 [7ページ]
- 本章の目的:ホメロス『イリアス』第18歌の 「アキレウスの盾」 の描写をめぐるポープに対するレッシングの批判を、物語論から再読する。
- レッシングは「詩は絵のように」のトポスを支えてきた 「アキレウスの盾」 の描写について、ホメロスはアキレウスの盾を描写しているのではなく、ヘパイストスによる制作行為を報告することによって結果的にアキレウスの盾の描写を可能にしていると解した。(物語世界内の 「もの」 を 「こと」 として報告している)
- レッシングはボワバン〜ポープによる 「アキレウスの盾」 の再現プランを批判したが、ボワバン〜ポープの方が絵画表象の物語性 (物語世界内の 「こと」 ……すなわち 「アキレウスの盾」 を物語言説とする物語内容) を汲み取ることができていたのではないか
- レッシングの近代的思考は絵画と詩をそれぞれ空間芸術・時間芸術と区分して 「詩は絵のように」 という伝統的トポスを廃嫡したが、その代償として絵画表象の持つ物語性を取りこぼした。
- 一方、ボワバン〜ポープの前近代的思考は 「アキレウスの盾」 に物語内容を読み込み、「詩は絵のように」 というトポスが物語性を媒介に成立していたという事実をあらためて示した。