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 “Art Scope 2004:Cityscape into Art - 荘司美智子+Johannes Whonseifer ”20050129-20050313



Art Scope 2004:Cityscape into Art@原美術館
アーティスト・イン・レジデンスというプログラムにより、日本から選考された荘司美智子がベルリンに、ドイツからはヨハネス・ヴォンザイファーが東京にそれぞれ滞在し、その成果が原美術館で展示されるというもの。

荘司美智子はなかなか良かった。
シリコンの球体や立方体に街並を塗り込めたシリーズが特に。なんか蹴っ飛ばして転がしそうな展示だけど。
あとは、建物の扉を同じアングルで撮った写真のシリーズ。扉は内開きに開いていて、建物の中と、その先にまた反対側の通りに出る扉がある。さまざまな建物が写されているけれど、構成はすべて同じ。敷居と敷居の間の空間。半屋外的で、街と部屋をつなぐ部位。街に対し、涼やかな日陰といった趣。このように大量に同じ構成の写真で示されると、その都市の構造がよく実感できる。
他には、ダンボールのインスタレーション。ベルリンの街並? エンデの“モモ”に出てくる新興近代街区のような。

ヨハネス・ヴォンザイファーは、“White on White”が良かった。Light Cube, Tyvek 43×43×43cm。
他はあんまり特徴が掴めなかった。「東京」の捉え方が、外国人からみた典型的な形式を外れていないし。もうちょっと東京に対して何か発見をしてほしかったのだけど。
荘司美智子の方は、もともと都市的視点で作品をつくるスタイルだったこともあってか、わりとアーティスト・イン・レジデンスの意義が果たされているように感じた。



原美術館、初めて行ったけど、いいところだ。御殿山。駅からほどよく遠い、閑静な高級住宅街。美術館自体は、かなりこじんまりとしている。弓型の建物、2階建て+塔屋。床は木で、ところどころに妙な段差がある。常設展示は建物にさりげなく散りばめられている。塔屋はJean-Pierre Raynaud “L'espace Zero”。窓や扉も含め部屋全体を白いタイルで貼り詰めている。2階には、奈良美智“My Drawing Room”。実際に一時期奈良美智がアトリエとして使った。居心地よさそうな部屋。部屋自体は自分の部屋よりも小さいぐらいなのに、何が違う? 天井と壁は木で、白く塗られている。窓に面して木の机。制作途中の様子。窓の向こうは樹木。壁には作品やらメモやらいろいろ貼られている。白い地、木の仕上げ、雑多な日用品があふれていないこと、それがアトリエっぽさを醸し出して、居心地よさそうに見える?
2階には他にもふたつインスタレーションがある。
須田悦弘“此レハ飲水ニ非ズ”。もともと倉庫か何かの部屋だったものに手を加えてできたような空間。壁が一部壊されていて、配線が剥き出しにされ、花が絡まっている。照明が部屋を照らす。右脇にスイッチがあったけど、付けたり消したりしてよかったのだろうか? すごく普通の部屋であるかのようにつくられているけれど、でもまちがいなく芸術作品であり、そのように作品自体が明らかに主張している。芸術と日常の境界とは? もちろんそれは、これが美術館にあり、タイトル・キャプションが付けられ、作品と廊下を分かつ(目立たないけれども)柵があること、などによる。だけど、このような光景が美術の文脈に置かれていなかったとしても、それをうつくしいと思うだろうということがありえると感じさせる。重要なのは、世界を見つめる切り口。
宮島達男“時の連鎖 Time Link”。半円形の暗室。LEDの数字、赤は外側の壁上部に、緑は内側の壁下部に。数字が描くライン、空間のかたち。知覚が切りつめられ、抽象化される空間。この方法によって空間をつくるのは他にもいろいろ応用が効きそう。気持ちいい空間だった。
中庭を取り囲むようにカフェがあり、そこを越えて庭に出ると、常設展示の彫刻群に混じって、ヨハネス・ヴォンザイファーの“PROTOTYPE FOR A MOBILE EXBITION SPACE”。これはなかなか良かった。美術館の中庭にこれを置くというのは、美術館に対してすごくシニカルな行為なのではないかと。展示室内でスケートボードをするパフォーマンスとか、本来この人は既存の美術館の枠組に対して挑戦的な人なのだ。きれいなカフェからビニールの仮設美術館が見えて、送風ファンのかすかなノイズが聞こえるっていうのは、ちょっとしたコンフリクトを生むのに成功してると思う。

建物そのものは、庭も含めて、とっても雰囲気がいいけれど、もうひとまわり大きくてもいいかなと思った。
庭には隣の家(豪邸)が面していたりする。美術館を眺める生活って、どんな感じ? 自分の部屋から美術館の中庭が見えて、そこにある彫刻や、メンバーズ・イベントがおこなわれているのを、一方的に眺めることができる生活。そういう贅沢な暮らしをしてる人が周辺に住んでいる中に位置している美術館。アートと周辺環境の関係としては、社会的にはもっとも排他的な状態になっているような気が。美術館への一方的な眺めを独占する視点に取り囲まれている。もっともそういう関係性そのものもこの美術館の展示のひとつと考えることもできなくはないか。しかしそのような観察をおこなうタイプの美術館ではない。
場所の雰囲気自体はたしかに良いのだけれど、それは一方で、非常に人を選ぶ美術館になっているとも思う。この街自体が、人を選んでいる。
たとえば東京都現代美術館は、交通アクセスはよくないし周辺環境も特徴がないけど(いわゆる貧弱な景観状況のなかにある)、でもそれはそれで(意図的ではないだろうけど)気構えせずに誰でも入りやすい状況をつくっている。
公的な美術館と私的な美術館の違いが、立地に明確にあらわれている。

美術館自体もハビトゥスと結びついている。
カフェのメニュー・値段などにそれが顕著に現れる。
こういう美術館もあってもいいけれど、すべての美術館がこの方向をめざすべきではない、と思った。もっと汚れた美術館も、必要。
原美術館は、小さなプログラムをおこなうにはおもしろい空間だし、ちょうどいい規模。たまに行くにはいい美術館かも。私的な美術館としては成功した事例。
だけど現代美術は、いつまでもこのような制作者-鑑賞者-運営者の幸福な閉鎖関係のなかにいてはいけないと思う。では美術館には、どのような別様の可能性がありえるだろうか? それともそれにはもはや美術館は必要でないのかもしれないが。








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―Angela Mitchell