“RISIKOGESELLSCHAFT”
1986
Ulrich Beck
ASIN:4588006096
ウルリッヒ・ベック『リスク社会』。
リスク論を扱った1980年代の社会学の重要著作。
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“Risiko”をリスクと訳すのか危険と訳すのか、という点では意見が分かれるようだ。邦訳書では「危険社会」と訳されているが、この書を参照する他の日本語文献ではこれを「リスク社会」と呼び慣わしていることが多い。
この書で書かれているように、近代以前ではいわゆる「危険」とは、自然災害のように人外から降りかかるものであったのに対し、近代以降では、「危険」とはすべて人間の広範な営みのなかから生まれるようになった、という区別がある。(近代ではもはや「自然」は外部ではなく、社会の内部でしかありえない)
この区別を明確にするために前者が「危険 Gefahr」後者が「リスク Risiko」と使い分けられる。邦訳でもこれに倣えばよいのにとも思うのだが、この邦訳書では、「リスク」には経済用語的なニュアンスがあって、「限定された損害」という含意がなされてしまう、ということで「危険」とひとくくりにされている。
ということが少しややこしく/まちがいやすいのでそこだけは注意。
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〈近代〉の押し進めた産業化が徹底された世界は、科学技術のもたらす致命的かつ全面的なリスクを抱えることになる。このリスクは核兵器や原発事故・膨大な種類の有害物質等、いずれも科学技術の極度に進んだ結果の産物であり、ひとつの重要な特徴として、それを認識するために科学技術を用いる必要がある点が挙げられる。すなわち、放射能にしろ化学物質にしろ、それは人間が直接経験的に知覚できるものではない。その危険性は高度な測定器具と科学の言語によってでしか把握できない。現代におけるリスクとは、科学知識の援用を不可欠に必要とする。ところが、科学はその進展によって激しく分化しており、統一された視座を持つことはできなくなっている。リスクを見定めるには科学技術が必要であるのに、科学技術の専門家の間で意見の不一致が生じているため、リスクは確固たる基盤を基に判定されるのではなく、各視点の議論・闘争の結果として扱いが定められることになる。つまり政治化される。リスクがどの程度まで許容されるのか、それに対してどのような対処が必要なのか、それはこの政治的コミュニケーションのなかで揺れ動く。また現代産業社会は、このように常に派生しているリスクを経済的に利用することすらおこなう。リスクが利益を産出する手段として使われるようにすらなり、リスクは延命・あるいは増長されることにさえなる。
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リスクはいかにすれば回避できるのか、とかそういう技術論的なことがテーマなのではなく、リスクのあり方がどう変わり、それに社会はどう対処しているのか、というのがテーマ。
もっといえば、社会あるいは人間は何をコントロールできて、何をコントロールできないのか。
さらにいえば、プランニングとは何か。人は何かを計画するが、それは意図通り実現するのか。
結論からいえば、科学・経済システム等が徹底的に複雑化した世界では、意図通り計画が実現する担保はない。
では、「計画」「プランニング」とは無意味なのか?
そういうわけでもない。というより、各システムは「計画」を無意味だとは捉えていない。それらは複雑化し、もはや自己制御できなくなっているが、だからこそそれは拡大を続けていく。
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キーターム
「自己内省的近代化」「個人化」「サブ政治」「決定の強制」
p129 経済、政治、家族、文化といった部分システムからなる社会は、近代化の進展によってもはや「自然から独立した自律的な社会」として捉えることはできない。環境問題は社会の外側の問題ではなく、徹頭徹尾(発生においても結果においても)社会的な問題なのである。
p130 文明社会において、自然は産業によって変化させられて生じた「社会内部の自然」である。
p166 社会が相対的に安定し「脱伝統化」が進む局面では、私的領域においてさまざまな歴史的発展の可能性が開かれる。このような可能性が開花したもののうちの一つが、自己実現に対する要求が政治的なものへと変化すること、いわゆる「政治的な私生活主義」という新しい現象である。
p188 あらゆる差異にもかかわらず、所得額や学歴の違いを超えて共有性が生まれ、とりわけ危険を共有するようになる。
p194 互いに対立しながら独立している私的存在の孤立は、むしろ、さまざまな種類の成果や発展によって、社会・政治的に打ち破られる可能性をもつ。それに従って、人々の連帯は、個々の項目ごとに、個々の状況やテーマごとに締結・解消される。また、さまざまな状況ごとに全く異なった集団と締結・解消される。〜 連帯は、この意味において、あらかじめ与えられた社会的戦場での個人的な生存闘争における、状況依存的で人物依存的な目的を共有する同盟である。
p233 人生のあらゆる次元に、選択可能性と選択をせよという強制が出現してきている。選択のために必要な計画や取り決めは、原則的には取り消し可能である。そして、計画や取り決めに含まれる負担の不平等は、正当化される必要がある。
p268 個々人にとって、個々人の運命を決定する制度情況は、もはやたんに自分にふりかかる出来事や事情であるだけではなく、少なくとも自分自身が行った決定の帰結でもある。
p313 個人化の過程は理論的には自己内省的近代化の産物である。
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このようにリスク社会となった世界に対してベックは警鐘を鳴らしているわけだが、一応、処方も述べられている。(p369、p450など)
あらかじめ広範な議論をおこない、科学技術の帰結を予測するように努めることと。
しかし、そう述べているこの言明もまた、リスク社会の構造を抜け出てはいないのでは? 見通しの効かない世界で、予測できない・意図せざる帰結として生まれ得る破局の可能性を常に抱えていること、それがリスク社会というものではなかったのか? リスクを回避しようという試みがうまくいくという保証などないはず。
ベックもそのための具体的な制度については提案を保留している。(p458、p459)
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ベックの論理展開。
「一方で〜 / 他方で〜」