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 E・ゴッフマン “出会い”



“ENCOUNTERS ─Two Studies in the Sociology of Interaction─”
 1961
 Erving Goffman
 ISBN:4414518024



『ゲームの面白さ Fun in Games』『役割距離 Role Distance』という二つの論文から成る。
サブタイトル通り、相互行為についての研究。


「出会い」という言葉は、知らなかった人との新しい出会い、という意味で一般には捉えられる。
英語での encounter にも、偶然的な出会い、という意味が含まれている。
しかしこの書ではそういう意味では扱われていなくて、人と人が会っている状況一般を指している。

p4
出会い。ここでは、人びとが、互いに相手と身体的に直接的に居合わせる場合に起きるあるタイプの社会的配置 social arrangement の問題だけを扱う。そのような場合の人びとの集まりのことを、ここでは出会いないし焦点の定まった集まりと呼ぶことにする。

p247(訳者あとがき)
ゴッフマンの「出会い」encounter の概念は、日本語でわれわれがよく使う「出逢い」「邂逅」とは少しニュアンスが違う。ここでの「出会い」は、彼が特に「焦点の定まった集まり」「状況にかかわりのある活動システム」という抽象的な用語を用意して説明する必要のあるものである。


[焦点の定まった集まり]

単に人が同じ空間を共有しているということだけでは、焦点の定まった集まり/焦点の定まらない集まりという定義を区別できない。
「焦点の定まった集まり」は、空間が共有された状態における、互いに状況を保持することに集中したコミュニケーション。
とはいえ、空間を共有することは、まず最初に前提とされる。
では、空間を共有することはコミュニケーションに対してどのような関係があるのか。どのような影響を与えるのか。
→リアリティ、知覚の問題。

p vi
参加者の活動が公式の焦点の維持に専心し続けていることは、焦点の定まった集まりでは決定的に重要な特性であるが、社会集団一般の特性ではない。なぜなら、出会いとは違って、ほとんどの集団は、成員が身体的に一緒にいる場面から離れたところでも存在し続けるからである。一緒にいることは、集団性の一つの局面にしかすぎない。

p4
参加者にとって、出会いは次のようなものを伴う。それらは、注意を視覚的および認知的な単一の焦点に集中すること、言語的コミュニケーションにおいて自分を相手に対して相互的かつまた優先的に開放しておくこと、行為の相互関連を強化すること、参加者が相互に観察しあっていることを、各参加者に目と目によって充分に知らせるような生態学的な群れかたをすること、などである。

p4
〜出会いは、逸脱行為を訂正的に補整することと同様に、参加者たちのあいだにある感情を循環的に流すためのコミュニケーションの基盤を提供している。

p29
その活動以外の事柄にはまったく気づかなくなってしまうことで、視覚的および認知的没頭が生じる。

p33
他方、対面的ゲームは、それぞれの人のリアリティ感覚に異なった形で関係している。活動が自分の目前で行なわれているということが、単なる状況の定義をリアリティの厚みをもつものとして経験させることを確かなものにしている。そして他の人びとが関与しているということが、個人の実際の関心が拡散しているにもかかわらず、没頭状態が確実に維持されていることを保証することになっている。さらに、自分自身にとって世界を生き生きとしたものにさせるか、あるいは、一瞥、一つの身振り、ないしは一つの言及によって、人がそこに定着させているリアリティを無化してしまうかという点では、他人ほど有効なエージェントはないように思われる。

p80
彼が身体的に直接居合わせているところで起きる出来事が、容易に没入できる出来事なのである。他人と何かに共同して没入できることは、個人が注目することによって構成されたリアリティを強化することになる。

p108
すなわち、身体的環境それ自体が、そこにいる人びとのアイデンティティに関するさまざまな含意を伝える。加うるに、対面的状況では、欲しようと欲しまいと、非常に他種類の記号媒体が利用可能になる。それゆえそこでは、彼自身についての多くの情報を簡単に得ることができる。事実、対面的状況は、参加者が性格づけるというやり方で構造化せざるをえない理想的な投影の場であり、したがって、個人についての結論を、正しかろうと間違っていようと、本人が、それを欲しようとしまいと、関係なく引き出すことができる。


出会いは、たとえば膜が環境(空間)に対し自らを自律させるように、環境とのやり取りを選択的に縮減するシステムとして把握されている。

p14
それゆえに、焦点の定まった集まりのなかに展示されるに至る社会組織は、無関連のルールが効果的に作用した結果なのである。無関連のルールはその出会いのリアリティから何が除外されているかを記述はしているけれども、そのなかに何が含まれているかについては何も語っていない。それゆえ、われわれは今やシステム的見解を持つことを試みる必要がある。

p23
〜外部的に具現されている諸属性に対する障壁は、堅い壁というよりも、むしろスクリーンのようなものであり、このスクリーンは、それを通過するものを単に選択するだけではなく、変形させたり修正したりする〜

p62
われわれが出会いを、周囲に比喩的な意味での膜をもったものとして考えるならば、われわれの関心に焦点を与えることができる。また、出会いのダイナミックスは、より広い世界から出会いを選択的に切り離す環境-維持のメカニズムの機能と結びつけられているということもわかる。


- 空間の共有
- 知覚・認知の焦点
- 環境に対するシステム
によって出会い概念は構成される。
出会いの最初の前提となる「共有される空間」は、単純に相互の相対的な位置関係のみを問題にしていて、具体的イメージに満ちた空間ではなく、抽象化された空間として考えられている。さらに、出会いが成立されると空間は環境の側に置かれ、スクリーンの向こうへ隔てられて、遠ざけられる対象となる。
距離だけが出会いに関わりを持っていて、そこがどのような空間かということは問題とされていない。
相互行為は自律的に成立するもので、空間の性質・特質と直接的関係は持たない。というようにここでは観察されている。



[役割距離]

たとえば外科手術のような、徹底して効率的であることを求められる、社会のなかでも最も高い水準にある相互作用の場においてすら、外部に基礎を置く事柄は入り込む。人は多元的役割演技者なのだ。そして演技しながら、役割距離によってそれらの多元性をコントロールしている。
だが、そのように演技している主体は何者なのかという問題が次に浮かぶ。
「これは本当の私ではない」と考えて、役割距離で自己を防御する主体とは、何か。
ゴフマンにおいては、個人という概念はそれ以上遡及されていない。


[ノート]

p18
具現化されるリソースが存在することがわかったとすると、それぞれの焦点の定まった集まりのなかで、これらのリソースを参加者の間でどのように配分するかという問題を解決しなければならないことは明らかである。

p19
それはちょうど、例えば議長席を誰が占めるかという問題が株主であるというような外部に基礎を置くような要因で決まるようなものである。出会いの参加者が外部に基礎を置く事柄からまったく自分自身を完全に遮断するための確固たる障壁は、ここではあまり確固たるものではないように思われる。篩と同じで出会いの障壁は、外部に基礎を置く事柄を出会いのなかに少しは侵入させてしまう。

p26
それぞれの手はわずかな可能性のなかから選ばねばならず、多くの場合、敵側のチームのその前の手によって決定される。逆に言えば個々の打つ手は敵側にとって次に利用できる可能性を決定することになる。それぞれのチームはこの相互的な決定に気づき、それをコントロールしようとする。〜相互行為の概念は、周辺的で瑣末なものであるかもしれない相互的な影響を指すかわりに、今や相互的に運命を決定するより高次に構造化された形態を指すことになる。

p31
なぜ、自発的な関与という要因が、出会いの組織のなかでそれほどの重みを持つのであろうか?
〜参加者が出会いにおける公式的な注目の焦点に自発的に関与することは、他者に彼が何であるか、彼の意図がどこにあるかを語ることになり、そのことで、彼の前面にいる他者に安心感を与えることになる。さらに、相互的活動へ共通に自発的な関与をすることによって、この活動の共有者たちは、しばしば、ある種の排他的連帯をもつことになり、仲間意識、精神的親密さ、そして相互の尊重といったものを表現できるようになる。

p35
人びとは居心地が良いことを「ノーマル」な状態だと定義づけがちだが、現実には、日常世界で長い時間これをなし遂げることは滅多にないように思われる。

p63
〜ここでユーフォリアは人びとが正当と認められた変形ルールを自発的に維持することができたときに起きるということを論じることにする。

p80
対面的相互行為において状況の定義を相互に維持する過程は、関連および無関連のルールによって社会的に組織される。没入することを管理するこれらのルールは社会生活では実質的でない要素、すなわち、丁寧さ、作法、礼儀というような事柄であるように見える。しかし、われわれがリアリティをしっかりと実感することができるのは、外部の世界の揺るぎない性格によっているのではなく、まさにこれらのもろいルールによっているのである。ある状況のなかで居心地良くいられるということは、これらのルールに適切に従っているということによる。

p87
したがって、役割は、社会化の基本的単位である。つまり、社会における仕事の配分や、その仕事を実行するための配置などは、種々の役割を通して行なわれるのである。

p89
役割について論ずる場合、しばしばコミットメント commitment という言葉が使われる。私は、この用語を、インパーソナルに強制される構造上の配置の問題に限定しようと思う。個人が何かにコミットするということはどんなことか。それは多くの制度的な配置がとかく固定的で相互依存的な性格を持っているということから、彼の行為あるいは存在が、彼の生活の他の重要な可能性をもはや呼び戻せないものにしてしまうことである。すなわち、彼は一連の行動をとることをやむなくされ、また、他の人びとにも彼が現在続けている仕事を基礎にして彼らの行動を起こさせ、さらに、その仕事の予想されない結果によって彼が非難されやすい立場に立つことになることである。個人は、かくして位置に固定され、その位置に組み込まれた約束と犠牲に従って生きていくことを強制される。普通は、人は自分が常時的に遂行する役割だけにコミットする。

p91
個人は、それぞれ一つ以上のシステムまたはパターンに関与させられており、したがって、一つ以上の役割を演じているというのが、役割分析の基本的仮定になっている。それぞれ個人は、いくつかの自己を持つことになり、それらの自己がどのように関係しあっているかという興味ある問題が生じてくる。役割についての伝統的なパースペクティブによれば、人間のモデルは、意味的な関連を互いに持たない、いくつかの役割からなる持ち株会社 holging company のようなものである。そして、われわれの新しいパースペクティブにおける関心事は、個人がこの持ち株会社をどのように経営していくかということを見い出すことである。

p95
この改訂された見解では、役割は特定の位置における諸個人の典型的な反応であると規定することができる。もちろん、典型的役割と、所与の位置におかれた具体的な個人の実際上の役割パフォーマンスとは区別しなければならない。

p115
個人とその個人が担っていると想定される役割との間のこの「効果的に」表現されている鋭い乖離を役割距離 role distance と呼ぶことにする。

p121
であるから、われわれは役割距離には防御的機能があるかもしれないと疑ってみることができる。

p147
であるから、われわれは、状況の定義という観念から出発するのではなく、特定の定義がその状況を管理していると考え、そしてこれらの制御が顕在的に威嚇されるか、あるいは、騒々しく拒否されないかぎり、多くの対抗-活動が可能になるという考えから出発しなければならない。個人は次のように言うために行為する。「私は物事の成り行きに逆らわないで、それについていく。しかし、同時に、私がその情勢にすっかり包み込まれていないことだけは、知っておいていただきたい。」したがって、文句を言い、冗談を飛ばし、その状況に起こっていることに皮肉に反応する人も──どんなに不機嫌であっても、広く一般的な状況の定義には従っていく。

p155
個人は、一つの集団から自由になっても自由にならない。なぜなら他の集団が彼をつかまえてしまうからである。一つの活動システムに積極的に参加しているときでも、彼は、多くの特定の活動システムを横断している他の事柄、関係、多元的な状況にかかわりのある活動システム、行為の規範保持に従事せざるを得ない。

P159
それは社会が、彼を、特定の役割を持った個人としてではなく、多元的役割演技者として理解しているからである。

「出会い 相互行為の社会学」ゴッフマンの社会学2
 アーヴィング・ゴッフマン
 佐藤毅, 折橋徹彦 訳
 誠信書房






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell