::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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 森山大道 “新宿”“ブエノスアイレス”







 いまいちばんかっこいいと思ってるものは何?と聞かれたならば、2006年3月5日の時点における俺は、森山大道の写真を挙げます。
 端緒は +81の最新号、58-59ページの見開き。および 66-67ページの見開き。見開いた左右の写真の組み合わせも含めて。グラフィカルなまでに鮮烈で、強く焼き付けられたような状景。まずその視覚的インパクトがはっきりと脳裏に刻まれた。ハイ・コントラスト、モノトーン。構図の高度なバランス、被写体の物語性。それらの衝撃をもっと欲して、“新宿”と“ブエノスアイレス”の二冊を買ってみた。

 この二冊を選んだ理由は、次の通り。
 まず森山大道にとって特別な位置を占めているという新宿をそのまま表題とした一冊を必須のものとして。そしてこれへの対照基準としてブエノスアイレスを。同じ手法で撮られたまったく別の国・別の街がどのように写されているかを比べてみることが、それぞれの固有性をより際立たせるだろうと思ったために。
 ブエノスアイレス。南米、アルゼンチンの街。猥雑なイメージで、看板とかの文字もまったくわからない、文字通りの異国。今まで行ったことはないし、何の準備もなくこんなところにいきなり放り込まれたとしたら大変だろうな、とか思う。この前見た“バス174”の印象もまだ残ってるし(あれはブラジルだけど)。ところが、“新宿”の方を見てみると、新宿も同じような視線で撮られ、同じような雑踏が写っている。人々の表情や、それぞれが生きている何らかのドラマの一断片、瞬間が、地球の裏側のブエノスアイレスと変わらない。たまたま新宿だからなのか。新宿がそのように雑然とした街なだけなのか。それとも単に同じ写真家が撮っているからなのか。あるいはどの国のどの街でもその本質は変わらないなんていうことなのか。
 新宿の方はブエノスアイレスとはまったく逆に、とてもよく見知った場所で、完全に自分の日常生活圏のある一角を占めている。昔から馴染みのある街。もちろん他の街、たとえば池袋とか渋谷に行くことだってあるし、それぞれに重要な思い出もある。だけど、自分の歴史を考えてもっとも関係の深い街を選ぶとするなら、ひとつは生まれ育った街だったとしても、もうひとつ選ぶならばそれは新宿だ。
 そのように自分に強く結びついた街が、何かフィルターをかけられて、いつも自分が見ている視点とはまったく異なるものとして写し出されている。それこそブエノスアイレスと同じぐらいに、異質な世界のように。



“新宿”

新宿












 濃密な気配の漂う写真。その生々しい存在感のために、一見、世界をある瞬間において凍結させたものであるかのようにも見えるけど、でもどうもそこにとどまらず何かそれ以上のものになっている感じがある。写っているすべての要素それ自体はどれも何の変哲もないものなのに、そんなありふれた対象が、この配列によって、この光の加減によって、これらの視角によって、このように全体を構成しているという状態を見ると、あらゆる要素がそれぞれ堅固に結びついた一枚の状景が見出される。そこではどの要素も不可欠なものであり、全体への貢献においてはすべて対等な位置にある。同時に、それらの相互にある抜き差しならぬ関係性が、空間のあらゆる細部に凝縮されているのが垣間見える。
 この写真が世界の単なる写像にとどまっていないのだとしたら、そこには何があるのか。たとえばこうした写真によって世界の本質とかが暴かれている、なんていうのとも違う。世界の要素をもとにつくられているけど、もはやその写像の源泉とは大きく軌道を異にする別の新たな被造物と言った方がしっくりする。独立してできたまったく新しい世界であって、もう源泉の世界とは異なるルール、別種のコードに規定されている。
 まず感じるのは、何かが加速され、過剰に暴走している、という印象。すべてモノトーンで、ときに抽象的に見える構図の写真もあるけれど、静的な感じは受けない。緊迫感を孕んでいる。被写体が持つ緊張というよりも、画像としての内的なコードに基づく強調、インパクトだ。
 色が捨象され、粗くぼかされた低解像度の画像。そのように世界が一旦単純化された上で、視覚的な強弱・対比が過度に加速させられている。全体のなかで特に何かに焦点が当てられることなく、各要素のそれぞれの見え方が、より強調されるように。そのそれぞれにおいて、明確になるように。
 写される世界そのものとは切り離されて、視覚のコードのみで自律的に加速された状景。被写体自体に宿るようなものではなく、その配列とか、構成とかだけで生まれたもの。

 ところが、では何がそもそも写されているのか?と考えてみると、それは新宿という、もっとも日常に近い世界だったりする。写り込む人物も、どこでも見かけるキャラクタータイプ、仕草、姿勢、表情のもの。これらの写真のうちに自分の知り合いが、あるいは自分自身が写っていたとしてもおかしくない。そのように対象物としてありふれた馴染みあるはずの世界が、まったく異なるイメージに変貌している。それは世界を別様なものとして見せているということなのか。コラージュ、アサンブラージュ、という言葉が浮かぶ。日常の断片を要素として新たな造作物を組成しているという意味では、近いものなのかもしれない。
 これらの写真を見るときは、ふたつの平行線が軸として意識させられる。ひとつは自分がよく知る街角の風景。もうひとつは、そのような実際の世界とはかけ離れた、純粋に画像的な構成。頭の一方でどちらかが思い浮かび、片隅ではもう一方がぼんやりとあって。だけどふたつが重なり合うことはなく、統合されることはない。両者が交互に意識に上るなかで次第に湧き上がる驚き。ただの路地とか単なるどこにでもいる人々とかのはずなのに、なぜこのように刺激を持ったものとして見えるのか?

 そしてこの大量なページ数!
 カタログとか辞書とかそんなレベルの分厚い本を、ひたすらめくっていく行為。めくるたびに現れるイメージ、その強烈な印象が残像のようにとどまりながら、新たな状景が次々に現れ、また流れ去る。
 じっくり見ても良いものなのかもしれないけど、一秒か二秒で目に焼き付けて、次から次へと流し読み、一度に膨大な量のイメージを摂取する、という見方の方が合っていると思う。堪能する、というよりも、消費する、という感じ。個々の画像が並列的に立ち上がり、あるいは識閾下に次々と放り込まれていくような。そのような全体として体験される、苛烈なイメージ。


森山大道 新宿 Daido Moriyama Shinjuku”
 2002, 月曜社
 森山大道
 ISBN:490147703X





ブエノスアイレス

DAIDO MORIYAMA 「Buenos Aires」












 一方、ブエノスアイレスの方は。
 飛行機の中を写した一枚に始まり、ブエノスアイレスの夜景、着陸間際の窓の外、到着して荷物を降ろし始める乗客。そしてタイトル。というシークェンスにより導入される。
 続くのは朝の遠景、街角、建物、と、こちらは全体の流れがとても意識されている。旅行者の視点だ。
 ところが次第に被写体は、物珍しげな観光客的に撮られたものから、雑踏を離れた何気ない街の構成物を写したものが混じるようになっていく。街に慣れてきて、もう表面的なものへの関心がなくなり、その街の特質をより見極めようとするかのように。
 新宿とは違って、ほとんど知らない街なので、対象の基本的な情報がまったくない。どんな街区のどんな事物が写っているのかもよくわからない。モノトーンの建物や街並が続いて、だんだんいつの時代なのかもわからなくなり始める頃、突然カラーの写真が何枚か現れる。その登場の仕方がけっこう新鮮で、ああこれは現在の都市なんだ、っていうのが実感される。かと思うとまた写真はモノトーンに戻り、再び手探りのような連続を進む。対象はさらに幅広くなり、その関心が、あるいはその足跡が一気に広がっていくのがわかる。写されるものが断片的になっていって、どんどん街の細部へ入り込んでいき、迷子になりそう、と思い始めた頃にまたカラー写真が。そのようにして何回かに渡って挿入されるカラー写真が、全体構成の中でのあるリズムをもたらしている。

 写されているのは、街、人。または、移動する視点で撮られたもの、と言ってもいいかもしれない。街路、乗り物、あるいは飲食店、物販店その他。旅行者が行けるような場所。視点が街を歩きまわっていることが体感される。その点は新宿と少し違うように思った。新宿の方はもっと、定点観測的な感じがした。いつも拠点にしている街のなかで、ちょっと脇に目をやってみるとか、こんな視点もあったんだ、というような。だけどブエノスアイレスは、より好奇心を持って街をさまざまに移動している感じだ。二冊を交互に眺めてみる。多種多様な人々。街を構成する無数の、分類することもできないような構成要素。そういったものは同じ。都市というのは、都市計画でできているのでもないし、個別の建物の単なる集合でできているわけでもない。そこには名前もないような微細な要素が膨大にあって、それらの雑多な集積と、その上を行くまた膨大な、それぞれが名前と背景と性格、履歴、それらにまつわる無数の物語を背負った人々と、そうした巨大に複雑な系としてできている。

 だから両方の写真を見て思ったのは、あたりまえのことだけど、どんな人にもそれぞれの生活があって、それぞれの人生を生きているんだということ。何らかのピークや節目を織り交ぜつつ、起伏のある人生を送っているはずの人々。それは、世界のどこでも同じこと...。
 巻末に近付くにつれ、ふたつの街は、同じようなものとして受容されるようになってきた。そこに住め、と言われたら、まあなんとかやっていけるかな、と思えるくらいには。


森山大道 ブエノスアイレス Daido Moriyama Buenos Aires”
 2005, 講談社
 森山大道
 ISBN:4062130203









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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell