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 中村三春 “フィクションの機構”




フィクションの機構 (未発選書 (第1巻))

フィクションの機構 (未発選書 (第1巻))





文芸学の本。
第1部 フィクションの理論 のみ読んだ。
 第2部以降は実践編。
  第2部 フィクションの実践――“純粋文芸派”の研究
   II 横光利一の〈純粋小説〉/ III 太宰治メタフィクション/ IV 立原道造の Nachdichtung――虚構とインターテクスチュアリティ/
   V レトリックは伝達するか――原民喜と不条理への投錨

虚構 フィクション とは何か。
第1部では、概念的相対主義の共約不可能性のもとで、「虚構」がどのようなメカニズムを持つものなのかが検討されている。
虚構の「虚」と「構」という側面に対し「構」の働きに着目し、最終的にグッドマンの根元的虚構論というべき立場に概ね拠っている;
世界は記述によって制作される。記述の記法は人為的で別様可能性があるという意味で虚構と言える。


[ノート]
第1部 フィクションの理論――根元的虚構論への道
I フィクションの理論
 
一 虚構論のプロブレマティーク


  1 文芸学と概念的相対主義

  • 真理の定義
    • タルスキの引用解除理論:真理の意味論的な定義
       規約T「Xが真であるのは、pのときまたそのときに限る。」(pは任意の文、Xはこの文の名前)
    • →デイヴィッドソン 根元的解釈の理論
       :「R(I0, I1)」が真であるのは、R(I0, I1)のときまたそのときに限る。 ……R(I0, I1):命題函数(「I0は I1の作者である」など。)

文芸学的命題は、このような命題函数の複合や演算の繰り返しによって論理式に置き換えることができる。
真理の定義はこのような形式以外では考えられないが、しかし、情報 I0・ I1 および命題函数Rの内容は、相対的

  • 概念的相対主義クワイン
    • 真理とは常に、「……にとっての真」(スウォイヤー)でしかない。
  • グッドマン:世界は適切な〈ヴァージョン(概念図式) によって制作される一種の虚構の産物であり、世界は〈ヴァージョン〉に応じて複数的である。
    〈ヴァージョン〉相互間の厳密な変換は不可能:共約不可能性
  • →デイヴィッドソンによる反論:
    • 真理は、タルスキの規約Tという既知の言語への翻訳による以外には定義しえない。従って、翻訳可能性概念から独立には、真理概念はまったく理解できない。そもそも真理概念を抜きにして枠組みの差異について語ることは不可能

共約不可能性:異なる公理系において、ある一定部分の要素は共通であるが、何か決定的な領域において両立不能という事態。→関連づけの真理条件の相違が、文芸学において決定的な意味を持つ。
学問は差し当たり、最終到達点のない、不断の対話と説得の「通過」過程、一種の言語ゲームと見なされるほかにない。


  2 虚構観の〈根本的対立〉

源氏物語』の「螢」巻
 玉鬘「げに、いつはり馴れたる人や、さまざまに、さも酌み侍らむ。『ただ、いと、まことのこと』とこそ、思う給へられけれ」
 (まことに、嘘偽りを言うことに馴れた人であればこそ、物語を様々に読み取るのでしょう。でも、物語は、私には『ただ、まったく真実のこと』としか、思われないのでした)
物語を「まこと」としか読むことのできない読者の存在する可能性。虚構の真理値を真と見なす読み方。

  • 高橋義孝・パヴェルによる分類学
    • A 現実と虚構の総体を現実へと収斂させる:生産美学系統、玉鬘的な素朴な連続視。
    • B 現実と虚構の間に境界を認める:現代の多くの虚構理論。ハンブルガーやイーザーのミメーシス風虚構論、分析哲学でのラッセルやストローソン、サールの言語行為論。
    • C 現実と虚構の総体を虚構に収斂させる:グッドマン、デリダ、ローティらの根元的虚構論。ウォールトンやカリーの「ごっこ遊び」虚構論がBとの境界線上に位置。

文芸学は、科学の虚構性と、文芸の虚構性という二重の課題を負っている。


  3 虚構の二つの側面

  • 「虚構」という語には二つの側面がある
    • フィクション「」fictio ……「つくりごと」
        :無から有を作り出す点において創作(制作・構築)の一種。“制作”(ポイエーシス)
    • フェイント「」feint ……「そらごと」
        :現実に存在しない想像物。事実(真実・現実)を対立する活動。嘘。“認識”エピステーメーの領域。


二 アリストテレス派の虚構行為論


  1 ミメーシス――形象的呈示

  • アリストテレス詩学』のミメーシス論:
    • ミメーシスは単なる現実の「模倣」ではない
    • ミメーシス:行為の再現。(:ミュートス。いくつかの出来事の組み合わせ。)の形を取る。生起する可能的事象を描く(:可能性の記述)。歴史の偶然性・個別性に対して必然性・普遍性を持つ(:哲学性の獲得)

現代に至るまで、ミメーシスを「模倣」や「再現」と見なす解釈は多いが、しかしミメーシスは可能性記述と哲学的性格を持つ虚構行為であり、「模倣」や「再現」とは完全に区別する必要がある。
この書では、ミメーシスを「形象的呈示」と訳す。

  • ミメーシスの骨格:
    • ミメーシスは制作者の世界観が介在する活動である。(世界内存在原理)
    • ミメーシスは、ミュートスの形で具体的に描き出す形象的呈示である。(形象性原理)
    • ミメーシスはミュートスを制作する制作者の制作技術の所産であり、その意味において、制作者の表現となる。(制作技術原理)
      • いかなる模倣や写生も、そもそも純粋な模倣や写生ではない。
        「というのも、私の前にある対象は、一人の人間、原子の集合、細胞の複合、バイオリニスト、友人、愚か者、その他さらに多くのものであるからである」グッドマン
        むしろミメーシスの方が、厳密な模倣よりも、人間にとっては基本的な活動。
    • ミメーシスは、高尚であれ低劣であれ、何らかの理想化を行う制作である(理想化原理)。
      • 理想と理想化の性質は価値観に応じて相対的。むしろロシア・フォルマリストが言うところの〈異化〉


  2 ミメーシス――受容理論、及び「螢」の巻の物語論

  • リクール:アリストテレスのミメーシス概念の現代的解釈をおこなった;
    ミメーシスの三段階の水準
    • 〈ミメーシスI〉:詩的制作の前過程への指示
      • 制作者と読者との共通の場を形作るところの、行為の構造的・象徴的・時間的な意味を先行理解する過程
      • イーザーのいうテクストの〈レパートリー〉(蓄積)に対応。(過去の文芸と同時代のテクスト外の現実からの引用の蓄積
    • 〈ミメーシスII〉:創造活動としてのミメーシス
      • 〈ミメーシスI〉によって先行理解された材料を、統一された筋(ミュートス)の形に整える。〈物語的統合形象化 configuration
      • イーザーのいうテクストの〈ストラテジー(戦略)に対応。
    • 〈ミメーシスIII〉:詩的制作の後続過程
      • 現代の受容美学の思想。テクスト世界と読者の世界の交叉
      • ミメーシスは構造ではなく構造化する活動であり、作者・テクスト・読者すべてが制作過程に参与する動的な場。解釈による以外には最終的に成立しない生産過程
      • イーザーのいうテクストの〈否定性〉による現実世界へのフィードバックに対応。

リクール「すなわち私にとり、世界とは、私が読み、解釈し、愛したあらゆる種類の記述的、詩的テクストによって開かれた指示作用の全体なのである」

→ただし、これらのミメーシス的虚構行為論は、虚構の「構」の側面については究明したが、「虚」については消極的。


  3 ミメーシスとディエゲーシス

  • ミメーシスの機能・効果
    • プラトン:ミメーシス(「真似」)< ディエゲーシス(「叙述」)
    • 一方、アリストテレスにおけるミメーシスは、プラトンのミメーシスとディエゲーシスとの統一体:
      ミメーシス:〈呈示〉presentation / ディエゲーシス:〈語り〉narration
      →言語文学では〈呈示〉は〈語り〉によって初めて可能となり、逆に〈語り〉は必然的に〈呈示〉を伴う。両者は不可分。

→ブースやジュネットは、アリストテレスによる統一ではなくプラトンの概念に戻るべきと主張。
→しかし彼らはミメーシスを自動的な複写(模倣)と見なし、虚構論的な意味を減殺してしまう。

  • そもそもディエゲーシスのもとである日常言語において、メッセージの〈伝達〉とはどのような事態か。
    • 言語情報と主体の真意との同定は、厳密には不可能。主体の真意なるものは言語情報による以外には近付けず、いかなる解釈・読解も、原理的には内面なるものに到達しえない
      これを便宜的に、ある慣習的な水準を満たせば十分なものとしてプラグマティズム的に処理し、そのような慣習を〈伝達〉と称しているのが日常言語。
    • →その意味で、日常言語なるもの・コミュニケーションなるものは、人為的・人工的に構築された、虚構の一種。
      ディエゲーシスすら、それが言葉によってなされる限りにおいて、虚構的・形象的呈示としてのミメーシスにほかならない。


  4 「かのように」と「として」の虚構論

  • イーザーの虚構論
    • アリストテレス的なミメーシスを虚構として再定義し、従来の現実と虚構という二項対立図式を否定。
       「既知の現実との一切の結びつきを欠いた一片の虚構などというものは、理解不能である
      →第三項として「想像」を加え、虚構を、現実と想像との間を架橋するものとして規定。
      虚構化活動は、現実 / 虚構的なもの / 想像的なもの の境界侵犯を行うテクストの相互作用。
  • 虚構化活動における境界侵犯の契機:
    • テクスト外の社会的・歴史的・文化的あるいは文芸的体系からの〈選択〉……〈レパートリー(蓄積)に対応
    • 選択された伝統・価値・示唆・引用等の技術的な〈結合〉……〈ストラテジー(戦略)に対応
  • →これは、テクストを「かのように」(as if)の状態において受容する態度(ファイヒンガー)に帰結。(cf. 森鴎外「かのやうに」)
    • 数学・物理学・法律学等の抽象概念は、実際には虚構 fiction であることを承知しつつ、なおそれらがあたかも実在する「かのように」取り扱うことを前提として成立し機能している
  • イーザーの理論では、アリストテレスにおけるミメーシスの理想化原理はそれだけでは完結せず、読者へのフィードバックが伴われる。
    「かのように」とは、テクストを何物かの呈示とその否定との二重構造として受容する、虚構認知の機構にほかならない。

→ただし、イーザーの理論では虚構解釈の枠組みじたいが読者によって千差万別であり、相対的。
結局イーザーでは、旧来の現実・虚構の二項対立が現実・想像のセットに置き換えられただけではないか?

  • イーザーに対するハンブルガーの批判
    • ハンブルガーは「虚」ではなく「構」の側面において虚構を理解する;
      文芸的虚構は、非現実の接続法が要求される「かのように」構造ではなく、「として」(als/as)の構造にほかならない。
      虚構の文芸作品は、現実である「かのように」ではなく、現実「として」受容される
  • →結局、イーザーの「かのように」理論と、ハンブルガーの「として」理論には共通する難点がある。
    • これらでは、小説や物語が実体として虚構であり、虚構の判定基準は受容者によって共有されるという確信が暗黙の前提となっているのだが、小説を虚構として受容するために必要な条件は、小説内部の言葉の配置ではなく、むしろ受容者の側の態度選択の問題。
      →虚構の意味論や認知の領域に踏み込む必要


三 分析哲学と虚構の意味論


  1 虚構的指示と表意作用

  • 虚構の言語すなわち語・文・テクストは、何を指示するのだろうか:分析哲学はこれを一貫して追及してきた
  • ミメーシス(形象的呈示)論における指示や意味の分析
    • 指示対象の有無
      • 指示対象が実在するのかしないのかは、語・文・テクストの表面のみから理解することは不可能であり、何らかの「見知り」による検証が必要。
        だが、検証以前にも、その言葉はまず何物かを呈示するものとして受容されることができ、別の水準で指示対象を持つ言葉と同等に扱うことが可能である。
        虚構・非虚構の区別は、検証の成否以外の何物でもなく、検証が成功したときに初めて語・文は虚構ではなくなる。
    • 文脈理論
      • コンテクストもまた読者の概念図式に対して相対的
    • 記号論による批判
      • エーコ:私たちの言葉そのものには、その言葉の指示する対象の実在と非実在との区別を保証する能力や性質は備わっていない
      • もっとも、記号論は指示の理論をほぼ切り捨てたところに限界がある。逆に分析哲学は指示の理論を偏重しすぎた。
        文芸理論はこの両者を止揚する道を選ばねばなるまい。


  2 言語行為と虚構の「偽装」理論

  • 現代の言語行為論および分析哲学における虚構論議の契機:サール:
     • 指示されるものは、いかなるものであれ存在していなければならない(存在公理)
     • 一つの対象についてなんらかの述語が真であれば、その対象と同一であるいかなるものについても、それを指示するためにしようされる表現の如何にかかわらず、同じ述語が真となる(同一性公理)
    の二つの原則を起点とし、指示と同定に関与する言語行為の定式化を試みた。
  • 日常言語の規則
    • 主張の制作者は命題の真理への責任
    • 話し手は命題の真理についての証拠を提出できる立場
    • 話し手と聞き手の両方にとって明白に真であってはならない
    • 話し手は命題の真理における信念に対して責任を負う
  • →虚構的原則はこれらの規則からの逸脱である。虚構作品の作者がおこなっているのは、主張をなす発語内行為の遂行を偽装すること。
     偽装:「欺瞞」/「かのように」の側面 →サールによれば虚構は後者に属する
  • →虚構と非虚構を区別する徴表:テクスト自体の特徴ではなく、作者の発語内的意図に依存する。それを遂行するための規約が必要。
  • 虚構の実在・非実在:虚構の人物は実在しない。それは虚構の中にのみ存在する。ただし、読者は虚構の内側の人物を指示することができる。

→サールの虚構論への批判の余地は;虚構の概念的な相対性。言語使用における「正常」と「寄生的」を厳密に区別することなどできるのか。
もっともサールは、虚構的な物語が非虚構的な要素を含むことは認めており、指示と主張の両面でそれを論じている。

虚構の認知を最終的に決定するのは、発話者の意図や「発語内的意図」ではない。受容者側のフレームが関わってくる。


  3 〈表象〉と「ごっこ遊び」

  • フレーゲ
    • 〈意義〉 Sinn:語・文の思想
    • 〈意味〉 Bedeutung:思想の真理値
    • 〈表象〉 Vorstellung:真理値や思想以前の「感覚的印象」。純粋に主観的で内的な象。文芸学において一般に形象 figure と呼ばれるものに対応

虚構の認知を〈表象〉の水準において記述することは不可能であり、虚構性は超越的に前提とされるか、さもなければ単に循環論法に陥る以外にない。

  • ↓これらより一歩踏み出し、表象 representation そのものを虚構の必要条件として規定するのが、
    ウォールトンの「ごっこ遊び」虚構論
    • 虚構的であるということは、根底においては、ごっこ遊び make-believe のゲームにおいて支柱として働く機能を有しているということ
    • シーツや絨毯や切り株は、想像力を始動させ、現実とは異なる世界を作り上げるための〈支柱〉 props となる。そして、小説や物語など表象と呼ばれるものは「ごっこ遊び」のゲームにおける〈支柱〉である。〈支柱〉は想像を促し(prompt)、あるいはゲームの対象ともなるが、条件法的な生成の原理によって、読者に想像することを命じる(mandate)
      虚構は、共通の「社会的な機能」において〈支柱〉として働くものに限られる。この働きはテクストのその他の能力と共存し得る。だから虚構のテクストが同時に主張や知識、文化的な意志を運搬することが可能。
  • →カリーはウォールトンの「ごっこ遊び」論をさらに展開
    • 虚構において真である事柄とは、「ごっこ遊び」のゲームをプレイするために有効であるような命題
      (このゲームは勝敗を特定するゲームとは異なる)

「ごっこ遊び」理論は、「偽装」理論と並んで、「かのように」虚構論の枝道と考えられる。(日本文芸史における「見立て」の趣向もこれに近い)

  • →次のような疑問も残る
    • 「ごっこ遊び」のゲームはいつ開始され終了されていると言えるのか? 「ごっこ遊び」(虚構)と現実とは全く区別できず融合してしまうのではないか?
      遊びと非-遊びとの境界線が曖昧であり、不明であるからこそ、虚構は現実以上の衝撃力を発揮するのではないか?
      日常言語であれ、小説であれ、いかなる言葉でも、その根底には現実からの次元の飛躍としての「ごっこ遊び」(虚構)が存在しているのではないだろうか?

→根元的虚構論へ


  4 根元的虚構論

  • グッドマン:唯名論 あるいは(言うなれば)根元的虚構論。概念的相対主義の一支流。
    • 唯一の実在する世界という思想は誤謬であり、世界はその都度、それを記述する、ある〈ヴァージョン〉すなわち語り方・記法に従って言明されることによって制作される。
      「記述されたものが何であれ、われわれはそれを記述する方法に縛られている。われわれの宇宙はいわばこれらの方法から成るのであって、ひとつにせよ複数にせよ、世界から成るのではない」
    • 世界を語る正しい〈ヴァージョン〉は複数存在するから、それに応じて世界も複数的となる。そして〈ヴァージョン〉間は共約不可能
      〈ヴァージョン〉は常に人為的・文化的な函数なのだから、世界が真なる〈ヴァージョン〉によって制作されるということは、事実は虚構によって作製されるということ。
    • 虚構と非虚構、科学と芸術という一般的な区別を廃し、それらの根元に共通に虚構が存在することを核心とする点において、根元的虚構論と呼ぶことができる。虚構の「構」の側面を本格的に取り入れることに成功。
  • ローティ「すべてが夢ならばそれがどうだというのか? それらがすべて造り上げられたものだとしたらそれがどうだというのか?」
  • このような根元的虚構論に対する批判もある
    • 西村清和:根元的虚構論は、現実の「経験に接する」という条件を無視している。現実と虚構は存在論的に異なっている。
  • →これらへの批判的検討
    • 「現実経験」として認められるべき対象は、それがなにゆえ現実として認められるのかを記述されなければならない。根元的虚構論によれば、そのような記述は、〈ヴァージョン〉であり〈差延〉である限りにおいて、既に虚構だ。
    • そもそも、物理学における素粒子等が人間に直接的に知覚できないという意味では、もはや虚構と言うべきである。
    • また、読者主体に属する世界観が「人生の現実世界」に属さないとは、一概には言えない。

根元的虚構論は、基本的には論駁できない強度を備えている。
根元的虚構論の否定は、虚構と非虚構との区別の論拠を提出することなく、その区別を前提とする結果に陥り、ほぼ論点先取の誤りを犯すことになるからである。((cf. 観念論))


四 自己言及システムの文芸学


  1 関連づけと虚構のジャンル論

根元的虚構論では、虚構と非虚構もしくは芸術と科学との相違は絶対的なものではなく、「程度の差」にすぎない。
ただし日常的な実践ではこの「程度の差」は無視できない。私たちはこれを現に区別している。

この「程度の差」の指標を便宜的に「ジャンル」と名付けてみる。
虚構と非虚構の差はジャンルの差。(旧来の秩序的なジャンル観ではない)

  • 関連づけとジャンル・様式・文体
    • ジャンルを決定するものは、関連づけ(引用・連鎖)様式(cf. バルト、リオタール)
      語や文そのものは虚構ではないが、それらの総体を構成するテクストが、受容者のフレームにおいて虚構的なジャンルに属すると認知された瞬間、それは虚構のテクストと呼ばれる。ジャンル すなわち先行了解を形作る前提情報 から、虚構・非虚構の区別が生まれる。
    • ただし、虚構性の判定に決定的となる事柄は、ジャンルの性質を認知する読者側のフレーム以外にはない。
      ジャンルや様式そのものもまた、それらが〈ヴァージョン〉である限りにおいて虚構の所産にほかならない。
  • ジャンルの決定不可能性
    • ディルタイ了解の完成は本質的に不可能。従って、解釈がすべて。解釈は果てしなく続き、テクストの意味はその都度、「通過理論」としてのみ提出される。
    • ジャンルは相対的
      タルスキの規約Tも人為的な取り決めにすぎない。ただし規約Tだけは最低限の合意の対象として主張するのであり、その意味で、絶対的相対主義とは違う。関連づけの真理条件の基礎だけは提案する相対的相対主義。しかし〈ヴァージョン〉(概念図式)の相対性を認める限り、虚構か非虚構かの区別は決定不能
    • このようにして淘汰されたジャンルが虚構・非虚構の境界線を形作り、生活や読書の便宜を提供している。((cf. 固有値))
      しかしジャンルはいつでも更新される可能性を持っている。ジャンルそのものが虚構(任意的)。→学問的淘汰によるジャンルの制度化
  • ジャンルの慣習性
    • 虚構・非虚構の区別は契約や慣習としてのものであり、便宜のため、それらに依存せざるをえない。
      →しかしいつでも更新・転覆される可能性はある。
    • 報道文などは真実である「かのように」書かれ、読まれているのであり、根元的には虚構にほかならない。
      それがいかに絶対的には正確でないとしても、「見知り」ではなく「についての知識」への信頼によってこそ、社会は成立し、機能している。しかし、トラブル等でそのような信頼の慣習性に気づいた瞬間から、報道文は文芸テクストと同様の解釈プロセスへと投入しなければならなくなるだろう。((cf. 社会学における信頼論))
    • 同様の事柄はあらゆる日常言語についても妥当
    • ジャンルの規約は、倫理的・慣習的拘束力を行使するが、言葉の絶対的な規範ではない。虚構・非虚構の一般的な区別は、このようなジャンル的規約の差にすぎない。


  2 記号の再帰的呈示とフレーム理論

ジャンル的規約の転覆はいつどのように行われるのだろうか。

  • 言葉の再帰的自己呈示
    • 語・文の自己呈示:表意体の純粋な連鎖
      レカナティ「記号は己れとは別の事物を代表し、同時に己れをも反射するのである」:再帰的呈示
      言語の原初的な機能は、メタ言語的な機能にほかならない
      “意味がわからない”という解釈障害(日常でありふれた経験)
      言葉の虚構性
  • 文芸学の自己言及システム
  • フレーム理論とフレーム問題
    • 認知科学人工知能論 ミンスキー →〈ヴァージョン〉や概念図式といった分析哲学の概念に対応可能であり、文芸テクストの理論へも有効に導入可能。
    • フレームの記述のためには、別のフレームが必要となる。この連鎖は無限に遡行する。その結果、フレームの完全な記述は不可能とならざるをえない。→デネットなどによるフレーム問題(コンピュータに前提情報をどの程度あらかじめプログラムすることが必要なのか/可能なのか)松原仁:人間はフレーム問題を擬似的に解決している ホフスタッター:フレームの入れ子構造
    • フレームも虚構であり、それが自己言及的な通時的実践において不断に更新されうる仮説モデルを提供することで議論の“便宜”となるような、純然たる「通過理論」である。
      命題函数Rは、それ自身を引数に取るような再帰函数として記述されなければなるまい。

      メタ文芸学









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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell