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 ジェラール・ジュネット “スイユ”(1987)



“Seuils”
 1987
 Gérard Genette
 ASIN:489176421X


1..
 文学理論。フランス。
 構造主義〜テクスト論の系譜に属する。
 いつのまにかテクスト論なんてどっかに行ってしまった状況ではあるが、ジュネットは、ポスト構造主義の陥った節操ないジャーゴン生産による茫漠とした抽象化に傾くことなく、非常に素直で、単純に網羅的。その分析対象はきわめて広大で、ヨーロッパ圏に限定されるとはいえ膨大な資料をひたすら実直に分類していく衒学的な書物でもある。延々と続く分類・区分の記述は「モードの体系」を思い起こさせる*1

 ジュネットがこの書での考察に用意した特別な用語はごくわずかで、まず中枢を成すのが〈パラテクスト〉という概念である。その下位区分として、〈ペリテクスト〉〈エピテクスト〉。これだけ。しかもその内容は平易で、馴染み深い*2
 〈パラテクスト〉は、「純粋な」テクスト以外のあらゆる付属物を指す。つまり作品タイトルであり、序文であり、内題であり、注釈であり、献辞であり、あるいは書物の外部にまで拡がる。書簡、日記、インタビュー、その他広大な地平へ。
 ペリテクストとエピテクストの区別は、それが書物という物理的実体に含まれているかどうかによる。書物に含まれるパラテクストがペリテクストであり、書物外にあってパラテクストとみなせるものがエピテクストである。
 図式としては単純に、[パラテクスト=ペリテクスト+エピテクスト]。
 なお「スイユ」とはフランス語で「敷居」を意味することばで、パラテクストがテクストと読者の間の敷居として機能することを指す。


 この書の主眼がどこにあるかを説明するには、序論における以下の文章を引用すれば足りるだろう。

すなわち、どう読むべきかの手掛かりがまったくないままにジョイスの『ユリシーズ』のテクストのみを与えられた場合、かりに『ユリシーズ』というタイトルが付けられていないとしたら、われわれはそのテクストをどう読むであろうか?

 テクスト論は、いわゆる「作者の死」という宣言により、読者による解釈優位の読みを謳ってきたわけだが、ジュネットは、解釈に影響を与えるテクスト側の(書物の)あらゆる要素を抽出し、その機能を指し示す。
 つまりこれまでの分析者たちは、解釈優位を叫びつつも、純粋なテクストのみしかその俎上に載せてこなかった。ジュネットによればそれは理想化/抽象化された状態であり、現実にはパラテクストによるさまざまなテクスト外コミュニケーションに触れることなく読者がテクストを受容することなどはありえない。
 テクスト論における「読者」の定義は、いかなる背景も持たない純粋無垢な読者から、膨大な背景を持ちその解釈フレームをあらかじめ与えられた読者像へと移行してきた。たとえばフーコーによる〈ディスクール〉に束縛される読者、フィッシュによる〈解釈共同体〉に属する読者、などというように。
 ジュネットはさらに、読みの一方の側であるテクストそのものが、実体としても既に、一定の・不変のかたちを持たないことを示す。書は版を変えて姿を頻繁に変えるし、刊行者が作者の意に反して付ける序文や注釈があったりもするし、あるいは作者の残す書簡が新たに発見されればそれは読者や批評者の読みに確実に影響を与えることにもなる。テクストとは、パラテクストによって事前・事後などの時間的状況においてもいくらでも変転していくものである。そうしたすべてがテクストの世界であるとすれば、そもそも多様である読者による読みはさらに多様に、混沌としたものになっていくだろう。
 80年代の時点ですらこの状況。WEBという巨大な世界が開拓された現在では、パラテクストの範囲はさらに拡大し、複雑なものになっているはずだ。(莫大な量の、匿名レビューの氾濫。この文章自体がそのひとつ。)
 従来のテクスト論では完全に無視されていた「刊行者」という存在にまでジュネットは目を向けており、テクストからさらにその広大な外部、社会のなかでの読みの分析への可能性が拡げられている*3。そういう意味では、かつてのテクスト論は、「開かれた読み」を謳いつつも実は閉鎖的なものであったかもしれない。


2..
 それにしても、ページ数は大きいが(ほとんど引用による例示なのだが。)とにかく読みやすい。文章が上手。難解な印象はまったくない。
 「私」という主語が頻繁に出てきてエッセーのような効果を惹起するからか?
 しかしたまに主語が「われわれ」になるときもある。この使い分けは、何?


3..
 その博識のなかから、圧倒的に言及数が多い作者を索引から挙げると;
 アラゴンサルトル。ジッド。シャトーブリヤン。ウォルター・スコットスタンダール。ゾラ。バルザックプルーストフローベールボルヘスユゴー。ルソー。
 といったところ。


4..
 ちなみに、『ロビンソン・クルーソー』の本来のタイトルは、『ヨークの人ロビンソン・クルーソーの人生と不思議な冒険、大河オリノコの河口付近のアメリカ沿岸の無人島にて、彼だけが生き残った難破によって海岸にうち寄せられた後、28年間たったひとりで生き抜いた水夫。同じく不思議にも彼が最終的にいかにして海賊たちによって救い出されたかを語る物語付き』という長大なものである。などという蘊蓄満載な本でもある。



*1:第十章「内題」の解析において、「モードの体系」では、科学論文で利用される内題形式を真似た方式(1・1・1とか1・1・2とかの数字の付置)により、その疑似科学的性質を強化する機能が果たされていることが示されている。

*2:意外とフランスの本も日本と同じ構造になってる。タイトル〜エピグラフ〜序文などの書物構成。書物の帯があってそこには推薦文が書かれているとかも同じ。「本」がどのような物理的構成になっているかを解析した書でもある。

*3:同様の方向を目指す別種の路線として、ニュー・ヒストリシズム、そしてカルチュラル・スタディーズがある。






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―Angela Mitchell