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 ルーマン “社会システム理論の視座”



“WIE IST SOZIALE ORDNUNG MÖGLICH”
 from GESELLSCHAFTS STRUKTUR UND SEMANTIK
 1981
 Niklas Luhmann


[概要]
 「社会構造とゼマンティークGesellschafts Struktur und Semantik」最終章の訳出。
 「いかにして社会秩序は可能か」という社会学の主題・根本的問題設定について、思想史的な流れで追求している。テーマ設定がはっきりと絞られているので、アリストテレスからパーソンズまで長く思想史を辿って論じられているわりには、わかりやすい。全体量も大きくないし。
 社会的なものに関する理論にたいする思想史的ないし知識社会学的な考究(p144)。
 そのような本書の流れは目次に明確に表れている。
 第一章  予備的考察
 第二章  主題定立の機能
 第三章  二つの秩序問題
 第四章  アリストテレスにおける「秩序の問題」
 第五章  ルネッサンス期の社会理論
 第六章  中間考察
 第七章  主体アプローチの限界
 第八章  ウェーバーデュルケームのばあい
 第九章  ジンメルにおける「秩序の問題」
 第十章  パーソンズにおける「行為の問題」と「秩序の問題」
 第十一章 一般理論としてのパーソンズ理論の可能性
 第十二章 パーソンズを超えて


 この書の主なポイントは、〈普遍理論〉について。
 普遍理論とは、「いかにして……が可能か」という問いを、社会のいかなるものにも(「政治」にも「教育」にも「法」にも「宗教」にも「科学」にもその他あらゆるものに。)適用し記述することができる準拠視点である。しかし普遍理論であるにはまだそれでは足りず、さらに自分自身をもその観察対象に含むことができなければならない。『そのように他のものを観察している自分自身はどのように基礎付けられているのか』ということを説明する必要がある*1。そうすることによって文字通り社会のすべてが観察の対象になる。
 システム理論は、社会を諸システムの集合として観察する。あらゆるシステムは、世界を「システム」と「環境」に分割することによって自己を作動させている。個々のシステムは、相互浸透によって重なり合いながらも、互いに異なる意味形式を用いることで、異なる作動を進行させることができている。観察作動の連関において、その連関を保証するのが、意味概念の機能である。


[キーターム]
 主題の定立 「いかにして……は可能か」といった問いの形式 グランド・セオリー 相互浸透 意味概念

p9 社会に関する科学が取り上げるべき主題を解明するのが、本書の理論的関心の中枢となっている。〜かかる主題の定立は、そうした理論の構成要素をなしているといえよう。この点を考えてみると、社会学は、社会的なものに関する理論にほかならない。

p10 社会学の意味内容を規定するさいに、その学問が駆使しているもっとも一般的な準拠点は、社会学という名称でもなければ、そのもっとも一般的な対象概念でもなく、その学問が成立するさいの前提となっている主題の定立そのものである。

p21 〜いくつかの問題解決策が否定される度合いに応じて、残された解決策の採用される確率が高まるのであり、それゆえにその否定が恣意的におこなわれるわけではない。「問題」概念の形式は、まさにこのことを含意している。

p23 主題定立を捉えるさいの基礎となっているシステム理論の考え方に依拠すると、どんな学問にも例外なく関連しそれぞれの学問の前提となっている主題定立を考える上でふさわしい先要諸条件について、および「いかにして……は可能か」といった問いの形式のしかるべき根拠について詳しく究明することができる。「いかにして」ということも「可能」ということも、それぞれ所与の現実のあり方を解明する機能を有している。つまり、「いかにして」や「可能」ということは、そうした所与の現実のコンティンジェンシー(contingency)を想定しているのである。

p25 〜学問の根本問題に関する最終的な解決策があるのだとしたら、学問的探求は中断されざるをえないし、その研究営為は消滅せざるをえないだろう。それゆえ、根本問題というものは、それぞれの学問の研究がその究極的な解決をめざす提題などではない。より厳密にいえば、根本問題が解決不能なのは、そのシステムの環境の有している過剰な複合性のゆえなのである。〜いいかえれば、それぞれの理論はその根本問題を解決するためのしかるべき方策があるとする前提のもとでその研究をすすめており、その反面では、根本問題が解決不能であるがゆえに、いつでもその解決をめざしてその理論がいっそう展開される可能性が保持されつづけているのである。

p57 中心と頂点とは、社会に意味を付与する二つの異なる視点であり、さらに社会という全体の一部分たる当時の科学システムが社会の統一性を表象するための二つの異なる形式なのである。〜それが時代おくれのものになったのは、機能に基づいて分化している社会が到来してからのことなのである。かかる社会では、その社会構造のあり方からいって中心も頂点もありえないからである。

p61 階層化された伝統的な社会は、機能的に分化した社会へと、歴史上一回かぎりの、社会進化としてはまったく例外的な事例とみなさなければならない方途で発展している。

p83 カントによれば、主体の主体性の根拠は、多種多様な事柄を把握するさいに、それらを関係づけて統一性を構築しうる能力の中に存している。ところで、多種多様なものの統一性は、複合性のことにほかならない。そうしてみると、主体という術語がいい表わしているのは、意味をとおして自らに提示されている複合性の問題、くわしくいえば、その主体それ自体の中にも、また同時にその客体の中にも見い出される複合性の問題を、個々の人間が解決するさいの形式のことなのである。
p84 個々の人間は、意味との関連において体験しなければならないがゆえに、かかる体験をおこなっている当の人間が、自ら接近しうる多様な事柄を相互に関係づけて、そこに統一性を打ち立てうる可能性を有しているのであり、そうした統一性を構築することにおいて、主体としての機能を営んでいる。〜そうであるとすれば、「そのかぎりにおいて」ということは、いったい何を意味しているのか、また、そうした単純化の中には何が潜んでいるのか。

p114 そうしてみると、ジンメルの表現にとらわれずにいえば、次のようにいえるだろう。すなわち、社会的コミュニケーションにとって不可欠の縮減がおこなわれているのであり、それによってその人が自分自身を一瞥して同一性を保持しうるものとして捉えうるあの図式が考え出されることになる。それゆえに、社会的な複合性と個人の複合性とが、それぞれ他方の複合性を拠り所としてそれぞれの複合性の縮減をおこないうることに基づいて、個人としての統合が作り出されている。

p117 ジンメルからすれば、それぞれの人が、一部はまったくその人によって、一部は社会によって構成されているということ、ならびにそれぞれの人は、まさにこのことが他者にもあてはまるのを知っているということが、社会が成り立つための前提条件にほかならず、より的確な術語でいえば、社会の形式が成り立つための先要条件なのである。換言すれば、社会の形式というものは、十全に社会化されることはありえず、そのことを互いに知っている、諸主体の間の関係のことなのである。

p121 行為はつねにある状況の中で生じており、したがって、そうした行為はその行為それ自体とは異なる何ものかをその前提としているのであり〜そうした諸構成要素の間の関係は、さらに、当の関係には属していない環境にたいして境界を設定することによってしか成り立ちえない。このことの帰結として、行為というものはシステムとしてしか考えられず、要するに、行為はシステムにほかならない。

p122 その主たる問いかけは、当時のパーソンズにとっては「いかにして行為は可能か」であった。

p123 「相互行為を分析するさいの決定的に重要な準拠点は、(1)それぞれの行為者が、行為する主体であると同時に、行為者自身と他者の双方にとって指向される客体であるということ、および(2)それぞれの行為者は、行為する主体としては自分自身と他者にたいして指向しており、指向される客体としては、その主な様相ないし側面のすべてにわたって、行為者自身と他者にたいして意味を有しているという二点である。そうしてみると、行為者は、認識する主体であるとともに認識される客体であり、道具的手段を用いる者であるとともに、かれ自身手段そのものであり、他者にたいして情動的に愛着するとともに、他者から愛着される客体であり、自ら評価を下す者であるとともに評価される客体であり、シンボルの解釈者であるとともにかれ自身シンボルなのである。」ところで、このようなシステムの二者性の問題には、まさに超越理論的基盤が存しているということをつねに念頭におくのがよいだろう。
p128 〜行為それ自体がすでに秩序をその前提としており〜

p135 ここで取り上げれられるべき問いというものは、様相論の考え方が認識論に移転されるにつれて生じてきている。様相ということは、ライプニッツによって考えはじめられ、カントによって深く省察されて、一般に用いられるようになった。そんなわけでその当時、もはや「可能なこと」や「可能な(物事)」については語られずに、「可能性」について論じられたのである。しかも、主体による綜合の保証があたえられていた。つまり、そうした主体は、その主体自体を現実化している諸条件をふくめて、(いかなるものであろうとも!)ものごとを可能にしている条件そのものなのである。それゆえに、ものごとを現実化している諸条件についての問いは、必ずやその主体によってその当の主体にたいしても向けられており、そこで、それにたいする応答は、そうした主体の諸構造に関する超越理論的分析によってあたえられている。
p136 システム理論は、当のシステムをもその考察の対象とする自己内含によって、このディレンマを回避している。システム理論は、「いかにしてXは可能か」といったタイプの問題定立を普遍主義的な指向のもっとも先鋭化された事例として取り扱い、またかかる指向が、システム理論を用いてそのこと自体について問うことのできる社会のシステムの諸構造によって条件づけれらているとみなしている。

p149 この相互浸透の概念は、(システム分化のばあいとはちがって)諸システムが交互に環境でありながら、相互に浸透していくシステムの特有の複合性とその可変性とが、他方のシステムの構成素として活用されている、そういった複数のシステムの間の関係をいい表わしている。

p153 それゆえに、意味というよりいっそう一般的な範疇に立ち戻らなければならない。
p154 したがって、意味は、可能性の剰余を呈示しており、また、そのかぎりにおいてそれぞれのシステムにとって過剰なるものをいい表わしている。現在の純然たる事実を超えていく第一歩はいずれも、その事実が別様にもありうるという選択をおこなうことであり、そうした選択は意味との関連において進められているのである。
p158 このように意味を基軸として考えると、それ以外のすべてのシステムがその部分システムであるといった包括的なシステムを仮定する必要がなくなる。〜パースン・システムと社会システムとは、なんらかの包括的なスーパー・システムによって結びつけられているわけではない。〜そうしたスーパー・システムがかつて占めていた理論上の位置に、いまやそれに代わって意味概念が登場している。

p164 だが、そうであるにもかかわらず、この根本的な問いは、比肩しうるもののない問いなのであり、その問題の定立は、いまだに社会学が学問としての統一性を構成するさいの前提となっている。


「社会システム理論の視座 その歴史的背景と現代的展開」
 ニクラス・ルーマン
 佐藤勉
 木鐸社

*1:それはシンプルな話ではなく、自己準拠システム、セカンド・オーダーの観察、脱パラドクス化、などの込み入った考え方が絡む。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell