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 グレッグ・イーガン “ディアスポラ”



“DIASPORA”
 1997
 Greg Egan
 ASIN:4150115311


0..
 現代SFの最高峰、というか、正統SFを追求しながらも過去の形式に堕することなく現代性を持ち得ているもはや唯一の作家。
 『順列都市』『宇宙消失』『万物理論』に続く長編の邦訳。
 かなり待った。このあとも“Teranesia”“Schiild's Ladder”が控えてるのだけど、いつになるだろう...。


(以下ネタバレ含む)

1..
 これは近年まれに見る正面切ってのハードSF。これほど徹底的に大ネタを繰り出し、物語舞台を拡張し続けるインフラ志向は、現在ではものすごく稀少だ。もうこういう路線は成り立たないかと思ってたけど。イーガンが手掛けると、とんでもなく広大無辺、莫大な情報量の詰め込まれた世界が繰り広げられる。イーガンの今までの長編のような、あるいは今までのさまざまなハードSFのような、ワンアイデアで押していく形式ではなく、それだけで一個の長編がつくれそうなスケールのアイデアがもう次から次へと押し寄せる。そしてそれぞれが、途轍もなく難解。(せめて図は載せてほしいところだ*1。)
 そもそも学が分化し、それぞれが異なる発展を続ける現代では、ハードSFを書く閾はより高くなっている。だからSFの主流は、寓話的なものになってしまう。そんな状況にあって、もともと数学者であるイーガンは、数学・自然科学の先端を軽くこなして(ハッタリ的に)外挿しながらハードSFを実現するのみならず、さらにそこにアイデンティティの問題を絡めることで、ハードSFに留まらない階梯に到達している*2
 『ディアスポラ』に投入されているアイデアの量は、尋常ではない。今までの長・中・短編で繰り広げてきたさまざまなネタは集大成的に登場している。人間精神のコピー、グレイズナー・ロボット、改変態、オルタナティヴ宇宙、数学的構造に準拠する異星知性体、etc。アイデアを詰め込みすぎ。ある程度イーガンを読んできた人じゃないと、全然わからないと思う。巻末に用語解説が載ってるけど、これじゃああまり役に立たないな..。
 たとえば、トカゲ座G-1の中性子連星崩壊によるガンマ線バーストに地球が襲われる際、地球にとどまる肉体人*3に対して、ソフトウェア化された人間たちが「精神ダウンロードして逃げましょう」と説得する際のコンフリクトの様子なんかは、わりとあっさりと描かれているけど、バックには深い問題が広がっていて、短編『ぼくになることを』での主人公の葛藤を知らないと、どういう対立が起こっているのかよく理解できないだろう。
 同様に「ワンの絨毯」のエピソードも、『順列都市』における、人間に創造されたエイリアンであるはずのランバート人との論理バトルなどを思い起こしながら読むと、また違った思いがあるはず。
 そんな風に過去ネタ以外にも、今作独自のアイデアも満載で、たとえば、〈コズチ理論〉というこの物語世界における統一理論なんかは、素粒子はそれぞれがワームホールの口である、という概念を基底に持っているのだけれど、それを発展させて〈マクロ球〉(またはUn*)への跳躍を繰り返していく、というところなんかは、その理論もさることながら、どんな事象が起きているのかもさっぱりわからないぐらいのハードな描写。
 あるいは非知性ソフトウェアから生み出された〈孤児〉が自我を獲得するまでのプロセスなんかは、それだけで中短編になり得る展開。
 いちばん印象に残ったのは、トカゲ座G-1のガンマ線バーストをもしのぐ銀河系コア・バーストに見舞われる運命(“半径5万光年以内の原子核を分裂させるほどの高温”)を登場人物たちが知ったところ。20億光年の長さがある線が銀河を串刺しにするイメージの壮大さ。それでも宇宙全体からみれば局所的な出来事にすぎない。

 とにかくインフレの究極、というものを体感したければ、この本に勝るものはない。極大へと加速を続けるスケール変化。その終局に漂う空虚*4
 自己のコピーが1000ものそれぞれ異なる星々へ向かって〈離散diaspora〉していく。そしてさらにその一部は、別の宇宙へ。U*。U**。さらにUn*へと。
 自分の異なるバージョンが送る人生。無数の自分が膨大な範囲・時間に渡って播種される。


2..
 人間の精神/自我は、人工的につくることが(コピーすることが)可能なものなのか?
 イーガンは、これを肯定するところからスタートし、それが可能になった世界がどのようになるのかを描く。まず前提となる状況説明については、短編『ぼくになることを』がもっとも詳しい。(『移相夢』も鋭いところを突いてるけど。) そこでは、人間の精神をソフトウェア化するために、〈宝石〉と呼ばれる装置がつくられた世界が描かれる。〈宝石〉は、幼少時に人間の脳にインプラントされる。〈宝石〉は、脳の振る舞いを神経学的・生化学的に微細に観察し続け、その記録を緻密に取り、脳の働きを学習、さらに脳の動きに対する予測とその結果からのフィードバックによる修正を繰り返して、徐々に自分の機能を持ち主の脳に近付けていく。最終的に〈宝石〉は、脳を完全に模倣することができるようになる。
 そのとき、脳と〈宝石〉は外部からのコミュニケーションによっては区別することはできず、そのため、同一のものであるとされる。いくら脳と同様の働きが可能とはいっても、結局は精巧な機械にすぎない〈宝石〉が自我を持ち得ているのかどうかについては、人間の脳と同様の仕方で情報を処理するシステムがつくれれば、それが何によってできていようと、同様に自我を持ち得る、というのがイーガンのスタンス。このようにして人間の精神はソフトウェア化され、〈宝石〉のなかで不死に近い生を送ることが可能となる。『順列都市』における〈コピー〉も、コピーする際の技術的手段はこれとは異なっているが、位置付けは同様。『ディアスポラ』での主要登場人物たちも同じようにソフトウェア化されている。もはや親も持たず、情報システムから偶発的に生み出された〈孤児〉なんかも登場したりするほどだ。イーガンの世界では、肉体の有無は「人間」という概念に影響しない。

 ここまではまあいい。
 イーガンはこの先を問題化する。つまり、人間の精神をなんらかのかたちでコピーすることができたとして、その先にはどのようなアイデンティティ上の問題が発生するか、を執拗に問う。
 オリジナルが死んでいて、コピーだけが残っている状態であれば、問題はない。コピーはある瞬間に、自分に自我があることを自覚するだけだ。(オリジナルとの間に連続性があるのかどうかは問題にならない。)
 しかし、オリジナルとコピーが併存している場合。あるいは、コピーが複数〜無数につくられた場合。それは自分にとってどういう意味があるか。他人から見た場合はどうか。
 自分から見た場合の話が『ぼくになることを』あるいは『順列都市』。少し視点を変えたものが『宇宙消失』における拡散する無数の自己。一方、他人から見た場合の話が『誘拐』。
 結論からいえば、コピーであろうとオリジナルであろうと、それは他人から見ればみな同じ。区別をつけることはできない。
 しかし、自分から見たときは....。この自分というのが曲者。それは常にどれか特定の自分、を指しているはずだが、他のどの自分も、同様にそれが自分であると言う権利を持つ。
 だがこれは本当は、人間の精神をコピーできるか、という問題とは関係なく、自我と他我の問題そのものであって、普遍的に問題化され得るもののはず。テクノロジーによって人間精神をコピーするという設定は、問題を縮減して示すための思考実験的な装置にすぎない。イーガンは、とにかくこのような思考実験的仕掛けを実に多数のバリエーションで展開する。短編、長編を問わず、イーガンの作品はすべてその一環だ。それが独在論に接近する唯一のやり方、と考えているような気がする。『ディアスポラ』のように、際限なくコピーされる人物たちの群像を描くことで、独在論をあっさり跳躍しているかと思えば、『ぼくになることを』や『移相夢』のように、無数にコピーされ得る自己のなかで、唯一無比なるこの自分とは何か、という葛藤を書いていたり。スタンスが揺れ動いているようにみえて、でもそのように揺れるさまざまなバリエーションを書き続けることでしか、この「語り得ぬもの」を語ることはできない、と考えているのではないか?


ディアスポラ
 グレッグ・イーガン
 山岸 真 訳
 2005
 早川書房


*1:イーガン公式サイトに作中の数理概念の図が載っている。
  http://gregegan.customer.netspace.net.au/DIASPORA/DIASPORA.html

*2:とはいえもともと純粋なハードSFに特化してきたわけではない。『宇宙消失』『万物理論』なんかは近未来にとどまっているし。『順列都市』での「発進後」の世界はいきなり何千年も飛んだりするけど。

*3:まあさしあたっては普通の地球人のこと。とはいえ実は生化学的なさまざまの肉体改変を施している。体内ナノマシン・各種人工微生物共生など。『宇宙消失』『万物理論』での肉体改造者たちの系譜。

*4:ベアの『久遠』のようなカタルシスはない。イーガンは決して救済的な結末には行き着かない。悲惨な結末になるわけでもなく。どこか達観した、ニュートラルな。






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―Angela Mitchell