“Liebe als Passion:Zure Codierung von Intimität”
1982/2005
Niklas Luhmann
ISBN:4833223635
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愛のゼマンティクについての社会学的分析。
いつものシステム論の展開と少し違う異色な感じがある。
ここでは、〈ゼマンティク〉〈シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア〉が枢要の概念。
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ルーマンによる恋愛分析。って、ものすごく相性良くない組み合わせのように一見思える。しかし、とりあえず読み通した感想としては、システム論というより、恋愛の箴言集みたい。恋愛論なんてものは読んだことないし、恋愛小説もほとんど読まないけど、そういったものよりもはるかに鋭く恋愛をえぐっている気がする。恐るべき冷徹な分析があるかと思えば、ルーマンの他の著作では見られないような(あえて言うならば)きわめてロマンティックと受け取れる文章もあり、非常に特異な雰囲気が全体に流れている。ルーマンで個人的な感慨に耽らせられるとは思わなかった。
あくまでもここで語られているのは、親密なコミュニケーションの分析であり、恋愛ゼマンティクの分析であって、恋愛そのものを主題にしているのではないはずだけど、ゼマンティク論とかよりも、まずそっちに関心が向けられた。それはこの本が〈個人〉をひとつのテーマに据えているからかも。
“社会の芸術”ですら、具体的な芸術作品の話なんて全然記憶に残らず、抽象的な事柄としてしか読めなかったのに、“情熱としての愛”はルーマン本のなかで始めて、具体的な事柄を扱ったものとして読むことができた。社会学というより、一般的な恋愛論として感銘を受ける文章が頻出。小説のエピグラフとしてそのまま使えそう。
たとえば;
p96) とりわけ愛は物事のすべてを愛の観点から考察する。愛からすれば、ごくささいな事柄に至るまで、愛される者と何らかの仕方で関連するすべての事柄が重要とみなされる。愛は、愛という特殊な視野に入るすべてのものを愛の観点から評価している。愛される者の体験や行為はことごとく、愛/無関心とか、誠実な愛/不誠実な愛といった図式による絶え間のない観察や点検を要求する。
p100) 愛の証しは愛の根拠にはなく、愛の事実性を拠り所としている。
p101) このように、愛には、事象的側面でも社会的側面でも限界がないのだが、もう一つの側面、時間的側面には限界が存している。愛は不可避的に終わってしまうのである。
p107) 希望と現実との対比によって、同様に愛し合う者たちの関係を形成したのと同じ過剰解釈への傾向によって、愛の崩壊が加速される。
p139) そうであるがゆえに、情熱としての愛のコードは道徳的な根拠づけを必要とせず、社会の秩序によってその持続が保証されるという拠り所も必要としない。情熱としての愛のコードが根拠づけられるのは、こういってよければ、人生がほんのわずかな時間しか続かないからであり、人生が永遠に続くものではないからである。
p211) 愛の再帰性にとって不可欠なのは、こちらの感情と相手の感情が呼応することが双方の感情に基づいて肯定され探し求められるということ、言い換えれば私自身が愛する者としてまた愛される者として相手から愛され、相手も愛する者としてまた愛される者として私から愛されるということ、つまり自らの感情と相手の感情が呼応することなのである。愛は、私という人と同時にあなたという人にも向けられ、そうである限り私もあなたも愛の関係にあり、つまり私もあなたも互いにこうした関係を可能にしている──このように愛し合えるのは、私やあなたが善良であるとか、美しいとか、高貴であるとか、金持ちであるという理由からではない。
p219) 愛のコード化のなかへ偶然という触発のメカニズムがその構成因として組み入れられると、愛のコードの重要な革新が行われる。
p220) 前提なしに愛が始まることは、恋愛関係の意義を損なわないどころか、むしろこの意義が外面的に作られることなくまさにそれを強め、いわば恋愛関係それ自体のなかでその意義を絶対化していることである。
p256) 愛は、その愛を求められていると判断してはじめて生じるものではなく、愛は義務とか愛想の良さとして思われてしまわないために、あらゆる求めやあらゆる問いに先んじなければならない。愛は誘発されることを許さない。
p262) 情熱にはその終わりがあり、理想にはその幻滅があり、問題にはその解決策が見あたらない。しかしながら、問題オリエンテーションは──愛の成就の見込みのないことに苦悩しつつ、にもかかわらず愛するというように──、愛の問題に取り組むことをとおして、自らの愛を顕わにすることを愛する者の課題とさせるという利点を有する。
愛が永続的に続くかどうかは問題ではなく、愛している間はその愛は永遠なのだ、と。
そして愛にはそもそもその始まりにおける根拠すらない。しかし、愛の作動が連続する限り、そのこと自体が愛の根拠となる。
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訳者のまとめがわかりやすい。
〈訳者解説1〉
p276) それゆえきわめて個人的に現象する感情すら徹頭徹尾社会の中での学習に依存している。〜個人の行為を嚮導しているのは、ゼマンティクなのである。ゼマンティクの助けがなければ、個人は感情すら抱くことができないであろう。
p279)
シンボルによって一般化されたコミュニケション・メディアについて
[1]動機づけの機能
人間の個別化→選択性の増大→コミュニケーションをいかにして確保するか
→(1)理解⇔言語 (2)到達⇔拡充メディア (3)行動の基礎としての受容⇔シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア
[2]ダブル・コンティンジェンシー
具体的な端緒を成すための「シンボルによって一般化されたコミュニケション・メディア」(愛、貨幣、権力、真理)
異なった状況でも異なった参与者に対して同一の帰結を引き出させることになる。
[3]コードとプロセスの分化
一定の選択行為を産出できる蓋然性
[4]「シンボルによって一般化されたコミュニケション・メディア」:事象次元(どこでも)/時間次元(いつでも)/社会的次元(誰とでも)において一般化されている。→偶然によって恋愛が生み出されうる。
[5]メディアの共生メカニズム
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独在論への接続という観点で。
p12) この概念が前提としているのは、一人一人の人間、その人の記憶、ならびにその人のものごとに対する構えを形成している事柄のすべてに他者はけっして接近できないということである。
p14) いうまでもなく、心身統一体という点で、身体を自ら動かすという点で、とくに個人の死という点で、人間の個人性があらゆる社会の人びとによって知られている経験だということから出発しなければならない。
p129) 快楽に関しては人間が主体なのである。思考しているという事実と同様に快楽という事実もそうだと言われれば疑いようがない。
p130) 誰かが快楽を感じたと言い張るとしたらそれを否定してもまったく意味がない。*1 したがって、快楽については主体は自らの快楽を確かめるための規準を必要としない。
p164) そうだとしても、個々の人間だけが愛と快楽を感じることができ、また愛と快楽が本物であるという証しを立てることができる。
p203) 人間個人の個人性が世界と照合する唯一無二性であることが明らかにされている。同時に人間個人のそうした個人性によってはじめて、教育や社交とならんで愛は機能し始めている。ひとりの人間の世界観点の事象的な唯一無二性の時間的発展が、複数の人間に対する複数の人間の影響をその前提として必要としており、この影響をそれ自体のうちに取り入れている。
p204) いうまでもなくこの方式は、主体が変化することを締め出しているわけではなく、それを含んでいる。移ろいやすい恋人たちもまた主体である──ロマン主義者以上に誰がこのことを知っていようか。したがって、超越論的哲学の主体を拠り所にしているあらゆる実践と同様に、主体を日常生活のオペレーションの水準に下降させ、そこで主体が使用に耐えられるかどうかをテストすることが重要なのである。
p267) 私の環境において私の世界に対して意味を供給できる相手が重要なのである。ただし私が相手や相手の環境を私の環境として承認するばあいにのみ、そうした相手が私の世界に意味を与えることができる。
*1:たとえば神経信号や脳内ホルモンの量などを解析したとしても、それはわかることではない。痛みと同様に。