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生音メインのヒップホップ。バックトラックは単体のジャズとして聴いても気持ちよくて、渋味のあるベースとタメのあるドラムが、重くてムーディな地平をつくりだしている。その上に、ラップは楽器のひとつであるようなラインを描く。
Jazzy系ヒップホップと正統ヒップホップの差は、そこだ。正統ヒップホップではラップが主体に据えられるけど、Jazzy系でのラップは、他の楽器といかに呼応できるかという視点で扱われている。
人の声は、汎用の楽器だ。もっとも原始的な楽器でもある。どんな音も出せる、とまではいかないが、楽器よりは広範な音を発せられる。また、言語によってメッセージを伴うことができるという点で、楽器より上位の機能を担ってもいる。
人の声が汎用の楽器であるというのと対照的に、楽器というのは、制約のなかで音を出す仕組みだといえる。楽器は、それぞれが音を発生させる固有の構造を備えていて、その形式によって音楽の要素となっている。
声と楽器による組み合わせで音楽がおこなわれる場合、通常、ヴォーカルが「メッセージを表現する」という特権的な位置を占めていて、楽器によって演奏される音がその背景を成す、という構成になる。
こうして見たとき、ラップというのは少し矛盾した性質を持っている。ラップという手法もヴォーカルのひとつのスタイルではあるのだが、ラップはそのなかでも特に抑制的な形式を取っている。たとえばリズム、イントネーション、ライミング、などにおいて、通常のヴォーカルよりもその表現範囲に厳しい制限が設けられている*1。本来汎用性を備えているはずの人間の声に対してわざわざそのように制限された形式を与えているということは、ラップは音楽の要素としてより楽器に近い扱いがされているものだと言えると思う。
ところが一方では、ラップはメッセージ性の強さを特徴としている形式でもある。歌詞が極度に圧縮され、濃密で大量のメッセージを運ぶ形式。つまり、表面上は楽器に近い音要素でありながら、その実、通常のヴォーカルスタイルをはるかにしのぐ言語性を持っているわけで、両極の要素を併せ持っている。
正統ヒップホップでは、概してトラックはよりミニマルであって、メロディもなくリズムだけを背景として展開することすらある。それはきわめてストイックな、リズムとメッセージが異常に強調された世界だ。そのように、まわりに楽器が極端に少ない場合には、ラップは微量ではありながらもメロディを紡ぐ芯にならざるを得ない。この場合ラップの地位は相対的に上昇されている。これが正統ヒップホップの状態だといえる。
しかし、もしラップのまわりに多彩な楽器が満ちているのであれば、ラップはそうした多数の楽器のひとつに埋没することができる。本来、より楽器に近いスタイルなのだから。このようにラップが楽器と対等な地点にまで降りてきている状態、これがJazzy Hip Hopの状態だ。
こう考えたとき、Jazzy Hip Hopと正統Hip Hopの間には明確なスタイルの対立があるのではなく、両者の区別はバックトラックの楽器の程度によって位置づけられているだけで、実はゆるやかに連続している関係にあるのではないか、と思える。COLOSSUSがなぜ異質に見えるこの二枚を同時に出したのか。なぜこのふたつの方向を併せ持つことができているのか。深く考えるようなことでもないかもしれないけど。自分としてはその答は以上のように説明づけている。*2
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ユニットの中心であるCharlie Tateは、Roy AyersとかGil Scott-Heronとかとツアーしてたこともあるミュージシャンらしい。
二枚組。DISK 2 はリミックス。DISK 1 とだいたい同じ曲が入ってるけど、順番は変わってるし、インタールードが随所に挿入されてる。こっちはよりラップがフィーチャーされてて、トラックはサンプリングがメイン。全然雰囲気違う。どっちの路線も良いと思う。まったく異なる2つのアルバムを聴いた感じで、お買い得。
DISC 1
M-1 “INNACITY”
M-6 “THRUPENNY BITS”
M-7 “LIKE THAT”
DISK 2
M-8 “THRUPENNY BITS”
M-14 “INTERLUDE 4” インタールードだけど。なんか音としてかっこよかった。
[追記]
1日おいて見返してみたら、何言ってるのか自分でもよくわからない文章だったので、びっくりしてしまった。あまりにも内容がわからなかったので、ちょっと直した。...ちょっとどころじゃないかも。昨日の自分はこういうことを言いたかったのかな、と想像しながら修正した..。
寝る直前に文章書くのは危険だ。
(というこの文章もまた明日見てみたらわけわからないのかもしれない。もう、気づいたら随時直してく。)