::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 “バス174”(2002)



バス174 スペシャル・エディション [DVD]

“BUS 174”
 2002
 ASIN:B000CFWOQG












 ブラジルのドキュメンタリー映画。2000年6月にリオデジャネイロで起こったバスジャック事件を元にしている。生放送の映像や事件関係者のインタビューで構成されていて、事件の背景を成すリオのストリートチルドレンの境遇が描写される。


 リオでバスジャック事件が起こる。犯人の名はサンドロ。ストリートチルドレンを出自とし、確たる要求もなく、人質を取ってバスに立てこもる。バスは警官に包囲され、マスコミがさらに取り囲み、膠着状態が続くなか、そのすべてがテレビ放映される。


 インタビューに出てくるのは、人質となっていた人々、警察の交渉担当者、特殊部隊隊員(顔をマスクで隠している)、カメラマン、ソーシャルワーカー社会学者、元路上生活者たち、現犯罪者(強盗等)、犯人の叔母、里親?、など。


 この映画は純粋にドキュメンタリーで、インタビューはもちろんすべて本人が出ているし、映像も当時の中継映像をそのまま利用している。
 ところがなぜか最後の最後まで、これが完全なドキュメンタリー映画だとは思ってなくて、実際の事件を題材にしてはいるが、俳優によって新たに演じられた映画だと思いこんでしまっていた。映像やインタビューも、すべて後で取り直されたものだと。だから、インタビューを見てても、なんかそれらしくつくってるけどやっぱりつくりものっぽいなーとか、映画としてはテンポよくないなーなんて思ってたりしてた。
 見終わってから、全部本物だったことに気付き、そこで初めて衝撃が。
 なんでそんな勘違いしてたんだろう...。でも、先入観なく見てみるというのもまあありだったのかもしれない。というのは、われわれにはフィクションとノンフィクションを明確に区別することはできないのだということをあらためて思い知ったから。たとえば911が映画のように受容されてしまうこと、あるいはそのようにしか受容され得ないということと同様に。
 ドキュメンタリー/ドキュメンタリーを元に再構成された映画/ドキュメンタリーであるかのように装ったフィクション/忠実なドキュメンタリーを目指しているが元となる情報が誤っているもの/フィクションであることを装ったノンフィクション/ドキュメンタリーだが部分的にフィクションが混ざっているもの/・・・ これらを見分けることなど可能なのか? それはおそらく、もはやリテラシー云々とは無関係に不可能なことだと思う。


 事件発生からすぐにマスコミが現場をライヴ中継し始め、ブラジル中がリアルタイムで一部始終を見続ける。特殊部隊が現場に配置され、狙撃手がさまざまな角度からバスを狙う。長時間に及ぶ包囲、サンドロは興奮状態で、バスの外に頭を突き出したりなど無防備な行動を取り、警官側には彼を撃つ機会はいくらでもあったが、生放送されているので狙撃することができない。
 テレビを通して放送されること。それが彼の目的にあったのではないかと、ある社会学者がコメントしている。(この人がまたなんか嘘っぽくて、なんだよ社会学者ってとか思って見てたのだが。まあ本物の社会学者のようだ。) つまり社会から疎外された位置にいる者にとって、メディアを通してこのように国中の注目を集めることは、自己を承認される千載一遇の機会であると。
 “少年はその未来 生命 魂を差し出す見返りとして
  短く燃える小さな栄光を手に入れます
  認められ 重視され 自分を誇れる栄光の時です
  この瞬間の意味は重大で
  全てはここに端を発します”


 彼がテレビを意識して行動していたのかどうかはわからないが、彼の動機のひとつを示していると思われるものとして、“カンデラリアの虐殺”という言葉が言及される。カンデラリアの教会前を根城にして寝食を共にしていたストリートチルドレンのグループが、あるとき、何者かに襲撃され、銃殺されるという事件があったのだが、生き残ったひとりの男性が、サンドロもまたこの事件の生存者のひとりだった、ということを語っている。(なお彼は警官を襲撃者として示唆している。)またこの話に先立って、元路上生活者の女性が、ストリートチルドレンは、夜寝ている際に頭上に石を落とされて殺されるということがしばしばある、と言っている。さらに、彼らがそのように排除されることは社会にとって良いことだと考える人が多い、ということがアンケートの結果として語られている。
 社会の範囲はどこまでなのか。社会秩序に従う一定範囲の者だけを社会の成員としてとらえ、それ以外は外部の異物として扱う、というのがわれわれの動かしがたい性向としてある。われわれは必ずどこかでそのような線を引いて内と外とを分けている。(この“われわれ”という言葉がとても曲者なわけだ。)
 この流れで挿入されるのは、「リオで最悪の監獄」と看守に案内される、第26管区の通称〈金庫室〉という監獄の映像。これがけっこうショッキングな。


 映画が次第にそのように方向付けられていきながらも、事件現場では何も進展することなく、サンドロの要求は「銃と手榴弾」だけのまま、時間が過ぎていく。
 やがてサンドロは“6時になったら全員を殺す”と宣言。次第に6時が近付き、バスが夕闇に包まれていくなかで、緊迫感が上昇する。
 しかしバスのなかでは、サンドロと人質とに、外部にはわからないやり取りが交わされていて、人質のひとりを殺したかのように見せかける演技が協力されておこなわれたりする。だけど警察サイドにもそのように類推する人がいたり。
 そして最終的には、急激な事態の転換が起こり、わけわからない混乱状態へ。そのまま、おそらくは途中あたりで誰もが予想し始めるだろう結末へ。事態変化の詳細はリプレイによって説明されるけど、見ただけではよくわからない。そしてそのあとのことも。最後にコメントが残されるが、もちろんそれも不確かで曖昧なことだ。だけど、素直に受け取るなら、けっこう衝撃的。とくにこれらの映像が俳優に撮り直されたものだとばかり思いこんでいた身にとっては。まさかこの映像が全部リアルタイムで流されていたなんてとても思えない...。


 この映画がドキュメンタリーとしてすぐれている点があるとしたら、それはストリートチルドレンに焦点を当てながらも、単純に警察=悪、みたいな図式に収束させようとせず、さまざまな人々を羅列的に並べて、異なる視点をそのままに取り上げていることだと思う。問題点は挙げるが、結論への性急さがない。特殊部隊の物の考え方、交渉担当の考え方、ソーシャルワーカーの考え方、元路上生活者の考え方、それぞれが個々の立場に基づいた発言をしていて、そこからは各自の差異が明確に浮かび上がるが、そのどれかが正しい、とかいう価値付けは為されない。


 映画冒頭でリオのロングスパンの空撮が流されるのだが、そのへんの都市論とか都市分析とかよりもよっぽど都市というものを語り得ている映像だと思った。








music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell