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 ドストエフスキー “カラマーゾフの兄弟”



カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫) カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫) カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)










“Братья Карамазовы”
 1880
 Фёдор Михайлович Достоевский





0..
読んでよかった。

これは、ひとことでは語れないな。
小説というよりも、文学、ということばこそが適切。
内部に世界と同等の複雑性を備え、それを基にしてこの世のすべての事象を語ることができるもの、それを文学と呼ぶとするならば。
この本のテーマは何?ってひとことでまとめられない。
神と人間、家族、愛、社会... とかいろいろなことばを挙げることはできるのだろうけど、そのように何かに収斂させるべきではなくて、ここにあるのは世界あるいはあらゆる人間をまるごと凝縮したもの、というようなものであって、そのように世界を表象させる器が、文学作品というものなのか、と思った。
こういうの書くのには、どれだけの労力が要るんだろう。

1..
長大な文学であり、膨大な思索が分岐し、さまざまなテーマが語られているのだが、全体の構成をあえて粗描するならば、ミステリーという形式に従っていると言ってもいいだろう。
第二巻で生じるフョードル殺人事件の謎を追うプロット。
殺人事件に至るまでの過程、関係者の履歴、等の説明が第一巻〜第二巻にて延々と費やされる。第三巻は裁判。および真犯人の自白。

真犯人は誰なのか。
もっとも疑わしく示されているのはスメルジャコフなのだが、他の兄弟も(設定からしカラマーゾフの兄弟の誰かが犯人であることまでは絞ってよさそうだ。)それぞれ微妙に怪しい。知的だが神に懐疑的でシニカルなイワンはふつうに怪しいとして、聖人のごとく描かれているアリョーシャですら、事件直前には堕落を予兆させるようなイベントがあったりするし。第三巻冒頭のコーリャとのやり取りを読むまでは、自分のなかではアリョーシャ犯人説が強かった。
とはいえドミートリイも外せない。虚実入り乱れるハイテンションな言動に翻弄される。
真犯人は第三巻で暫定的に示されるが、誰が犯人なのかということよりも、その人物が仕掛けた心理的な罠(きわめてシンプルだが非常に効果的な。)の方が重要。
第三巻後半では、もっぱら裁判の行方が話の中心となる。真相がどうだったか、ということではなく、このような事件に対し民衆がどのように思うか、ということが裁判の結果を決定する。親殺しという疑惑、被告の性格・法廷における言動、証人の言動、等。法廷で行われる事象すべてをもって陪審員は決定を下す。


2..
プロットが荒唐無稽とか、舞台設定が壮大というのでもないし、登場人物は少ないとはいえないが膨大というわけでもない。焦点は何人かに絞られている。(ロシア語の人名が慣れなくてかなり覚えにくいが。)
語られるのは基本的にひとつの街での出来事。(人物紹介、回想を除けば)何年・何十年というスパンでもなく、フョードル殺人事件をめぐる前後の状況についての話にすぎない。
それなのにこの膨大な文章量。
つまり密度が恐ろしく高い。それは思考の密度でもある。
主要な登場人物の思索が精確に描写される。葛藤、悪夢、朦朧、混濁といった状態も、余すところなく執拗に。
各登場人物はそれぞれわかりやすい個性を持ち、互いに明確に区分される性格付けが為されているが、彼らの思考はそのような個性を基にしながらも首尾一貫したものではなく、疑念や苦悩、昂揚と興奮とが繰り返し訪れ、大きな振幅で揺れ動き続ける。
ドミートリイは放蕩・暴力的でときに情熱家、イワンは知的かつ冷笑的、しかし影では苦悩を見せる。アリョーシャは敬虔な修道僧、清廉で誰からも愛される。...など、それぞれの人物を指し示す語句を簡単に結びつけることができて、一見わかりやすいキャラクター設定に見えるけれど、実は彼らの内面はさまざまに自問自答し続け、遷移している。全体のなかで大きな比率を占めるモノローグ部分(ひとりのときも、対話のときでも。登場人物たちはきわめてよく喋る)が、そのような逡巡を描写し、濃密な文章が繰り広げられることになる。


全体においての思想的な軸は、イワンとアリョーシャの対照的なふたりが担っている(神をめぐる対話、そして「大審問官」)。プロットにおける対立は、顕在的にはグルーシェニカをめぐるフョードルとドミートリイの争い、潜在的にはカテリーナをめぐるイワンとドミートリイの争い。さらに深部ではイワンとスメルジャコフの対立。など。
ただしこれらの対立軸は、プロットの状況をわかりやすくするものではあるが、キャラクターの内的変遷を規定しているものではない。
たとえばドミートリイの行動原理においては、父フョードルによるグルーシェニカへの恋慕というファクターは上位のものではなく、カテリーナとグルーシェニカというふたりの女性に対するなかでの、自己の誇りを失わないための振る舞いの方がより深部に位置するものとなっている。
そうしたものがカラマーゾフ的、なのかどうか、あるいはロシア的、なのかどうかはわからないが。
もう一方において忘れてはならないのは、色濃く全編を貫くキリスト教の思想。
キリスト教とは(というか他の宗教もそうなのかもしれないが)、世界把握の図式であり、世界を観察し未規定のものを規定のものに変換するフィルターなのかも、と思った。


3..
それにしても第一巻はとっつきにくいことこのうえない。作者の序文とか、カラマーゾフ家の概要説明とか...。覚えにくいロシア語の人名が続いて誰が誰だかしょっちゅうわからなくなるし。ドミートリイが愛称ミーチャで呼ばれると混乱させられる。ときどきなぜかフルネームで呼び合ってたりするのはおもしろいが。
前半で興味をつなぎとめるのはフョードルのキャラクター。型破り、自由奔放、あるいは天真爛漫、恐るべきお騒がせキャラだけど、にくめない。愛すべきキャラ。
展開が加速し始めるのは、第二巻中盤あたりから。ドミートリイのなかで増大していくグルーシェニカへの情熱、フョードルがグルーシェニカと会っているのではないかという疑念・嫉妬、それらがドミートリイを転落へと駆動させるのだが、実際はもっと不可解なまでに複雑な要因が作用している。しかし結果としては単純に、ひたすら破滅の道を突き進むドミートリイ。その心理は興奮の極みにあって、思考のレンジはきわめて狭隘に。選択肢は自縛的に限定され、そのなかでもすべてマイナスの方向へと暴走し続ける。
堕落するとわかっていても、その局面に入るともはやそんなことは自分では意識することもなく、何かの障害物にぶち当たるまでは(たとえば警察に逮捕されたりとか)、落ち続けるしかない。そういうことも人生では起こり得ることなのだろう。(...こういう感想は、子供の頃であればおそらく思いもよらなかったはずと思う。)


4..
コーリャのエピソードはおもしろかった。
アリョーシャと仲良くなってくれてよかった。


5..
あと、なんかこういう本って、RPGっぽいな...とか思った。
街のいろんな人に話しかけていくことで少しずつ新たな情報が手に入り、行ったり来たりするのが、なんかRPGでフラグ立てて進んでく感じだな...と。



カラマーゾフの兄弟
 ドストエフスキー
 原 卓也 訳
 新潮出版
  ISBN:4102010106
  ISBN:4102010114
  ISBN:4102010122






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell