光の魔術師 インゴ・マウラー展 @東京オペラシティアートギャラリー。
照明デザイナー。ドイツ生まれ。
入ってすぐのところに、スタジオの一部が再現されたコーナーがある。彼のスタジオはデザナライ designerei / デザイナリー designery と呼ばれていて、工業的というよりもアトリエのような雰囲気。おもちゃだらけ、といった感じ。
照明デザイナー、というよりも照明器具のデザイナー。間接照明にはあまり興味ないみたい。あくまでも照明器具そのもののかたちに重点を置いているようだ。
“XXL Dome”(1999)
“Henry Hudson Dome”(2000)
大きなシェード。内部を赤く塗られている。
“Model for Silver Cloud light”(2001)
これは実物があるのか? 原寸サイズのものが見たい。
“Delight”(1980)
布のようなもので覆われている。耐熱ガラス繊維。
“Where are you, Edison”(1997)
“Holonzki”(2000)
これがもっともおもしろかった。
ホログラムで照明器具を映像として映し出す装置。
“YaYaHo”
ワイヤーによる低電圧システム。ハロゲンランプ。ハロゲンガスが器具内に充填されていることで、タングステンが高寿命となる。
“Lucellino”(1993)
Vitraからの運送用の箱の上にそのまま展示されているものがおもしろかった。
“Tableaux Chiois”(1989)
インスタレーション。床面に設置された浅い水槽に、ガラスの曲線体がいくつか浮かび、ときおり発生される水流によって動く。これらに混じり金魚が泳いでいる。
そうした水の情景が、正面の壁に映写されている。
動きのつくり方。水流による人工的な動きと、金魚という生物による動きとが、予測できない運動のパターンを生む。
“LED Table”(2001)
ガラスのテーブルとイスに散りばめられたLEDの発光体。どこに回路があるの?というようにいろんな人がのぞき込んだりしてた。
“LED Wallpaper”(2006)
壁一面にLEDでできたバラが連なる。近付いてみるとLEDの回路が見えて、これもまた模様に見える。
壁の最下部にはディスプレイに流れる暖炉の火の映像。
レポートしているサイト:
http://www.japandesign.ne.jp/HTM/JDNREPORT/060802/ingo/index.html
[メモ]
照明器具について。
人工光を生むことを目的とする道具。蛍光灯、白熱灯、ハロゲンランプ、LED、などさまざまな照明方法がある。
照明器具には固有のかたちがある。もっとも見慣れたものは、蛍光灯照明、電球。あるいは光源自体が電球であっても、シェードのかたちによっていろいろなヴァリエーションがあり得る。シェードはもちろん光の照射の仕方に影響を及ぼすものだが、同時にそれは、照明器具自体が見られることを意識したかたちでもある。単純に人工光を発生させる機能があればよいというのではなくて、人工光を生むもの自体のあり方に対して自覚的。
自然光は、光源のかたち自体はニュートラル。晴れた日に空を見上げれば、そこには自然光の光源である太陽が知覚できるが、普段太陽を光源として意識することはあまりない。曇りの日で、太陽自体を知覚できない場合はなおのこと。
人工光も、たとえばオフィスの何の変哲もない蛍光灯などであれば、光源自体を意識することはないだろう。
ところが、住宅の照明であればどうか。
デスクライトやペンダント照明、ブラケット照明など、自分の部屋の照明器具を選ぼうとするときには、照明器具の形状が重要な要素になる。どのような人工光が得られるか、ということの他に、光源自体がどのようなかたちをしているか、が意識される。
光源の形状が意識されない空間/光源の形状も空間全体の一部として意識される空間
人間は主として視覚/光によって空間を知覚する。
自然光であれ人工光であれ、光源というものが不可欠。
光があって初めて空間を視覚的に感知できる。
このとき、形象に対して意識的につくられた照明器具というものは、自分のかたちを人間に知覚させるための光自体を自らがつくり出している。
他に光源となる照明器具がない空間の場合であれば、この関係はもっとも純粋なものとなるだろう。
cf. 楽器
楽器は音を生むことを目的としている。一方で楽器は具体的なかたちを持つものでもある。
ピアノでもヴァイオリンでも、それぞれ固有のかたちを持っている。
ところで、かたちのない楽器というものもある。
すなわちDTM。PCのなかで製作から演奏まで完結してしまう音楽/楽器というものがある。