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 “わたしいまめまいしたわ  現代美術にみる自己と他者 Self / Other ” 2008.01.18 - 2008.03.09







わたしいまめまいしたわ
 現代美術にみる自己と他者 Self / Other
 東京国立近代美術館






〈自己/他者〉をテーマにした展覧会で、5人のキュレーターにより構成されている。
 テーマが明確なことに惹かれた。




澤田知子 “ID400”
 証明写真を利用して撮影された、膨大な量のセルフ・ポートレイト。さまざまにスタイルを変えた作者が無数に写っている。
 こうやって自分を大量の様態に変容させるのは、どんな気分なんだろう。
 自分の拠り所がなくなる不安な気持ちと、同時に、おそらく他では得られない何らかの自由な気分になるんじゃないかなと想像する。それはたぶん、固定されたスタイルに束縛された自分から解放される気分として。
 世の中には、わりと頻繁に外見のスタイルを(髪型や眼鏡、メークや服装も含む)変える人と、ほとんど変えない人がいる。
 スタイルをよく変える人は、そうでない人に比べて異なるアイデンティティ様態を持つと言えるのだろうか?
 スタイル。そういえば〈文体〉だってアイデンティティに絡む重要な要素のはずだ。




Bill Viola “追憶の五重奏 The Quintet of Remembrance
 哀悼の表情を示す5人の男女の映像。一見写真のように見えるけれど、やがて人物がきわめてわずかなスピードで動いていることが認識できて、動画であることが把握される。
 画面自体はとても絵画的に見える。一瞬間ごとに絵画と同等に濃い感情表現を持った画面が描かれ、少しずつ、極微の速度で遷移していく。それは悼み・悲しみという強い感情状態を、濃密なスローモーション過程のなかに凝縮しているようで、感情そのものを何倍にも増強しているようなものとして感じられる。
 違うセクションに高嶺格の“God Bless America”という作品があって、同様に時間を操作された映像作品なのだけれど、こちらは早送りで展開されている。クレイ・アニメーションを、制作者の作業過程も省かずに映されていて、制作どころかそれ以外の生活風景も撮り続けている感じ。
 こうした映像作品のおもしろいところは、時間を操作できている、というところにあると思う。文学・小説における時間操作*1と違ってもっと直接的かもしれないけど、その分、知覚に強く訴えかけてくるものがある。普段は気にしない時間の流れを強く意識させられる。




牛腸茂雄SELF AND OTHERS
 全60枚の人物写真から構成される。

例外は3点のみ。冒頭の声をあげて泣く赤ん坊、34点目の眠る女性、そして最後となる60点目の、こちらに背を向けて光のハレーションの中に走り去って行く子どもたちである。つまり、写真集の最初とほぼ中央と最後にだけ、写真家/観る者がいくらまなざしを投げてもそれを返さない人々が置かれていることになる。(カタログ)

 最後の写真が好き。





[メモ]
 自己/他者というテーマ設定は、現代美術での重要なテーマのひとつだ。それは「変身・変装」を手法としたアートが多く見られることからもよくわかる。アーティストがいろいろなキャラクターに変わってみることは、〈自分〉というものがファッションやメークや髪型などの外観要素で容易に変更できるものにすぎないことを示す。すなわちそれは、自己が他者とのコミュニケーションで定まる社会的構築物であることを意味している。
 また、自己は言語により構築されるものである、という見方もある。「言語ゲーム」や「言語論的転回」が示すのは、われわれは言語を介してしか世界を認識できない、というものだ。思考はどこまでも言語を媒介としているし、認識は言語の制約に縛られている。
 いずれにしてもそのように、〈自己〉は「他者」「社会」「言語」等との関係性のなかで成立する概念であるというのが近代以降の一般的認識であり、この展覧会のキュレーターたちもそうした考え方に準拠していると見てとれるのだけど、でも一方でこのような定義では抜け落ちてしまう重要な事柄があるとも思う。
 たとえば〈自分〉は視点を持ち、痛みを感じ、固有の記憶を喚び起こすことができるけれど、このように自分が見ていること、感じていること、思い出せること、それらは他人には絶対に代替できない。そもそも他人が自分と同じように物事を体験しているかどうかはわからない。これを補う問いとしてよく例示されるのは、『自分が青い色だと見ているものは、他の人にも同じ色として見えているのだろうか?』というもので、そしてその答は、『もしかしたら他人は自分が赤と思ってる色を青と見ていて、逆に青を赤と感じているかもしれない』というものではなく、『それは絶対に確認しようがない』というものになる。
 この世に「絶対」なるものがあるとすればひとつにはこれだ。そしてこの絶対性は、世界を成立させているひとつの出発点だと思っている。

 だから僕としては、〈自己/他者〉というテーマで企画された展覧会ではそのような問題系が表現されることを期待するのだけれど、「社会的自己」とか「言語的自己」に絡む作品は散見されても、そうではないさっき言ったみたいな自己について絡んだ作品は見当たらなかった。「それ」は、言語では語り得ないものだけど、だからこそアートで表現できる可能性があると思うのに。
 ところで、ではそういうことに結びついたアートがほんとうにまったくないのかというとそんなこともなくて、たとえば最近読んだ永井均“なぜ意識は実在しないのか”という本では、赤瀬川源平の“宇宙の缶詰め”が「使える」例として何度も言及されていた。ということはその種のアートが寡少だとかいう問題ではなくて、むしろ語る文脈=キュレーション次第なのかもしれない。でもせっかく「クオリア」だの「哲学的ゾンビ」だのが流行って(?)いるのだから、そこら辺に焦点を当ててまとめるセクションがあってもよかったのに、とも思う。
 ...なんかキュレーションに文句言ってるみたいな書き方になってしまってるかもしれないけどそんなことはぜんぜんない。美術館に行くのは、何かの答を求めに行くわけではなく、物事をいろいろ考えさせられる状態になりたくて行っているので、その意味ではこの展覧会は、十二分に満たしてくれたと思っています。











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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell