::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 “リンダリンダリンダ”

リンダリンダリンダ [DVD]















0.
「絶対気に入るはず」と言われて見てみた映画。
でも、ブルーハーツの曲を演奏する映画っていうことに対して、ブルーハーツそんなに好きではないしなー、っていう思いと、どうせ「ウォーターボーイズ」系列の青春映画なんでしょ? そういうのって見たらそれなりに楽しめるとは思うけど、絶賛なんてしないと思うよ俺? っていう思いとがあって、全然期待してなかった。
だけど見終わってみて...
うん、これは絶賛せざるを得ないな。。。
という結果になりました。




1.
もっとも簡単なあらすじとしては、高校生のバンドが文化祭でブルーハーツのコピー曲を演奏する、というもの。
このようにあらすじをまとめてしまうことで発生してしまうだろう先入観を消すために、まずブルーハーツを好きでもそうでなくてもそれはこの映画を見るにあたってまったく関係ないということと、高校生を主人公にしたいわゆる青春系の映画(「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」「がんばっていきまっしょい!」とか。)とはぜんぜん違うつくりのものであるということ、このふたつは強調しておきたいと思う。






2.
淡々とリアリズムで描写されている、というのが最大の特徴。
細かいところが異常にリアル。
練習やっててなんとなく個人モードになってしまいだらけてくるところとか、徹夜が続いてもう起きてられなくなって全員眠り込んでしまうところとか、元彼との会話のシーンで、説明口調の真逆をいく必要最小限の単語だけで進む会話とか。あるいはバンドがライヴに遅刻する状況のときに、スタジオに自分のベースを忘れたことに気付き、誰かに借りるから戻らなくていい、って強情に言い張るところの口調とか...。

物語表現というものには最低限必要なリアリズムというのがあると思うんだけど、ふつうに映画を見ていると(そんなに映画を見てる方ではないのでたまに見るものだけで判断してしまっているけれど。)、実際の生活では絶対こういう台詞は言わないしこういう口調にもならないよな...と思うものを、でも映画だからしょうがないか、という暗黙の了解のもとに見てしまっているものがけっこう多いように思う。
でもこの映画では徹底して映画口調を排して描写されている。

リアリスティックといっても、これは別にドキュメンタリーではなく明確にフィクションであり、たとえばカメラを定点に据えて24時間撮り続けてる映像をそのまま流してるっていうわけでもない。当然のことながら物語としての編集がおこなわれている。それはつまり、情報の選別が為されているということであり、他でもあり得た可能性のなかからこのように選択されている、というその選び方に、物語としての意味を読みとることができる。
たとえばドラムの響子(前田亜季)がライヴ前に好きな子に告白しようとしたときに、ちゃんと告白してOKとなるとかでもなく、あるいはだめだったけど悔いはなくさっぱりしたりでもなく、単に「やっぱり言えなかった」ってちょっと微笑むだけで流れていくことを選ぶこと。
あるいは韓国人留学生ソン(ペ・ドゥナ)がボーカルになったとき、文化的背景から来るさまざまなトラブル、をほぼまったく語らないことだったり、練習時にメンバー間で深刻な意見の相違が発生して揉めるけどでもあとでお互い理解し合って最後の演奏に向かう、みたいなことが一切起こらなかったり(遅刻してきた響子に対してギターの恵(香椎由宇)が怒ってると思いきや実はただ単に別のスタジオを押さえようと電話してるだけだったり。感情の巨大な起伏がぜんぜんない映画。)、娯楽映画であれば当然あり得るパターンをことごとく回避して、違う選択肢を選んでいる。
この淡々とした描写があまりに心地よかった。自分の体温に合っている気がして。
文化祭で何やるの?って他の人たちに訊かれて、ブルーハーツ、って答えると、「おー。熱いねー。」とか「おー。いいじゃん。」みたいな反応。ちょっと感嘆を挟んで、肯定的感想が返ってくる。なんていうか...このやり取り自体が、ぜんぜん熱くないよ。でもそこが好きだ。
ぬるくて程良いテンション。




[メモ]
 青春映画では、たとえば「ウォーターボーイズ」でもいいしあるいはもっとむかしのテレビドラマだったりでもいいのだけど、その物語は明確に成功/失敗がわかるような何らかのイベントを軸に据え、その達成を結末として、全体として〈青春〉の持つある種の全能感を称揚する描写をおこなっている。あるいは逆に失敗する場合でも、そこから何かを学び取るという成長が描かれており、何らかのかたちで青春の価値付けが為されている。どの場合においても青春映画では、〈青春〉とは「かがやかしくかけがえのない」ものであるという含意が常に為されているように思う。それは過ぎ去ったある特定の時期を美化するように描写されるものであり、その描写には現在から過去を見返す視点が暗黙に前提されている。
 自分の過去を、それを体験したときのそのままに記憶し続けることが不可能であるならば、過去を思い起こすときにそれが美化されるというのは避けられないことなのかもしれない。必ずしも美化に限ったものではないにしても、記憶された過去を呼び起こすときにはそこに何らかの「変形」が加わる。良い思い出は時とともに美化されるだろうし、良くない思い出は忘れられたり、あるいはつらかった部分のみが過剰に誇張されて記憶されたりするかもしれない。いずれにしても変形は不可避。この変形は編集のようなものと言い換えられるだろう。起こったことのすべてが記憶されるのではなく、取捨選択・改変・削除などを経た上で記憶される。つまり過去は常に編集された物語のようなものとして記憶にストックされるのだ。
 青春時代を今まさに生きている人々とこれから過ごすであろう人々の合計よりも、もう既に体験してしまった人々(大人たち)の方が圧倒的に多数だとすれば、〈青春〉は過去に属する事柄として捉えられることが一般的なものとなるだろう。すなわち現在を説明するための言葉や来るべき未来についての言葉ではなく、既に自分が体験し終わった過去を語るために用いられる言葉として。たとえば『あの頃は良かった』『あのときこうしていれば...』『もう一度あのときに戻れればいいのに』『これからだってあの頃と同じように輝けるはず』等のフレーズ。そしてそのように青春時代が過去に区分されるときには、思い出がことごとく変形を免れないのと同様に、単に生物的・身体的ピークの時期に過ぎないかもしれない青春時代というものがいつのまにか人生における全体験のひとつのピークでもある、というように変形されてしまうとしても当然なのかもしれない。
 高校生活こそは、〈青春時代〉の範囲に含まれる時期のなかでもひとつの金字塔のような位置を占めていると思う。でもリアルタイムで高校生活を過ごしているときには、その生活は必ずしも〈かがやいていてかけがえのないもの〉とは思われていないはず。彼らは彼らでそのつどの毎日をただ生きているだけで、「青春ってすばらしい」とか*1、「でもいずれ青春は過ぎ去って甘さと苦みとを持って思い出すことになるんだ...」なんていう思いはないはずだ。それらは回顧的な視点による感慨だから。*2 だけどそれが映画として描かれるときには、そのような日常はすべて意味のあるものかのように整序され、過去はひとつの崇高なものとしてきれいに包装されて提示されてしまう。青春映画にはそのようなノスタルジックな視点がいつもつきまとっている。〈大人〉が映画をつくっているのだから仕方のないこととしても、だからといって高校生活を題材にした映画が必ずノスタルジックでなければならない必要があるのだろうか? 


 「リンダリンダリンダ」のプロット自体は、通常の青春映画と同じように、文化祭に出られないかもしれないという危機を出発点として紆余曲折あった後に最終的に文化祭でバンドとして成功する、というひとつのイベントの達成を描いているのだけど、それにもかかわらずこの映画からはシンプルに青春を礼賛するようなメッセージは感じられない。物語構造は同じでも、細部のつくり・描写の仕方が違う。まず登場人物たちには、情熱やテンションの高さなどのエネルギッシュな描写が少ない。また、たしかに「ひとつの成功」というものは描かれているけれど、そこに理由が与えられていない。通常の青春映画でのように、成功の意味・理由を、青春のもたらす必然性、というようなことに仮託したりしない。
 なかでも大きく違うのは「特に刺激的なドラマが展開したりしない」とか「登場人物たちが成長したり何か新たな知見を得たりはしない」というところ。
 そもそも「ドラマ性」にしても「登場人物が出来事を通して成長していくこと」にしても、それらは過去を振り返ったときに初めて見出せる要素のはずだ。成長したかどうかは、事後的に一連のプロセスや自分の能力を整理してからようやく判断できることだし、過ごしている毎日がドラマチックなものかどうかだって、あとになってから物事の関連が意味付けられて初めてドラマチックなものとして認められることだと思う。
 すべてのジャンルの映画にドラマチックな展開や登場人物の成長が必要とされているわけでもないのに、でも高校生を題材にする映画となると急にそれらを当然のごとく求めてしまうのは、たぶん高校生活なるものを回顧的視点で見ているからだという気がする。だけどそれらは、そのときを現在として生きている当事者の視点では発見され得ないもののはずだ。だからこの映画でドラマ性や成長性が排除されているというのならばそれは〈青春〉に託されている定型的イメージから距離を置かれているということであって、そうすることによって、「現在から見た過去」としての高校時代ではなく、「現在」そのものとしての高校時代、が描かれているのだと思う。
 深夜に練習してる登場人物たちが学校の屋上で休憩しているときにベースの望(関根史織)が口にする台詞で、〈ライブ本番のことは緊張してむしろ思い出せなくて、たぶんこうやって過ごしてる時間の方が強く記憶に残るんだろうね〉みたいな(うろ覚え)フレーズがあって、この映画がどこに焦点を当ててるのかを理解させてくれる。このあと他のメンバーに〈なに熱く語ってんの〜〉みたいにひやかされてしまうのだけど、そのメタな身振りも含めてこの映画のスタンスをよく表していると思う。
 たとえば、徹夜練習が続いてスタジオでついみんな眠り込んでしまい、起きたらライブに間に合わない時間になってた、っていうのも、映画としてみたらドラマ的起伏なんてほとんどないようなあまりに些細な出来事だけど、でもそれはその瞬間を生きている人物たち自身にとってはもう大変な出来事のはずだ。「世界を揺るがすような大事件に巻き込まれること」であろうと「ライブに遅れてしまうこと」であろうと、それらに物語としての優劣とか体験としての強度の違いとかなんて、つける必要ないんだと思う。








*1:文化祭や体育祭でのキャッチフレーズとしては現在的なものとしてよく用いられると思うけれど。

*2:もちろん高校生が、青春時代を重要な時期として捉えて、それがいずれ失われてしまうだろうことに対し焦燥感を感じるということもあるだろうけれど、大人になってから振り返ってみたときに「取り返しのつかなさ」を伴って思い起こされる過去と、高校生が感じる「この〈今〉が終わってしまうかもしれない」という切実さというのはまったく異なる性質のものだと思う。






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell