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 阿部和重 “シンセミア”

シンセミア(上) シンセミア(下)















0.
 おもしろかった。途中で読むのをやめられずひたすら読み続けた。読んでいて先がどうなるか気になってたまらない、という小説だった。
 冒頭にまず登場人物一覧表が載っていて、そこに総勢60名の名前が連なっているのを見て、これは読むの大変かもなー、と思ったけど、実際読んでみるとけっこうすんなり頭に入ってくる。関係が明解だからかな? 個性の違いの書き分けもよくできてるし...。






1.
 読んだあとにストレートな爽快感をもたらすようなタイプの小説ではない。語り口はリズミカルで乾いているけど、小説内で生じている出来事は、どれも陰りがあって救いがない。また、ほぼすべての登場人物が何らかのかたちで社会的に好ましくないとされるであろう要素を持っていて、感情移入を躊躇させる。
 彼らは皆、犯罪者・異常者・逸脱者等のいずれかとして括られるだろうキャラクターだ。しかし、語りの視点を与えられる全登場人物がうしろめたいプロフィールを持っている状況では、「正常/異常」「遵法/違法」といった区別、「倫理」「常識」といった基準はもはやキャラクターの差異を説明するファクターにはならない。
 彼らの辿る奇妙な道筋は概ね悲劇的な最期を迎えることになるが、そこには、後味よくないという印象よりも、おさまるものがすべておさまった感じがある。謎とかが明かされなくて歯痒い感じにはならない。語られるべきことはちゃんと語られて終わる。

 ガルシア・マルケスの「百年の孤独」に雰囲気が似てることを言っている書評がいくつかあって、たしかにそういう感じはした。ひとつの町が舞台で、血族に絡む膨大な登場人物の興亡を描くことがまず共通している。でもそれよりむしろ構造的類似の方が重要かもしれない。
 それは、小説内におけるプロットの全連鎖がその小説内できれいに閉じる、ということ。
 「百年の孤独」では、最後にある仕掛けによってそれまでのすべての話が閉じられることになるのだけど、「シンセミア」でもそこまで美しいかたちではないにしろ、作品内で同時進行していたプロットは最終的にことごとく終止符を打たれ、開かれたままに放置されることはない。濃い密度で際限なくばらまかれた出来事、謎、伏線のすべてが、きっちり回収され、収束する。
 そのような書き方は、同じ阿部和重による「インディヴィジュアル・プロジェクション」とは決定的に異なっている。「インディヴィジュアル・プロジェクション」では、語り手が誰なのか、どのキャラクターなのかが決定不能な状態で継続し、さらにそれらが最後の最後にもう一度覆され、すべては曖昧で分裂したままに置かれている。一方「シンセミア」はそうではなく、始動された多数の物語の完結が明解で、そのように物語構造がすべて「閉じる」ということによって小説の〈範囲〉のようなものが際立って感じられる。


2.
 群像劇。
 60名に及ぶ主要登場人物すべてに語りの焦点が当たるわけではないけど、それでも物語視点を担わされる登場人物は10人は下らなかったはずだ。何度も焦点化される人物もいるし、たった一度しか焦点が当たらない人物もいる。次から次へと押し寄せる物量に圧されて惑わされるけれども、彼らのそれぞれのエピソードは、単独の物語としてよくよく見るとそれほど特異であるわけでもない。それらのうちどれかひとつを取り出せばそれだけで一冊の小説にもなりそうだし、そしてその小説は単に凡庸なものにとどまるだろうという気もする。だけどそうした数々の物語の途切れない連続・集積は、スムーズな繋ぎとスピード感と併せて、だれることなく小説の緊張感と読者の好奇心を持続させる。
 小説内で起こる出来事は非常に詳細に記述されている。夏の約一ヶ月間だけというごく短い期間の出来事だけど、次々と視点を変えながらひとつひとつのエピソードが丹念に追われていることで、この短期間での登場人物たちの生を、読んでいる自分が実際に体験しているかのような感覚にさせられる。
 「別の人間はどのように世界を見ているのか体験してみたい」という願望は、現実の世界において厳密には達成されるはずのないものだけれど、小説とは、ある程度までそれを可能にしてくれるものだと思う。ただ、単一の視点がいくら緻密に描かれたところで、小説と現実の壁はむしろ強固なものとして感じてもしまう。いくら精細に描写されようとも〈ではなぜその視点が採用されているのか?〉ということに対して無意識的な疑いを感じてしまうからかもしれない。
 でも「シンセミア」のような群像劇で、それぞれの視点が詳細に描かれ圧倒的物量で提示されると、別の人間の生を体験している感覚が鮮やかに生じる気がする。共感しがたい登場人物に対してでさえも。おそらくそれは、次から次へと視点が移り変わることでどの視点も常に相対化され、交換可能な視点のなかからたまたまそのつどの座が選ばれているということを意識させられるため、単一視点の絶対性にふと疑問を抱くようなことが生じないからだと思う。
 読者が小説内の主人公に感情移入してその小説を読んでいくこととはあたかも読者がその小説世界内に生まれ変わるようなものだとなぞらえるのであれば、視点を疑うこととは、その読者が小説世界内において「自分はなぜ他の人物ではなくこの自分として生まれたのか?」と疑問を持つことと同じようなものかもしれない。
 けれども多数視点の小説では、どの〈自分〉もいずれ容易にまた違うキャラクターに移り変わる暫定的なものに過ぎなくて、その流動性のなかでは自分自身に疑問を持つ必要はなく、安心してそのつどの〈自分〉に身を任せることができる。
 〈どの視点でもいいはずなのになぜかたまたまその視点をもとに読まなければならない(そしてその偶発性を受け入れなくてはならない)〉という小説と、〈どの視点でもあり得るし、実際にどの視点も選択される〉という小説との違い。それは優劣の話ではなく、単にそれぞれの形式から生じる受け止め方の違いであるけれど、でもその違いは作品内におけるキャラクターのあり方にとって決定的な影響をもたらすものだという気がする。



3.
 多視点の物語/生が、ある瞬間から開示され、膨大にかつ濃厚に展開し、謎を派生させ、互いに関連し合って輻輳・複雑化し、そして最終的に収束して、きれいに閉じていく。もしその構造を何らかのかたちでビジュアル化することができるのであれば、たとえばビッグバンで始まった宇宙が、膨張しながら無数の星々を生み、やがて収縮に転じビッグクランチを迎えて終息するような*1、きれいな図式として示せるかもしれない。
 つまりひとつの小説はひとつの自律的な世界に匹敵するものになり得る、ということを思った。





公式ページ:http://www.sin-semillas.com/ 
インタビュー:http://media.excite.co.jp/book/special/abe/index.html







*1:振動宇宙モデルを採用した場合には。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell