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 “川俣正 [通路]” 2008.02.09 - 2008.04.13







川俣正 [通路]
 WALKWAY

 東京都現代美術館






0.
東京都現代美術館で開催している、川俣正の[通路]について。
川俣正は、その作品とその考え方との両面で、もっとも好きなアーティストのひとりなんだけど、今回のプロジェクトは非常に、なんというかなんともいいがたい印象を受けたものになってしまった。だからだいぶためらう内容ではあるのだけれど、一応感想を書いておきます。





今回、新しいプロジェクトとして実施されるのは、美術館を[通路]にすることです。[通路]は、場所と場所との中間領域や敷居、あるいは迂回路でもあり、接触領域(コンタクトゾーン)でもあります。通常は「貯蔵庫」、「展示」といった機能が前面に出される美術館を、人々が行き交う[通路]としてみなすことで、どのようにその空間や機能を変容させるのでしょうか。
観客は、この[通路]というキーワードを手がかりに、未完のプロジェクトや、これから始まるプロジェクトも含む、30年間続けられてきた仕事を見ることができます。また、観客は[通路]を行き交うなかで、打合せや作業、対話などを目撃し、そうした[活動]に接することになるでしょう。川俣正の[通路]とは、はじめもおわりもないまま、ひとつの自律的な場をつくりあげることで目的や規範に拘束されない、日常と連続した経験の再構築を実践することでもあります。


簡単に、前提条件の整理:
今回の展示の作家側の意図
・サイト・スペシフィックの放棄
・通路…つまり訪れる人々のアクティヴィティへ焦点を当てる。「作品」のない展覧会。
今までの川俣正の主たる特徴
・プロセスもまた作品の一部(ワーク・イン・プログレス)
・サイト・スペシフィック
・造形的インパク




1.
 感想...というより、疑問点・問題と感じたところは、ふたつある。
  ・通路を構成する要素(これを「作品」と見るのかどうかの問題。何を「作品」と見るのか。)に造形的魅力がない。
  ・作家の意図がうまく実現されていないように見える。
 この企画展で最初に目に入る「作品」らしきものは、館内・館外を問わず美術館を埋め尽くしているベニヤの壁だ。人の背丈より大きく、そっけなく立ちはだかる無味乾燥な壁。曲面的に連なっているけれど、流麗というには程遠く、改装工事でもやっているかのような光景を生み出す。
 木材は、川俣がもっとも多用する素材だ。けれど今回つくられているベニヤの壁は、今までの川俣作品の系譜と比べてインパクトが薄くて、美しくないとかいうのではなく(そのような価値判断は川俣が問題視しないものだ。)あまりに無個性で(これは川俣が目指すところのものではあるのだけど。)、何よりも驚きがない。
 川俣正は、そもそも「作品」が「美しくあること」とか、「個性的であること」などはまったく目指していない。だけどその一方で、そうは言っても彼の「作品」が造形面で魅力を持っていたことも確かだと思う。造形というより、もっと単純に「もの」としてのインパクトという意味において。それは一連のサイト・スペシフィック・ワークに見られるような、破壊し尽くされた廃墟のように混沌と木材が切り貼りされた作品であったり、“椅子の回廊”での積み上げられた無数の椅子、“デイリー・ニュース”での展示室を埋め尽くす新聞紙の山、だったり、とにかく見た瞬間に異常な光景として認知されるようなインパクト。単に木道をつくっていくだけのワーキング・プログレスの作品ですら、一目で川俣正のものだとわかる個性を持っていた。
 でも今回のこのベニヤの壁は、おとなしすぎる。もしかしたら、アルクマーの木の遊歩道のように、野外にあったならばまた違った印象があったのかもしれない。けれど美術館の中にある構築物としては、とても中途半端な気がした。
 できるだけ恣意的な造形性を排し、仮設性がクローズアップされるようなものとしてああいうかたちにしたのだとは思うけれど、それならばもう工事現場の仮設間仕切そのもののようにつくった方がまだ良かったのでは、と思う(たとえばパンフレットに書かれているコンテナ部品の連続でできた通路、のように。最初はあれが置いてあるのかと思っていた。)。変に曲線的な形状になっていることが──人の流れを生むという意図によるのだろうけど──逆に恣意的デザインに見えてしまう。
 片面を平滑に仕上げて、背面は支柱を無造作に組んでいる、というつくりは、壁に対して「表」と「裏」を明確に区分していて、これもまた人の流れをコントロールする効果のためのものであるはず。そうした表と裏を持った壁が展示空間全体で複雑に入り組んでいる空間構成、というのはおもしろくなりそうなものなのに、でもそのような「表」「裏」の区別を効果的に利用した動線構成にはなっていなかった。もちろん、厳然たる秩序的な動線コントロールなんて必要ないんだけど、でも全体的に、ある空間と別の空間とのつながり、が無造作すぎで、「意図的な無造作」ならまだしも、本当に何も考えずつくっただけのように見えてしまって....。だから人の動きが際立ったものとして感じられる空間にはなっていなかった。
 なかなか「人の動き」をコントロールするって、簡単なことじゃないとは思うけど...。foaの横浜客船ターミナルだって、コンペ時に言っていたような「人のアクティヴィティによる建築空間」というのが実際に感じられる空間になっているとは言い難かったし。人の動きとかアクティヴィティとかって、そもそも空間のつくりによって意図した通りに実現できるものではないような気もする。単純な動線で、それこそ「環境管理型権力」でコントロールされるような種類のものならともかく、複雑で、“いきいきとした”なんていう形容が付けられるよう人の動きは。


 今回のプロジェクトは、もはや「作品」は放棄して、「人」のアクティヴィティそのものに焦点を当てている、ということは本人に明言されている。それは美術館の中での鑑賞者たちの動きだったり、ワークショップの活動、だったり、あるいはカフェでのコミュニケーションだったり、そういった諸々すべての様相、それがここでの「アート」なのだと。...でもそれにしても...あまりにも空間自体に魅力がなさすぎるのは、どうなんだろう。
 別に川俣じゃないアーティストがやるならいいんだけど、あれだけ作品自体の強度を持っていて、そのスタイルをずっと徹底してやってきた人なのに...。
 うーん、いや、でも最近のプロジェクト見る限りでは、かつての先鋭性をそんなに失ってるわけではなさそうなので、単にこの現代美術館での展覧会がいまひとつだっただけなのかもしれないな...。
 ただ、これはプロセスに焦点を当てた展覧会なので、もしかしたら、もしかすると、開催中に会場内ラボでおこなわれるワークショップのフィードバックを受けて、展覧会会場自体が次々と変化していく、っていう可能性もないとは言い切れないかもしれない。そのためにあのベニヤ壁をわざわざあんなにシンプルにしていた、とかで。あのベニヤは単なる最初の素体にすぎなくて、それが最終日にはもう最初の面影なんて影も形もないほどの何かに変容するのだとしたら。もしそうだとしたらかなりすごいことだけど、さすがにそこまではないかな。でも、もう少し注意しておく価値はあるかもしれない。






2.
 見終わったあと、結局、直接的な感動はないままに、頭の中で疑問だけが渦巻いていた。
 でも一回、本人の言葉・考え方をちゃんと確認しようと思って、ずっと前に読んだ「アートレス」asin:4845901188 をもう一度読み返してみた。


 川俣正のスタイル・戦略は、大きな流れとして〈サイト・スペシフィック・ワーク〉から〈ワーク・イン・プログレス〉へと移り変わってきた。
 サイト・スペシフィック・ワークは、作品が展開される場所の固有の性質・条件等と強く結びついたインスタレーションであり、現在に至るまでの彼のスタイルを決定付けている。最初期のゲリラ的でアノニマスな作品群と異なり、これらの作品では、その作品が置かれる場所において、短くはない制作期間と公的な承認とが必要とされる。すなわち公共の場(パブリック)における表現、という性格・問題が必然的にまとわりつく。
 この時期のスタイルは、80年代末から90年代初頭にかけてのふたつのプロジェクト、“トロント・プロジェクト”と“プロジェクト・オン・ルーズヴェルト・アイランド”に結実する。これらふたつのプロジェクトに起こった諸々の出来事を通じて彼が得た考えは、パブリックな場でのプロジェクトは、制作者の意図を離れたさまざまな社会的な関係・影響に翻弄されることを余儀なくされ、それらの結果としてしか作品は成立し得ない、ということだった。このことによって、彼のスタイルは次の〈ワーク・イン・プログレス〉へと導かれることになる。
 〈ワーク・イン・プログレス〉は、その名が示す通り、パブリックな場での制作プロセスに必然的にまとわりつく出来事そのものをむしろ作品の主たる焦点として表現する、というある種の逆説的な転回に依っている。つまり、鑑賞対象としての「作品」ではなく、「プロセス」自体がアートである、という主張だ。これはそもそも川俣正が根底に持っていた現代美術(というより社会における現代美術の扱われ方)に対する懐疑と反発にも結びついており、この段階に入って川俣正の方法論は、戦略としての明確さと、方法論としての基礎固めとを獲得したと思われる。
 キーワードは、「プロセス」「コミュニケーション」「インターラクション」「シンパシー」「普通であること」。つまり共同的におこなわれる制作過程での、さまざまな人々とのコミュニケーションが出来事として重視され、一方で制作される「作品」自体は(あくまでも何かが制作されるのではあるが)川俣正の興味の中心からは外れていき、作品も制作手法も「限りなく普通であること」が目指される。
 本書で繰り返し現れる文体として、「私は○○には関心がない」/「それよりも私は○○に関心がある」というセットの言表がある。
 羅列してみよう。これらの区別から、彼が焦点を当てているものが見えてくるはずだ。
  [恒久的な作品] ではなく [一時的な作品]
  [コミュニケーション内容のクオリティ] ではなく [どのくらい共通のシンパシーを感じたか]
  [美術というシステムの中で何かをつくり出していくこと] ではなく [そのジャンルの内と外の間に立つこと]
  [作品としての「もの(オブジェ)」] ではなく [それらが生み出され、社会化された時の場の関係性そのもの]
  [意図されたドラマティックさ] ではなく [限りなく普通なこと]
 これらの対比は、最終的にはすべて次の二組の区別に収斂すると言えるかもしれない。
  [作品] ではなく [制作]
  [アートフル] ではなく [アートレス]



 以上を踏まえた上で今回の企画展をもう一度思い返してみると、彼の考えにはまったくぶれがなく、首尾一貫としたそのままに今回に繋がっていることは認めざるを得ない。
 たとえば、最初に書いたような「あまりインパクトがなくていまひとつだった」という印象に対して川俣正はどのように応えるだろうか?と問うたとして、その答は以下の通り本書の中に既に存在しているとも言える。

p41 いずれにしてもプロジェクトに直接かかわりの深い観客以外の観客というのは、私にとってそれほど重要ではない。一般の観客というものを対象とした展覧会にはない、その場でしか、かかわれない観客とのコミュニケーションを、あくまでも大切にしたいと考えるからである。
p98 だから参加を強要しない。ただ利用できる場が用意されているということだけである。
p99 だから極端に言えば、私にとって彼らがどうなろうと問題ではなく、彼らが自分たちで自分たちのことをこのプロジェクトを通してどう考えるかに興味がある。
p122 見る側、あるいはその場を訪れる人たちが、どのようにこれらのプロジェクトと付き合うべきなのかは、彼ら自身がこのプロジェクトに対して、自分の認識の中でつくることなのだろう。


p75 「ワークインプログレス(成長していく過程の作品)」は決断を先送りするだけのモラトリアムではないか、と言われることもある。つまり完結しないからモラトリアムであると。でもそれは、プロジェクトの完成を見たくないからやらないのではなく、作品の完成そのものに興味がないからであり、自分の中に完結した作品をつくるという発想がないのだと言えるかもしれない。それ以上に多くの人たちと一緒に行なうプロジェクトのプロセスの中で起こる自己生成的なインターラクションのほうを私は重視している。(これは「アートレス」ではなく「セルフ・エデュケーション時代 asin:4845901277」に含められた文章から)

 「美術館に展示された作品を鑑賞する」という流れで体験するアートではなくて、「参加すること」「参加している様子を見ること」「それらを通じて考えること」、そうしたことでのみ体験できる〈アート〉。美術手帖だったかどこかで今回の企画展について述べた言葉で、「最近サイト・スペシフィック飽きてきた」と言っていたのを見たけど、「作品」も「サイト」もほぼ放棄して、「プロセス」「コミュニケーション」だけに極限まで特化してしまった姿がこの[通路]なのだろう。
 だとすれば、この企画展の成否は、実際にここでのアクティヴィティを通じて何が生まれるか、ということにかかっている。そしてそれはおそらく、自分も参加してみなければわからないもののはずだ。

...というように自分の中で整理するしかないかもな。

 
 どうしても今までの作品、特に水戸芸で見た“デイリー・ニュース”の感動と比べて溜息をついてしまう。
 それでも川俣正の考え方自体にはとても共感しているし、そしてこの[通路]こそが川俣正の思想をもっとも純粋なかたちで体現したものかもしれないという気もしているけれど...。
 どうなんだろう...。自分ではよくわからない。だから、今までずっと川俣正が好きで、今回の展覧会もすごく良かった、っていう人がいるならば、その人はどのように鑑賞しどのような解釈をおこなったのか知りたい。



アートレス―マイノリティとしての現代美術 (ArtEdge)
















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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell