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  “天然コケッコー”

天然コケッコー [DVD]











監督:山下敦弘。脚本:渡辺あや*1。原作:くらもちふさこ
良かった。
甘酸っぱくて、あたたまる映画。


とりたてて何も起こらない、っていうところは“リンダリンダリンダ”と同じ。
でもだからといって「まったく何も起こっていない」というわけではない。
2時間かけて描かれているのは、主人公そよ(夏帆)の中学2年から卒業までの時間。何も事件らしいことは起こらず、時系列を乱すことなく厳然と逐次的に進行する。苛烈なイベントも激情の発露もなく、抑制の効いた描写であっさりと綴られていくだけ。冗長なところはぜんぜんない。淡泊なのに、どのシーンでもその場の空気が濃密に伝わる。

島根の山奥の村が舞台で、海だったり分校だったり、登場人物たちを取り巻く環境がとてもきれいに描かれている。
でも何もかもがクリアで見通しのよい世界というわけでもない。
特に転校生の大沢くん(岡田将生)の何を考えてるのかよくわからない感じは、最後まで一貫していて、そこがとてもリアルに思えた。性格よくなさそうだったりしたかと思うとけっこう的確な把握で気配りしたりもして、非常に読みづらいままに揺れ動く。
そのように「わからなさ」を孕みつつ人物造形が為されているのは、転校生ということもあるし同学年の異性だからというのもあり、つまり思春期における他者として上手に描かれてるのだと思う。安易に包括的な理解に至ったりしないで理解不能な部分を残しながらも、いっしょにいる日々のたしかな積み重ねがふたりをわかちがたくしていく、というところが見てて納得いった。

このふたりの関係はとてもほのぼのしたもので、概ね安心して見てられるけど、緊張感は足りなすぎるかもしれない。
そよの〈愛のこもったキス〉は大沢くんよりも学校に捧げられることが、象徴的。この時点でのそよがどこに自己を委ねているかがよくわかる。











1. シーン
 終盤近くにとても好きなシーンがある。
 校舎を外から捉えた画面。外壁に窓がふたつ開いている。画面右側の窓には、そよが下枠にもたれてたたずんでいる。左側の窓には誰も映っていない。同じアングルのまましばらく経つと、左の窓から見える廊下の奥から大沢くんが現れて、窓に近付く。大沢くんは左の窓から身を乗り出して、そよの方を向く。
 ──右には、物思いに耽る女の子。左には、その女の子のことを気にかける男の子。
 ふたりの間に言葉は交わされず、最後に少しばかり視線を交わして、そよは立ち去る。大沢くんは残される。






2. 構図
 このシーンには、3つの「フレーム」がある。
 ひとつは、窓台にもたれて外を見るふたりに対しての、窓枠。窓から外を見ることで、彼らにとっては、背後の廊下·教室といった校内の風景は切り取られる。(fig.1, a)
 ふたつめは、校舎の外から見たときの、ふたつの窓(fig.1, b)。窓がふたりをそれぞれ個別に状景として切り取っている。漫画のコマのように、絵画にとっての額縁のように。
 最後に、画面に直接映っていない第三のフレーム、すなわちカメラのフレームがある。すべてを映画として切り取っている超越的な視点であり、観客にとっての視点でもある。(fig.1, c)

 ここでの構図の大きな特徴は、フレーミングにある。
 画面に映るふたつの窓は、それぞれ個別に人物を収めている。ひとりの人物に対しひとつの窓が対応する。このシーンにおいてふたりが同じ窓に入り込むことはない。大沢くんは左フレーム内の画面奥から登場し、そのまま左フレームの中にとどまる。そよはシーン最初から右フレームにたたずんでいて、そのあとそこから画面外の右方向へと退場する。窓の枠内でそれぞれ、登場・退場がおこなわれる。
 右の窓:そよの既在→退場、左の窓:大沢くんの登場→残留。

 ここでこれらふたつの窓が果たしている役割は、登場人物に厳格に対応した舞台の形成だ。
 ふたつの窓は同じ廊下に面しているので、本当はふたりは同じ空間にいる。廊下側からお互いを見たり話しかけたりしたってよいはず。けれども彼らはわざわざ窓の外からお互いを見る。つまり校舎の中に身を置きながらも校内を見ずにお互いを見ている。ふたつの窓は、彼らの視界から学校という環境を消し去るかのような働きをおこなっている(fig.1, a)。その一方で、校舎外から見ればふたつの窓はそれぞれの登場人物を絵として切り取っていて、あたかもスポットライトを当てているかのように強調している(fig.1, b)
 ところで、画面外から見ている観客たちの視点からは(fig.1, c)、彼らふたりの目に入っていない別の要素が見て取れる。すなわち、校舎の外壁だ。観客にとっては、窓で切り取られたふたつの画面は、校舎の外壁というバックグラウンドの上に浮かび上がっているようなものとしてレイアウトされている。つまり、校舎を絵の背景として「校内にいながら校内を見ることなくお互いを見るふたり」がクローズアップされている、という構図になっている。

 


3. 窓
 ふたりの登場人物にとって学校は一日の多くの時間を過ごす場所というだけでなく、生活の大きな基盤、あるいは精神的な拠り所ですらあるはずで*2、学校という場を切り離しては彼らの存在は語り得ない。
 しかしここでの彼らは、学校のなかにいながら学校を消し去ったような視界のもとにいる。
 物思いに耽るそよが、隣の窓に現れた大沢くんに気付き目を向ける瞬間(fig.2→fig.3)。それは思いの焦点と視線の焦点が一致する瞬間であり、このときの彼らの視界に学校という環境が映っていないことが、その焦点の収束をより純粋な構図として描き出す。そして一方で観客からは、それがあくまでも学校を背にしてレイアウトされていることも見て取れる。
 彼らの目と心に映るもの、および意識されないその背景。それらがまとめて一枚の絵で示されているのが、このシーンだ。

 ここには一切の台詞はない。起こっているのは、窓によって切り取られた舞台内におけるふたりのキャラクターの、登場/退場、そして最小限の視線の変化、それだけ。だけどそれだけで物語が進行する。小説ではこうはいかないと思う。文字による表現で同じような構図を描いたとしても、それはまったく別のものとなってしまうだろう*3
 このシーンは、画面の構図(レイアウト)・登場人物の位置・視線というビジュアルな言語だけで構成されている。それは映画だからできること。そしてこれを為すために重要な役割を果たしているのが、窓という要素だ。

 この映画には他にも窓がそのシーンにおける重要な機能を果たしているところがある。
 たとえば最後のシーンで、ふたりが卒業したあとの学校の教室内から外部方向へと画面がパンしていって、次第に明るくなりながら窓に向けられると、そこには高校生になったそよがいて、窓枠にもたれて外から中を覗き込んでいる。もう校内から外を見ることはなく、校舎の外から中を(懐かしげに)見る視点となっている。
 あるいは高校受験に向かう電車の中で、並んで座るふたり。ここでのふたりは、手をつなぎながら、同じ窓から海を眺めている。
 いずれの場面でも、窓は登場人物の視線を調整し、状景を切り取り、窓の向こうと手前という区分を生み出し... そうして物語を発生させる。









*1:ジョゼの脚本もこの人。

*2:そよにとってはとくに。

*3:漫画の場合はちょっと判断が難しいところかも。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell