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 舞城王太郎 “好き好き大好き超愛してる。”

好き好き大好き超愛してる。 (講談社ノベルス)


講談社新書版。“好き好き大好き超愛してる。”に加えて、短編の“ドリルホール・イン・マイ・ブレイン”が収録されている。






好き好き大好き超愛してる。



0.
 構成はけっこう難しいつくりになっているけど、はっきりと恋愛小説。

1.
 各章ごとに違った主人公が出てきて、それぞれの恋愛関係が描かれている。
 ある章には、登場人物として「作家」が出てくる。彼のエピソードを追っていくと、他の章のなかにはもしかするとこの作家による小説内小説が混じっていたりするのだろうか?という疑問が湧き起こされる。実際、あとからよく考えれば他の章にはこの作家が置かれた境遇を寓話的に描いたような内容のものがあったな...などと思ったりする。そしてこの章だけは、同じ登場人物の構成でまた何度か繰り返される。

 各章の舞台設定はさまざまに異なる。寓話的であったり、SF的であったり、あるいはリアルなものであったり。しかしいずれにしても各章での〈僕〉と〈彼女〉の関係は似通っている。
 それはどの章でも〈彼女〉を失うという状況があることだ。
 そして柿緒パートにおける「作家」は、彼女を失うことに対しての小説を書き続けている。だから他の章はすべてこの「作家」が語る小説内小説とみてとれる。彼は舞台設定を変えながら、同じふたりに起こる同じひとつのできごとを、書き続けていく。何度も違う角度からなぞっていくことで、微妙に現実をずらしていこうとするような...。でも彼も、彼女が再生するなんて内容の小説を書いてはいない。だから書くことで現実逃避しているというわけでもなさそうだ。
 彼が書いているのは、彼女が失われるということ、あるいは失いつつあるということ。それは単なる確認作業のようなものなのだろうか? 記憶をいつまでもとどめておくための。いや、どちらかというとここでは、書くということはそれ自体、愛するという行為に含まれている。


2.
 冒頭の文章がとても印象的。“阿修羅ガール”の冒頭文も相当かっこよかったけど、こちらの方は、もっと深い、書くことについての思想表明を伴った文章だ。これに続く序章全体が、ひとつのマニフェストになっている。
 そしてこの小説の内容を極限まで簡略化するならば、それはそのまま、いちばん最初のふたつの文章として要約できるだろう。

 “ 愛は祈りだ。僕は祈る。”

 この文章は、とてもすばらしいと思う。





ドリルホール・イン・マイ・ブレイン


0.
 混じり合う人称を用いて、混じり合う人格を描く。...というような小説。


1.
 ひとりの登場人物が複数の「私」に分裂する、というようなことが書かれた小説を読むとき、どうもつい独在論的なアプローチで考えがちだったので、すこし違う切り口で見てみようとテクスト論の観点から考えてみた。


(以下、長文)

 まず、「私」を語る形式としての「一人称小説」とはどのようなものなのかを確認してみる。
 ジェラール·ジュネットによれば、いわゆる三人称小説であっても語り手が自らを指して〈私〉と言い得る以上、表面的な語り口に基づいて一人称小説と三人称小説を区別するのは適切ではない。なぜならば、事柄を客観的に綴っているかのようにみえる三人称小説であっても、その語りをおこなっている主体を潜在的な一人称の語り手として想定することが可能だからだ。物語という「語り」は、それが語りであるという時点で既に「誰かの」語りであり、それはすなわち、その誰かが一人称で語っていることだとも言える*1
 このためジュネットは、従来の言い方での「一人称小説」と「三人称小説」という区別の代わりに、語り手が語る物語内容に語り手自身を示す人物がいるのかどうかという区別を有意なものとして導入した*2。つまり「一人称小説」と「三人称小説」の差異を生むものは人称そのものというよりも、語りが自己言及をおこなっているのかどうかという区別である、と捉え直すことができる。

 さて、そうはいっても人称自体が重要性を持たないというわけではない。自己言及を成立させるには、そもそも自己を指し示す「一人称代名詞」が不可欠ではないか? 一人称代名詞が人称代名詞のなかでもいかに特殊なものであるかは、語用論*3を追究したエミール·バンヴェニストによって語られている。
 バンヴェニストの定義に依るならば、「私」とは、「〈私〉という語を用いて語っている者」のことを意味する。〈私〉という語は、三人称代名詞とは違って客観的指示対象を持たず、発話行為のなかでの相対的関係性を示すものである。つまり、誰もが自分のことを指して〈私〉と言うことができるわけだけれど、逆に考えればこの語は誰にとっても自分自身を指し示すためにしか用いられないものだとも言える。たとえば〈彼〉という人称代名詞の場合には、ある場所に複数の人間がいたときその全員が別のところにいる同じひとりの人物を指し示すためにその語を使うことができるけれど、〈私〉という語の場合は、その語によって全員がそれぞれ別の人間を指し示すことしかできない。──もちろんそのとき示されるのは、各人それぞれ自身、である。
 ところでバンヴェニストは、〈私〉という人称代名詞は「発話行為」と不可分だということも言っているのだけれども、これは〈私〉という語が会話の中で言葉として発せられることによって初めて、この語の持つ「指し示し」という機能が成立する、ということを意味している。ということは、対面的な会話以外では、〈私〉という語が誰を指しているのか不明瞭になる可能性があるということなのだろうか?
 バンヴェニストの定義を、対面的会話以外の状況、たとえば小説においてもなお適用しようと試みるならば、小説内の「私」とは「小説内で〈私〉という語を継続的に主語として用いている語り手」のことを意味すると言い換えられると思う。このように言い換えれば、何も問題はないように見える。普通の一人称小説であれば。


 それでは、“ドリルホール・イン・マイ・ブレイン”の場合はどうなるだろう?
 この小説では、〈俺〉と〈僕〉のふたつの一人称代名詞が出てくる。この小説での「私」は〈俺〉なのか〈僕〉なのか。...いや、この言い方では既にいろいろ問題を含んでしまっている気がする。それでは、次のように考えるとどうだろう。「私」とは「〈私〉と発話する者」のことであるのだから、「〈俺〉と発話する者」は「俺」だし、「〈僕〉と発話する者」は〈僕〉である...と。このように整理してしまえば、ややこしい問題は生じないのかもしれない。たとえば、章ごとに異なる主人公が登場する群像小説であれば、複数の「私」たちが描かれているのだ、と考えてしまって何の問題もないように思える。
 しかし、“ドリルホール〜”では、小説内の同じ個所に複数の一人称代名詞が登場していて、そのふたつの代名詞〈俺〉と〈僕〉がどちらも同じ人物...というより、同じ身体を指し示している。このことが厄介な問題を引き起こしているのだ。〈俺〉と〈僕〉というふたつの一人称代名詞が並行して用いられているとき*4、その小説の「語り手」はいったいこのふたりのうちのどちらだと考えればよいのだろうか? (これは、「どちらが主人公なのか?」とか「どちらに焦点が当てられているのか?」という問題とは似て異なるものだと思う。)
 人称代名詞の機能としては、〈俺〉であろうと〈僕〉であろうと等しく同じであるはずだ。どちらも「語り手」が、作中人物のひとりが自分であることを示すための自己言及をおこなう指標である。だけどここでは、同じ機能を持つ人称代名詞が同時にふたつ登場している。ならば、ふたつの人称代名詞に優劣はなく、〈俺〉も〈僕〉もどちらも語り手なのだ、と考えるしかない。どちらの人称代名詞も、テクストを語る語り手と自己言及的関係を結んでいる。つまり、語り手がふたりの作中人物に分裂しているという事態が起こっている。

p198
というなんだか荒唐無稽な村木誠の状況をくだらない、馬鹿馬鹿しいと思いながらも俺は俺自身の記憶として俺のものにする。他人になりすますんじゃなくて、そのままその他人になるということは奇妙ながらも強烈な体験だ。記憶が全く等価な価値と鮮明さで二つ並ぶ。

p199
 こんなことは誰にも起こらない。役者が誰かの役を演じているときには、舞台の上でその登場人物に起こった出来事がそのままその役者の経験だ。しかし人物設定は単なる知識であって経験ではない。
p199
だから誰も、どのようにしても、自分以外の人間の経験を実体験することはできない。
 でもここに一つ例と方法があったわけだ。完璧な表現というものも存在するのだ。
p200
そして刺し込んだドライバーを適当にひねって上手くチャンネルを合わせて別の人物になる。その別の人物は、まあとりあえず俺の場合には調布在住の世界を救う少年村木誠だった。もちろん実在はしないだろう。俺はそれを知っている。

p265
僕と加藤秀昭は一時だけ交錯して、もう離れてきたのだ。僕と加藤秀昭は別の人格設定を持ってるんだ。そして全能なのはあくまでも村木誠、僕であって、加藤秀昭ではない。


 ある身体のなかに、〈僕〉=村木誠と、〈俺〉=加藤秀昭というふたつの登場人物がいる。彼らはそれぞれ異なる人格、相反する目的を持っている。物理的・生物的にどのような事態となっているのかはともかく、小説内では、語りの人称が交互に変わることによって、この身体のなかで人格が入れ替わっていくようなものとして描かれている。一人称の文の主語である人称が交替していくことは、身体を統括する権利をめぐる争いであると同時に、世界を語る権利をめぐる争いでもあるわけだ。



 さてジュネットは、「一人称小説」/「三人称小説」の区別を再整理したあとで、次のようにも語っている。

p289
これらのものよりはるかに著しい違反の例は、同じ作中人物を指示するのに、文法的人称が変る場合である。
p289
けれども、周知の通り現代の小説は、他の多くの限界と同様この限界をも乗り越えたのであって、語り手と作中人物(たち)との間に、可変的もしくは浮動的な一つの関係を、平然と打ちたてているのである。この関係こそ、「自我 (ペルソナリテ)」をめぐるより自由な論理とより複雑な観念にふさわしい、代名詞の眩暈を生み出すものにほかならない。この種の解放をもっとも推し進めた形式は、おそらく、もっとも感知しやすい形式となるわけではないだろう。なぜなら、そうした形式では、固有名詞や肉体的・精神的な「性格」といった「作中人物」の古典的属性は消失し、それとともに語り手と作中人物の文法的循環を示す目印もまた、消え去ってしまうからである。
“物語のディスクールISBN:4891761504

 つまり《固有名詞や肉体的・精神的な「性格」といった「作中人物」の古典的属性》を逸脱した事態を描くならば、《語り手と作中人物の文法的循環を示す目印》であるところの「人称」を攪乱すればよいというわけだ。
 ジュネットはこれに続いてボルヘスの“刀の形”という短編に触れているのだが、“刀の形”が《同じ作中人物を指示するのに、文法的人称が変る場合》にあたるのに対して、“ドリルホール〜”で生じていることは、強いて言うなら《同じ「語り手」を指示するのに、文法的人称が変る場合》という、さらに奇妙な事態である。これはもちろん、多数の人称代名詞を持つという日本語の特性によるところも大きいけれど*5、近代以降の小説がさまざまに繰り広げてきた人称をめぐる実験をより進めたひとつの結果だとも思う。


 この小説で描かれていること──村木誠と加藤秀昭が身体の主導権および世界を語る権利を争い続けること──、それは決して〈村木誠〉と〈加藤秀昭〉という三人称代名詞では語ることができず、〈俺〉と〈僕〉という一人称代名詞でしか語れない。そこに言語の持つ働きが示されている。
 つまり小説の中において、《ある人間とある人間が実は同じ人間だった》というような事態は、SF的なガジェットや、ファンタジーでの魔法的な仕掛けとかで実現されるものではない。そのような設定がいくらリアリティあったり緻密に組み立てられていようと関係なくて、あくまでも「語り」の持つ力によって理解させられること、言語の持つ力によってのみ成立することなのだ、と思う。






2.
[参考]
É・バンヴェニスト “一般言語学の諸問題” ISBN:4622019795


16章 代名詞の性質

p234
人称代名詞を他の代名詞から区別するために、何かの名称をつけて分離してみても、それだけでは十分ではない。人称代名詞をわたしあなたかれという三つの用語を含むものとする通常の定義そのものが、まさに《人称》の観念を破壊していることを知らねばならない。《人称》はただわたし/あなたにのみ固有のものであって、かれのなかには欠けているのである。
p239
 《三人称》は、実際には人称の相関関係の無標の成員を表わすものである。それゆえに、次のように断言してもわかり切ったことを言うことにはならない:つまり、非=人称は、話(わ)の現存のなかで、その現存自体に関係するのではなく、その現存の外にあるだれか、あるいはなにか──このだれか、あるいはなにかはいつでも、一つの客観的な指向を備えていることが可能である──の過程に術辞としてはたらくものにとっての唯一の可能な言表行為様式なのである。
 こうして、代名詞という形の上の類のなかで、《三人称》といわれるものは、その機能と性質から、わたしあなたとは完全に異なったものなのである

p235
一つの名詞の使用のそれぞれの場合は、潜在的なままでとどまるかあるいはある特定の対象において現働化されるかすることができ、しかもそれが呼びおこす表象においてつねに同一であり、恒常的かつ《客観的》なある観念を指向する。しかし、わたしの使用は、どの実例も指向の一つの類を構成しはしない。なぜならば、わたしとして定義することができ、それにこれらの用例を一定して送り返してよいような《対象》は存在しないからである。おのおののわたしはそれぞれに固有の指向をもち、そのつどわたしとして設定されるただひとりの存在者に対応するのである。

p235
わたしは、名詞的記号の場合のように対象の用語ではなく、《話し方 locution》の用語によってしか定義することができない。わたしは、《わたしを含むいまの話(わ)の現存を言表している人》を意味する

p236
わたしという形は、それが発せられる言行為のなかでなければ、いかなる言語としての存在ももってはいないのである。したがってこの過程には、現存が二重に結び合わされているわけである:すなわち、指向する者としてのわたしの現存と、指向される者としてのわたしを含む話(わ)の現存である。そこで定義は、次のようにすれば正確になる:すなわち、わたしは、《わたしという言語上の現存を含むいまの話(わ)の現存を言表する》である。

p238
この危険を防ぐために、ことばはただ一つの、しかし可動的な記号、わたしを設けたのであって、おのおのの話し手がそのつどただ自分自身の話(わ)の現存に関係するかぎりにおいて、それを自分のものとすることができるのである。それゆえ、この記号は、ことばの行使 exercise に結びつけられているわけであって、話し手を話し手として宣言するものなのである。


17章 ことばにおける主体性について

p244
 ことばにおいて、そしてことばによって、人間はみずからを主体 sujet として構成する。なぜならことばだけが、現実のなかに、それがすなわち存在の現実であるところのことばの現実のなかに、《我 ego》の概念をうち立てるものであるから。
 ここでわれわれが問題にする《主体性》とは、話し手がみずからを《主体》として設定する能力のことである。それは、各人が自分自身であることを感じるのではなく(この感じはせいぜいのところ反映であるにすぎない)、その身に集まる体験された経験の総体を超越して、意識の恒久性を保証する心的統一として定義される。ところでわれわれは思うのであるが、この《主体性》とは、それを現象学的にとらえるか心理学的にとらえるかは、どちらでもよいが、ただことばの基本的な一つの特質が存在のなかに現われ出たものにほかならない。《我》と言うものが《我》なのである。

p244
 自我の意識は、対比によってそれが体験されてはじめて可能となる。わたしがわたし[という語]を用いるのは、わたしがだれかに話しかけるときだけであり、そのだれかはわたしの話しかけのなかであなたとなる。この対話の条件こそまさに人称を構成するものなのである。

p246
 《木》という一つの概念があって、[という語]のあらゆる個々の用例はそこへ帰って来るのであるが、これと同じ意味では、あらゆる話し手の口から絶えず言表されるすべてのわたしを包括する《わたし》という概念は存在しない。《わたし》は、どんな語彙的実体を名ざすものでもない。

p246
一体わたしはなにを指向するのか? それはもっぱら言語的な、きわめて特異なあるものを指向する。わたしは、それが言表せられる各個人の話(わ)行為を指向し、あわせてその話し手をさし示すのである。

(下線部は訳書における表記であり、原書におけるイタリック体部分を示す。)








*1:この語り手は、必ずしも「作者」とは一致しない。むしろ、テクスト自体から遡行的に見出せるidealな存在と考えた方がいいだろう。
 

*2:語り手が自分の語る物語内容の中に登場しない場合が「異質物語世界の物語言説」と呼ばれ、これが従来言われている「三人称小説」に該当する。
 一方、語り手が自分の語る物語内容の中に作中人物として登場する場合は「等質物語世界の物語言説」と呼ばれる。「等質物語世界の物語言説」は、さらに、語り手が二次的な役割(観察者や証人)しか演じていない場合と、語り手が自分の物語言説の主人公である場合とに分けられる。このうちの後者が「自己物語世界的」と表されており、これが従来の「一人称小説」に相当する。
 

*3:パロール(話言葉)の言語学
 

*4:さすがに完全に同時に、というわけにはいかない。この小説でも、だいたい段落ごとに交互に人称が入れ替わっている程度の「ずれ」がある。
 

*5:英訳するときはどうするんだろう...。たぶん大文字I/小文字i、正体I(ローマン)/斜体I(イタリック)のような区別を付けるしかないと思うけど、これだとどちらかが従属的な・副次的な人称のように見えてしまう。日本語での〈俺〉〈僕〉のような対等な関係は保たれない。あるいは色で区別するのか? しかしそのときも、〈俺〉がどちらかというと粗野で〈僕〉がどちらかというと礼儀正しい・おとなしい、というような含意が抜け落ちてしまう。
 






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―Angela Mitchell