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 マレーヴィチ “無対象の世界”

無対象の世界 (バウハウス叢書)




“Die Gegenstandslose Welt”
 1927
 Kashimir Malewitch


シュプレマティズムを提唱したマレーヴィチバウハウスから出版した論文。
抽象芸術の極北とも言える“黒の正方形”がどのような考えのもとに描かれたのかが説明されている。
マレーヴィチは、写実的な絵画のような従来の芸術を、具象としての自然を単に模写したものとして斥け、芸術はそれ自体が自然から独立したものであるべきだと唱えた。“黒の正方形”のような極度に抽象的な絵画は、それが参照する具体的対象物を所与の自然の中に一切持っていない。すなわち「無対象」の絵画である。彼が自然の代わりに主題としたのは感覚そのものであって、抽象図形の構成がそのような純粋な感覚を表現し得ると考えた。
シュプレマティズムでは、美の絶対性を疑う視点は見られず、人間の「感覚」も自明のものとして扱われている。デュシャン以降の美術が常に自らを成立させるものへの懐疑を伴って展開してきたことを考えるならば、「近代」と「現代」を分かつ線がどこに引かれるかが見えてくるように思う。



“黒の正方形” カジミール・マレーヴィチ, 1913
 Black Square, Malewitch 1913 @Public domain




[まとめ]
・「付加的要素」:既存の規範(安定性・不変性)に変化をもたらす要素。
・芸術の絶対性
  具象の否定・模倣の否定・実用性の否定
  抽象性の追求
  純粋芸術。具体的な事物の模写ではなく、芸術·作品自体の内的なルールにより成る。
・意識・感覚の至高性
 潜在意識・超意識 フロイト構造主義とのリンク?)
・既存芸術:田園 / 新しい芸術:都市
・シュプレマティズム Suprematism:純粋な感覚の絶対性
  発生した環境からまったく自立した、それ自身としての感覚
  純粋な感覚の表現
バウハウスからの無理解
 バウハウス:機能主義 / マレーヴィチ:感覚絶対主義
 ただし、バウハウスとは教育活動の面で相通ずるものがあった。(ヴィーゼ)

cf. ロシア構成主義への接続





[ノート]

第一部 絵画の付加的要素の理論序説

キーターム「付加的要素」の説明
p10
私達に働きかけてくる環境の諸現象はそれぞれ(新たに加わる)付加的要素をかたちづくる。その要素は意識の要素と潜在意識の要素との間の通例の(正常な)関係に変化をもたらし、「専門家の反射運動」においては、ある新しい(非凡な)技法において、自然へのある独特な姿勢において、その斬新な解釈において、現われる。私達は新しい環境に耳を傾けるか、あるいはある不動の規範を打ち立てることによって、新しい環境に抗うしかないように追い込まれる。そのような反抗はそれぞれの職業や専門領域において一様ではないが、その現象形態は特徴的な発展段階に応じて整理される。このように設定された、規範化を促す反抗運動の諸カテゴリーは構造の関係上、ふたつに大別される─すなわち「自然な釣合 natural proportion」「不自然な釣合 unnatural proportion」である。
かくて、ある確固たる規範が逃れられぬものとして課せられた。この規範から逸脱するものはなんであれ、破壊的な(規範を破壊する)「生の要素 living element」として排除される。この排除された要素は今や私が付加的要素 additional elementと呼ぶものとなっている。それは成長して、既成の規範を発展させるなり、無化するなりして、新しい形態を創出するのである。*1

ロシア語版訳による同個所
p104
あらゆる反抗、そこから生まれるあらゆる行動は、それが展開するにつれさまざまなカテゴリーに分岐し、さまざまな特性において相互に関係づけられる。このような言動のカテゴリーは構造の点で「自然な」関係と「不自然な」関係に二分される。それゆえあらゆる言動がそれによって照らし出されるような、確固とした規範が設定されるのである。ところが、設定された諸関係の規範の境界から逸脱するものは規範に抵触する「生の要素」として取り除かれる。こうして除去された要素が、以前の規範を圧倒したり、変容させて、さらに自ら新しい事態を生みだして新しい形態を創出し、発展させる「付加的要素」なのである。

p14
この現象の原因はふたつの並存する芸術的(絵画的)な規範の対立にある。古い既存の規範は具体的な描写と自然に忠実な釣合から逸れたものはことごとく排除する。他方、新しい規範はもっぱら絵画的な価値連関の法則だけをよしとするのである。有機的な自然の釣合(たとえば人間の器官の形態や大きさの割合)は技術的な有用性の法則に基づくものであり、この有用性において正常なのである。これに対して、絵画の価値連関の法則は自然の釣合を無視する。

p16
自然とは人間の環境にほかならない。
p16
意識とは人間にとってその存在にかかわる至高の価値である。
p16
私達が自然と呼ぶものはすべからく、現実とは似ても似つかない、ひとつの幻=像でしかない。

p18
ある感覚から生まれる線の、二次元の、空間の現象についての芸術的(絵画的)な見解はこれらの現象の実用的な諸連関の合理的な認識には立脚しない。それは無対象かつ無意識なものであり、合理性の面から見ると、いわば「盲目的な統制のきかない規範」を構成するのである。

p19
付加的要素とはひとつの文化の兆候、絵画においては「直線」「曲線」の独特な用法によって表される兆候である。
セザンヌの絵画における付加的要素の作用は繊維状の「曲線」に認められるのだが、立体主義の鎌形の付加的要素ないしシュプレマティズムの「直線」の作用とは根本的に異なる芸術家の姿勢をもたらす。

p29
発明の活動(新しいものの創造)  :進歩的活動
組合せの活動(現に在るものの創造):進歩的活動
複製の活動(現に在るものの模倣) :反動的活動

p34
こうして独創的な創造にふたつのカテゴリー、芸術的 ─ 美的なカテゴリー(芸術家の領域)、そして生産的─技術的なカテゴリー(技術者、科学者の領域)の別がたてられる。
芸術的─美的な創造は絶対にして不朽の価値に結実する。一方、科学的─(生産的─技術的)な創造は総体的で、脆い価値になる。

p37
それが普及しないうちは、つまりその主観的な特質が社会から認知され、客観的な平常性に「止揚」されないかぎりは、新しい芸術はつねに主観的な性格を帯びる。理解不能で不調和に映るのである。
p37
いかなる芸術作品も─いかなる絵も─いわば主観的な気分の再現である─ 主観的なもの(脳)のプリズムを通してみられた現象の描写である。
それで一点の絵において形式的な価値連関、色彩の調和、そしてファクトゥーラの特質の点で、作家の創造的な動作の展開および動機となる情緒は予想される意図、活用された手段、そして実践された表現の分析的な比較対照によって把握することができるということが十分に考えられるのである。

p44
このようにして、たとえば特徴的な要素、すなわち印象主義表現主義セザンヌ主義、立体主義、構成主義、未来主義、そしてシュプレマティズムの要素が確定され、諸関連の表がかたちづくられよう。その表においては直線と曲線の展開のシステム全体、形態と色彩の構造の法則(これらの構造とさまざまな時代の社会生活の諸現象との関連とともに)、なんらかの「芸術文化」の特徴、ファクトゥーラや構造などの特質が明らかになるはずである。

p48〜p57
ここでマレーヴィチは、{意識的、理論的な創造 / 無意識的、直観的な造形} という分類における前者の優位性を学生たちを通じた「実験」の結果として示しているが..... 恣意的な誘導にも思えてしまい、少し疑わしさを感じる。

p59
シュプレマティズムの付加的要素を、私は「シュプレマティズムの直線」(ダイナミックな性格)と呼ぶ。この新しい文化に適する環境とは、技術、とりわけ飛行術の最新の成果によってもたらされた。したがってシュプレマティズムを「航空学的」とも呼ぶことが可能である。シュプレマティズムの文化は二つの現象形態において現われよう。より正確には、平面の動的なシュプレマティズムにおいて(「シュプレマティズムの直線」の付加的要素とともに)、あるいは空間における静的なシュプレマティズム─抽象的建築─において(「シュプレマティズムの正方形」の付加的要素とともに)。


第二部 シュプレマティズム

p65
私はシュプレマティズムを造形芸術における純粋な感覚の絶対性と理解している。
シュプレマティストの視点からみると、対象的な自然の諸現象はそれ自身において無意味なのである。本質的なのは感覚である─発生した環境からまったく自立した、それ自身としての感覚である。
意識における感覚のいわゆる「具現」とは、結局、ある現実的な表象による感覚の反射の具現のことである。そうした現実的な表象はシュプレマティズムの芸術においては無価値である...いやシュプレマティズムの芸術だけでなくて、芸術一般においてもそうである、なぜなら芸術作品の不朽にして真実の価値とは(それがいかなる「流派」に属そうと)表出された感覚以外にはないからである。
p65
それゆえシュプレマティストにとって妥当な表現とはつねにそれ自体としての感覚を最大限に表出しつつ、ありふれた対象性を無視するものである。
対象的なものはそれ自体シュプレマティストには無意味であり─意識の表象は無価値なのだ。

p65
芸術は感覚以外なにひとつみとめられない「砂漠」に逢着する。
p66
私が1913年に芸術を対象的なもののバラストから解き放とうと死にものぐるいの努力で、正方形のかたちに活路を求め、白い地に黒い正方形しか描かれていない作品を発表したとき、批評家も、彼と一緒になって世間も嘆息まじりにこういったものだ ─「私達が愛情を注いできたものすべてが失われてしまった。私達は砂漠にいる...眼前にあるのは白い地の上の黒い正方形だけだ!」と。
p66
砂漠の外に、いかなる「現実の似姿」も、いかなる観念の表象も存在しないのだ! だが、この砂漠はすべてに浸透する無対象の感覚の精神によって満たされている。

p72
人間の内部で喚起される諸感覚は人間それ自身よりも強固である...諸感覚はなんとしてもその外部へ出なくてはならず─形を成さねばならず─伝達されるか収納されなくてはならない。
それは速度の感覚...飛行の感覚...以外のなにものでもない...─それはひとつの形状[ゲシュタルト]─ひとつの形態[フォルム]─を追い求めることにより、飛行機を生みだした。なぜなら飛行機というものはなにも商用書簡をベルリンからモスクワまで運ぶために製造されたものではなく、形を成す「速度」の感覚の抗いがたい衝動に従うためにあるのだ。

p74
白い地の上の黒い正方形は無対象の感覚の最初の表現形式であった。正方形とは感覚、そして白い地とはその感覚の外側にある「無」である
p74
シュプレマティズムの正方形そしてこの正方形から生じる諸形態は原始人の素朴な線条(しるし)になぞられることができる。それらの線条は組み合わされて、装飾ではなくリズムの感覚を表現している。

p76
新しい無対象の(「無用の」)芸術と旧来の芸術との相違とは、後者の非の打ちどころのない芸術的な価値というものが、生活が新しい実用性を求めるうちにそれを失ってみてはじめて姿をあらわす(認められる)のに対して、前者の非実用的な芸術的要素は生を追い抜き、「実際的適用」に扉を閉ざすところにある。
それゆえ新しい無対象芸術は純粋な感覚の表現としてある。いかなる実際的価値も、いかなる理念も、いかなる「約束の地」も求めていないのである。


バウハウス叢書の序文
ふたつの立脚点── カジミール・マレーヴィチバウハウス
 シュテフォン・フォン・ヴィーゼ

p143
理性的であると同時に超理性的な芸術言語の根源的記号としての正方形は、カジミール・マレーヴィチの作品とバウハウスにおける芸術的生産を結びつける明白な要素である。極論すると、バウハウスの教育全体がマレーヴィチに立脚したといえる。
もっとも、このような主張は部分的にしか当たっていない。マレーヴィチバウハウスの間で正方形は言葉ではほとんど定義できないような質的な変容を遂げてしまっている。

p145
エルンスト・カーライはこのとき、たとえばマレーヴィチの建築模型を「ロマンティックな建築的夢想」ときめつけた ─「その建築的な実用性がみせかけであると判断してもほとんど差し支えないだろう」。この非機能性こそ作品の本質をなすということはほとんど見過ごされ、評価されなかった。









*1:英語部分のみ、英訳 “The Non-Objective World: The Manifesto of Suprematism” ISBN:0486429741 から付記した。
      cf. http://books.google.com/books?id=6fzmfPCBAEcC&printsec=frontcover






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell