::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 “けいおん!”








けいおん!」最終回(第12話)の感想
  (今週放送された番外編もあったのだけど、それは後日談でもなく本当にただ独立した番外編という感じだったので、第12話「軽音!」が名実共に最終回でした。)


 けいおん!は、おそらく最近もっとも話題になっていたアニメのはずで、自分もわりと楽しんで見てはいたのだけど、それでも、11話と12話がなければ、たぶん感想を書いておこうなんていう気にまではならなかったと思う。
 簡単に言うと女子高の軽音楽部の日常を描くアニメで、ゆるさだとかぐだぐだ感が特徴であり魅力となっている。
 でも、最終話直前の第11話でかなりシビアなムードへの振幅を見せられたことで、良い意味でのその意外性にまず引き込まれ、次の最終話がまた、全体にあったはずのゆるいテイストを大きくはみ出たきれいな最後を迎えていて、不覚にも、ストレートなすがすがしさをめいっぱい感じることになってしまった。

 ということなので感想を書いておきたいと思う境地にまでなったのだけど、その前に、この文章は誰かにこのアニメを勧めたいと思って書いているつもりはそんなにないです、ということを一応記しておこう。なぜかというと、これを見ておもしろいと思うような人は、勧める前に既に自分で見つけてとっくに見てるはずだと思うし、今まだこのアニメをぜんぜん知らないような人は、今から見てもおもしろいと思うタイプの人ではない気がするので...。
 それでもこうして感想を書いているのは、書かずにはいられないからです。


(以下ネタバレ込み長文)



1. 描写について
  リアリズム、キャラクター、演奏

 さて、それではなぜ最終話がそんなに良かったのかと言うと。
 その話に入る前に、ふつうであれば最終話に至るまでの経緯なりプロットなりがあって、それを説明しておかなければならないところなのだろうけれど、けいおん!の場合、そういうものは特にない。まあ最初の年の学祭とか新入生入部みたいにイベントらしいイベントもなくはなかったけど、それらだって物語としてそんなに劇的なものであったわけではない。おおまかに言えば、軽音部のだらだらとした日常を、入学から一年と半年ほど描き、二年生の学祭のライブで最終回になる、と、それだけのアニメだと言い切ってもいいかもしれない。

 で、この日常のまったり具合というのが半端なくて、軽音部なりバンドなりのリアリティというものをかなり犠牲にしてまで、ゆるさが優先されている。
 といってもじゃあこのアニメにリアリティがぜんぜんないかっていうとそうではなく、むしろある面に関しては異常な程にリアリズムが追求されていたりもする。たとえば実在の場所や小物を必要以上に細かくこだわって描いていたり。あるいは各キャラクターについても、一見、狙いすぎというかテンプレ的、っていうキャラもいなくはないけど、それでもそんな表面上の属性にとどまらない面が垣間見えることも多々あって、キャラクター描写が混乱してるためでもなくあきらかに意図をもって多面的に掘り下げられている。各個人の性格や人間関係については、かろうじて作品の雰囲気を維持できるかどうかという微妙な振れが瞬間的なものとして散りばめられてもいて、決して、単に萌えキャラ出しときゃいいんだろ?的な描き方はされてないと思う。
 その振れが限界を超えてしまったのが第11話で、のんびり居心地の良かったはずの世界が、ほんとにちょっとしたきっかけで重く冷たいものに一変してしまう様子は、なかなか突き刺さってくるものがあった。結果として関係は元通りになるのだけども、現実にはああやってすれ違ったまま冷えてしまうこともあり得るな...というのもひしひしと感じさせる。主人公でありムードメイカーでもあるはずの唯がまったく為すすべなかったというのがなんともリアルだ。第11話に至るまでずっと、こんなに容赦ない危機に展開するなんて微塵も感じさせない平和な雰囲気に徹していただけに、その落差は大きく、リアリズムを直球で標榜する種類の映画とかよりもはるかにインパクトがあったかもしれない。のんびりだとかまったりだとか言ってても、実際にはそれはきわめて繊細なバランスの上に成立しているものであるわけで、しかしそのような構図を、もしかしたらただのゆるい日常劇のままで終わっていてもよかったはずのアニメが示してしまうということにも、けいおん!の良さのひとつはあると思う。
 ところが、そのように表面的なイメージの下でかなり緻密な描写と計算をおこなっているこのアニメが、ことバンド活動という観点になると...... 練習風景はあまりないし、音楽の話もほとんどないし、やっぱり女子高生のゆるい日常を描くことがメインであって、音楽とかバンドは単なる背景のひとつにすぎないのかな... と最終話までは思わされてしまっていた。
 でも、最終話は。
 素直にバンドの楽しさというものが全面に描かれていて、たぶんそこに心が動かされたのだと思う。


 最終回がどういう話かあらためて説明すると、主人公たちが二年生になってからの学祭で初めて一年生を加えてライブをするのだけど、ボーカル/リードギターを担当する主人公が直前までカゼをひいていて出られるかどうかわからず、ライブ当日もギターを忘れて演奏に間に合わない、みたいな話。こうやって書くと、いかにもよくあるプロットそのものという感じだ。〈メンバー欠如の危機〉とか〈楽器を忘れる〉っていうのは学祭ライブ/バンドが出てくるストーリーには欠かせない要素なのかな...。「リンダリンダリンダ」もそうだった。
 この回の最大の特徴は、ライブでの演奏シーンがきちんと描かれていること。それまでにも何回かライブはやっていて、楽器を弾いているシーンもあることはあったのだけど、どうもフルで描写されることはなく、すぐに演奏とは別の映像に変わってしまうことが多かった。
 ところがこの最終話では、ほぼ初めてと言っていいぐらいに、演奏自体に焦点が当てられていると感じた。そのことがよく現れているのは、唯や澪の歌唱描写だ。たぶんプレスコかもって思うのだけど、音と口はシンクロしてるし、かなりクローズアップして細かく口の動きを描いている。また、汗をかきながら演奏している姿も際立たされている。そして「ふわふわタイム」が一回終わってから、キーボードの紬から始まりひとりずつ加わって再開していくところもとても良かった...。
 直接的な演奏描写もさることながら、これまでのエピソードとの対比によるライブの充実具合の強調もまた見事で、とくに第1話とのはっきりとした対比には、ほんとうにあたたかな気持ちになった。
 というのは、主人公である唯は、中学では何も部活をやっていなくて放課後や休みの日は家でごろごろしてるだけの女の子だったのだけど、高校に入って、何か新しいこと始めたい、と思ってなんとなく軽音部に入ってみた... という経緯があって、その「何もやりたいこと思いつかないけどなんか始めてみたい」という漠然とした希望が象徴的に示されているのが、第1話の登校シーンだった。そしてこの最終話では、唯が忘れたギターを家に取りに帰ってから第1話と同じように学校まで走ることになり、第1話とのオーバーラップで、あのとき求めていた充実を手に入れたことがうまく表現されている。第1話での、パンをくわえて外に飛び出したり、あわてて転びそうになったりするところが、最初見たときはベタだな... って思ったものが、まさかことごとく最終話での対比のために使われるとは。寄り道しまくりだったあのときと違って、もう脇目もふらないし、走り方だって、いかにもアニメの女の子的な走りではなく、本気の走りとして丁寧に描かれている。
 「ふでペン 〜ボールペン〜」が始まってから「ふわふわタイム」で終わる最後までは、純粋な青春ものとして非の打ち所なかったと思う。唯が「ここがわたしたちにとっての武道館です!」って言うクライマックスも、とても納得できた。*1


2. 一度だけの出来事

 このけいおん!最終話を見て、バンドの楽しさというものがどこから来るのかっていうのを、あらためて考えてみた。
 まず思うのは、バンドをやりたいっていうことは、ライブをやりたいっていうことと同じなんじゃないかな、っていうこと。曲づくりを活動のメインに置くケースだってあるからそう一概には言えないかもしれないけども...。でも自分の場合は、むかしアマチュアでバンドやってたときのことを思い返すと、練習風景よりもやっぱりライブのことの方が先に頭に甦る。俺にとってはバンドの楽しさっていうのはライブの楽しさに他ならなかったんだけど、ではライブの何が良いのかっていうとそれは、ライブというものが一回性の出来事であるということにある、って思う。

 世の中には、その行為の実行中に一度でも踏み外したら取り返しがつかなくなる種類のものとそうではないもののふたつがある。後者はたとえば小説を書くことだったり、プログラムのコードを組むことだったり、建物を設計することだったりするだろう。それらは推敲だとかエスキースを繰り返してより良い状態へ近付けることができるものであり、長い時間をかけて、気の遠くなるような前進と修正の積み重ねで完成させるタイプの活動だ。
 これに対して、音楽の演奏だったりスポーツの試合だったりというのは、ミスしたからといって、もう一回やり直す、ということが原則としてできない*2。小説やプログラミングや建築設計だって、行為そのものはそのたびに一度きりの出来事ではあるわけだけれど(それを言うなら人生それ自体が一回性のものだろうし)、それらのプロセスの真っ只中においては、時間が過ぎゆくこと自体を厳密に意識しなくてもいい──もちろん締切なり期限なりはあるにしても、スポーツや音楽演奏のように1秒どころかコンマ何秒かを無為に過ごしてしまうだけで大失敗につながりかねないものとは根本的に違う。

 ところで、音楽の演奏というのは、インプロビゼーションのような例外を除けば基本的には「曲」という下地があって、つまり反復可能な側面もあるという点でスポーツとも異なっていたりする。スポーツの試合は、まったく同じ展開で進むものなんてない。ルールは当然いつだって同じだし、メンバーや対戦相手が同じ組み合わせということもあったりするだろうけど、それでも、試合運びが完全に同一なんてことはあり得ない。だけど音楽の演奏の場合は、同じ曲を演奏するということはよくあることだ。というかライブにおいて毎回必ず違った曲しか演奏しないなんてことの方がありそうもないことだろう。
 けれど、反復可能な演目を再現しているといってもだからといってその演奏が毎回同じものでしかないかというと、もちろんそうではない。プロのミュージシャンが長いツアーのなかで何度も演じる定番の曲だとか、あるいはアマチュアのバンドが三日間続く文化祭で演奏する同じ曲だとかは、楽器や演奏者の調子、観客の反応によって、テンポやら音のバランスなどの諸々の総合の結果、全然違う雰囲気の曲になってしまう。*3
 曲という「筋書き」があるからこそ、ステージで再現されたときにその筋書きに還元しきれない微妙な差異が、忘れられない出来事として刻まれるのだと思う。
 たとえば、けいおん!の例で言うなら、一年の学祭でも二年の学祭でも同じ「ふわふわタイム」を演奏しているわけだけど、ふたつはとても違ったものとなっている。一年のときは澪が緊張しつつもリードボーカルを取ってて、コーラスの唯の声は枯れていたし、二年のときは梓のギターも加わって音が厚くなり、終わったあとにもう一回サビを演奏することになったり、と、同じ曲なんだけど、あのときはああだったな...と本人たちがいつまでもはっきりと思い出せるであろう違いが残っている。
 曲の演奏と言ったって、もし練習中だったらそれこそうんざりするほど何度も同じ曲を演奏するわけだから、もう一回性の出来事というよりはむしろ反復可能な繰り返しにすぎないと思うし、そこではライブでのような充実は得られない、と思う。
 やはりステージの上という〈場所〉と、演奏する〈時間〉というものとを与えられて、一度きりで取り返しの効かないその瞬間だけの出来事としてライブをおこなうことが重要なのだ。だからこそパフォーマンスが終わったときには、かけがえのないこととして記憶される。たとえ同じ曲をいつかまたライブでやったとしても、それは同じ演奏にはならないのだから。


3. 迷いごと

 ここで先ほどの「長い過程をかけ修正が効くもの」と「一度きりで取り返しの効かないもの」という話に戻ると、自分の場合は....とくに今現在の自分は、「長い過程をかけ修正が効くもの」にのみ目を向けていると思う。そしてそれは、未だ完成もせずその見込みもないような漠然とした段階のものばかり... という意味においては、〈未来〉に属する事柄だ。またそのために〈現在〉を充実させることをどうも疎かにしてしまっている節がなくもない。加えて、けいおん!を見て思い出すまで自分がバンドでライブをやったようなこともほぼ忘れてしまっていたことを踏まえれば、〈過去〉も同様に軽視されている。
 つまり〈未来〉しか見ていない。そう言うと何か良く聞こえてしまうけれど、でも、ライブのかけがえのなさというのが〈現在〉を最大限に楽しむことの究極のようなものであって、そしてそうであるがためにかがやかしい思い出として〈過去〉に残っていくものであるとするならば、〈未来〉しか見えなくなってしまっているのはそれはバランスよくないことかも、とちょっと思った。
〈過去〉における大切な出来事を折に触れて思い返すことも、そしてそのようなストックを増やしていくためにいつだって〈現在〉をより良いものにしていこうと試みることも、たぶん重要なことなのかもしれない。


4. その他メモ

 「ふわふわタイム」とか「ふでペン 〜ボールペン〜」はけっこう良い曲だと思った... なんかバンドっぽくて。オープニングやエンディングの曲はちょっとプロっぽいというかなんかアニメっぽいなって思うんだけど、劇中の曲はどれも、ちゃんと適度にアマチュアらしさがある。歌詞も含めて*4
 というのと、最終話の学祭シーンを見て、そういえば自分が学祭でやったテープをものすごくひさしぶりに聞いてみようかなと思ってもみたんだけど、ここでおそろしい事実に気付いてしまう。テープ自体は実家にあるはずなのだけど、よく考えたら自分の家にも実家にももうこれを再生できる機材なんてないよ? そりゃまあこの世のどこかにはテープを再生できる機材はあるだろうけど、現実的な労力を考えるとたぶんすごく面倒で、もう実際に聴くことなんてないかもな....。










*1:ゼロ年代論評の文脈で言うところの〈小さな成熟〉って、こういうことなのかな... って思ったりした。

*2:演奏の出だしをまちがえる程度であれば照れ笑いとともにやり直すことはできるだろうけれども、中盤以降にたとえば楽器が音を出さなくなったりしたら、もう破綻するしかない。

*3:この意味で言えばおそらく演劇というものにも同じことが言えるのかもしれない。

*4:澪作詞という設定のこの歌詞は絶妙に初々しくも/痛い感じで、なんか俺がむかし書いた黒歴史的な歌詞のことをはからずも思い起こされてしまった。






music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell