“I Hired a Contract Killer”
Director : Aki Kaurismäki
Finland/UK/Germany/Sweden/France co-production, 1990
1.
1990年の作品。
舞台はフィンランドではなくロンドンで、話される言葉も英語なので、少しだけ他のカウリスマキ作品と雰囲気が違う。
といっても違うのは言葉ぐらい。猥雑な下町や工業都市的な光景に焦点を当てているかぎり、ロンドンもヘルシンキも街並としてはそれほど変わるものではない。
主人公はフランスからの移民で、職を解雇されて絶望し、自分を殺してもらうための殺し屋を雇うのだが、その直後にある女性と出会って……というようなストーリー。基本的には喜劇仕立てとなっている。
主人公の境遇や顛末はカウリスマキ映画の普段通りのつくりに沿っているけれど、ひとつ特筆すべきなのは、当初は匿名的だった殺し屋が次第に多く描写されるようになり、三番目の登場人物としての存在感を増していくこと。
実際のところ、この映画はむしろ殺し屋の視点で観た方が哀愁が深くなるような気もする。離婚したと思しき妻のもとにいる娘が世話をしにやって来たときのやり取りと、その後の運命などは特に。光と影、というほどでもないけれど主人公と対置を成している。このように、異なる二者を相補的な対として描くというのはこの監督の他の作品ではあまりなかったように思う。
2.
カウリスマキは映画を台詞で表現するタイプの監督ではないのだけど、この作品にはひとつ象徴的な台詞がある。
それは、“The working class has no fatherland.(労働者階級に故国なんてない)” という台詞だ。
このフレーズはマルクスのコミュニスト・マニフェストからの引用ではあるけれど、この映画の文脈では、「だから革命を起こすんだ!」というような意味ではなくて、「どこに行ったって、みじめな奴はみじめに生きるしかないんだ」という諦めに似たニュアンスとして聞こえる。これはカウリスマキの基本的な社会観としてあると思う。
彼の映画は、負け犬的な境遇の者たちがその底辺生活のなかで少しばかりの幸せを手に入れるという構成のものが多いのだけど、葛藤理論的なシニカルな見方をするなら、これは格差を肯定し固定化する機能として働くものと言えなくもない。つまり、貧困層は身の丈にあった幸せを得て我慢していろ、という暗黙の抑圧として。
ただ、そのような側面を安易に捨て去って語るべきではないにしても、カウリスマキの視線はそれとはまた別な点にも向けられていると思う。たとえばこの作品や “街のあかり” でのような、楽しげな同僚たちに溶け込めない主人公の描写は、経済問題というよりも個人のコミュニケーション資質を示しているからだ。ヘルシンキであろうとロンドンであろうと映画の描かれ方がまったく変わらないことは、こうした者たちにとっての “no fatherland” という現実を如実に表していると思える。つまり、人間が人間であるかぎり、世界のどこにいっても問題は同じなわけだ。
そして「わたしたちに故国なんてない」というこのフレーズは、その後の展開も併せて考えれば、「故国なんてなくてもいい」という意味で捉えることも可能だろう。これに続く隠された含意ははっきりしている。「あなたさえいれば」だ。
3.
その他にこの作品の見どころとしては、ジョー・ストラマーが、パブにおけるわりとたっぷりした演奏シーンで出演しているところ。
サッチャー時代のイギリス、職を追われたフランス移民、ロンドンの吹き溜まり、ジョー・ストラマー。
良い組み合わせだと思う。