::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

 [ABOUT LJU]
 [music log INDEX] 
 

 大森望 編 “時間SF傑作選 ここがウィネトカなら、きみはジュディ”


「時間SF」の短編を集めたアンソロジー。
未来や過去への時間跳躍だけでなく、時間凍結や時間ループなど、いろいろなタイプのものが取りそろえられている。
たとえば、「リプレイ」で有名になった時間ループものだけでも、ループの仕方の違いで4作品のバリエーションが収められていたりする。
初出された時代も色とりどり。60年前に出された作品もあれば、テッド・チャンの2007年作品もある。

各作品の冒頭に書かれた簡単な説明や作者紹介のところに、その作品に似たアイデアのSF小説もいくつか一緒に紹介されている。
「時間SF」と限ったなかだけでもこれだけ多様なアイデアの数々があって、さらにそれに先行したり後続したりする作品があるのを見ていると、突飛で奇抜なアイデアに思えても、既に多くの人たちにさまざまに試みられてきているものだということがよくわかる。
そう考えると、SFというのもアートやデザインや広告など同じように、常に「今までにない新しいアイデア」を競ってきた世界なのだな、とあらためて思う。
ただし今では、必ずしもアイデアに重きを置いたSFばかりではなくなっているような気もしなくはないのだけども。



収録作および編者による構成は以下の通り。

時間ロマンス篇
 “商人と錬金術師の門” テッド・チャン
 “限りなき夏” クリストファー・プリースト
 “彼らの生涯の最愛の時” イアン・ワトスン&ロベルト・クアリア
 “去りにし日々の光” ボブ・ショウ
奇想篇
 “時の鳥” ジョージ・アレック・エフィンジャー
 “世界の終わりを見にいったとき” ロバート・シルヴァーバーグ
 “昨日は月曜日だった” シオドア・スタージョン
 “旅人の憩い” デイヴィッド・I・マッスン
時間ループ篇
 “いまひとたびの” H・ビーム・パイパー
 “12:01PM” リチャード・A・ルボフ
 “しばし天の祝福より遠ざかり……” ソムトウ・スチャリトクル
 “夕方、はやく” イアン・ワトスン
エピローグ
 “ここがウィネトカなら、きみはジュディ” F・M・バズビイ


[メモ]


商人と錬金術師の門
 〈門〉の描写が臨場感あってよかった。


去りにし日々の光
 スロー・ガラスのアイデアがおもしろかった。
 微小な光学的螺旋径路を内部組成として持つために、光子が通過するのに膨大な時間がかかってしまうガラス。
 たとえば半日分の「時間的厚み」を持つスロー・ガラスの場合、昼間に差し込んだ光が、夜になると反対側へ透過する。ということは、これを窓にかけておけば、夜の部屋でも昼の光景を楽しむことができるわけだ。
 いろいろな応用が利きそう。そして実際、このアイデアをもとにしたSFは、同じ作者や別の作者によってさらに発展させて書かれたものがあるらしい。


昨日は月曜日だった
 ラッセルによる「世界五分前創造仮説」の変奏ともいえるような話。SFとしては細かく突っ込めそうなところがいろいろあったりするけれど、どちらかというと喜劇というか寓話的なものとして捉えた方がいいかもしれない。
 骨子は、「演者」「舞台」「裏方」という関係。「裏方」は神や天使たちで、「演者」は人間たち、そしてこの劇こそは現実に他ならない、という図式。


旅人の憩い
 いずことも知れぬ世界、正体のはっきりしない敵と絶え間なく戦っている人類。民間人が住まう非戦闘区域は、「時間集速」によって前線よりも高密度に時間が経過するようになっている。つまり前線での数十分が、非戦闘区域での数十年に相当する。この時間進行の違いは二種類だけでなく連続的なものであって、前線から解任されて非戦闘区域へ向かう際に、だんだんと時間の進み方が変わっていく。さらには社会形態や言語すらもそれぞれの時間密度に合わせて変化する。決して長くはないページ数のなかで、こうした時間傾斜に伴う変化が淀みなく描写されている。
 これはすごくおもしろかった。短編だからこそ可能なスピーディで無駄のない小説。


夕方、はやく
 これはけっこう不思議……というか何が生じているかすら理解し難いけど、おそらく電話で語られた説が真相に近いのだと思う。だから新生児が生まれるたびに、人類はさらに退化していく。
 ラストはかなり印象的。自我の獲得を語るSFはいろいろあると思うんだけど、この作品の場合はその真逆。そしてそれは死というわけでもない。死によらない「自我の消失」を語るためにこのアイデアを持ってきたような気がする。


ここがウィネトカなら、きみはジュディ
 時間シャッフルタイプ。と簡単に言うけど、深く考えだすといろいろ難しいし、トリッキー。思考を誘発する。
 以下、雑多な覚書。
・記憶の問題

 意識が時間を飛ぶ。──といっても、実際は記憶も引き連れて跳躍しているのがポイント。
 記憶を引き連れて跳躍しなければ、自分が時間を跳躍したということそのものが認識されないはずだ。
 しかし記憶というものは、神経系という物理的基盤に依拠している。
 跳躍によって記憶が移行するということは、跳躍先の肉体に物理的な書き換えが生じるということ。
 この因果関係は、どう説明付くのか?

 そもそも思考能力というものだって、記憶と同様、物理的身体と無縁ではないわけだけど(たとえば幼児と成人とでは、ニューロンの数もその分岐も違う。)、百歩譲って、思考能力の基盤については身体全般と同じ因果経路をたどるものとしよう。跳躍するのはあくまでも体験の「座」および記憶だけであって、それ以外のものはすべて跳躍ごとに変わるのだと。また、この跳躍体験を認識している視座……すなわち〈意識〉あるいは〈自我〉というものも、ハードプロブレム的に考えてひとまず物理的身体から独立したものと整理しておく。
 だとしてもやはり、身体と分離して記憶が跳躍するとき、その基盤は何なのか、という点だけは問題として残らざるを得ない。


・自分が体験していない〈自分〉

 まだ一度も訪れたことのない時期の〈自分〉とは、哲学的ゾンビのようなものと言えるだろうか?

 ラリイの身体の因果関係は、客観世界の時間進行に沿っている。
 一方で、ラリイの意識の因果関係はそれらとは別個の時間進行に従っている。
 ラリイにとっては、自分と身体を共有していながら、意識が連続していない時期の身体が存在する。その時期の自分は、同じ自分だけど意識が体験していないという意味で哲学的ゾンビに相当するだろうか。
 けれども、純粋に「同じ自分」と言えるのかどうか? 少なくとも記憶が違う。そして記憶が違うということは、記憶を司る神経系の物理的状態が違うということになる。自己の同一性を何に対して求めるべきか。ここで独我論的自我を持ち出したいところだが……しかしこの小説においては、むしろ記憶の跳躍こそが鍵である気がする。
 また、「客観世界」という言葉を安易に用いていいものかどうかも迷うところだ。
 より重要なこととして、自分が体験していない時期の自分(跳躍の主体である自分にとっての固有時間上での「未来」に当たる自分)が、跳躍現象に関したメモを残しているという事実もある。


・始まりと終わり

 ラリイは自分の死の瞬間を既に経験している。つまり死の瞬間を体験した記憶が、次の跳躍先へ引き継がれている。→やはり記憶の問題。

 死が経験されているということは、意識の終わりはどこに来るのか? すべての時間軸を経験し切ったときが、意識にとっての終末なのか?
 すなわち、身体の死と意識の死が同一ではない。
 だが身体の始まりと意識の始まりは同一のようだ。


・未来(あるいは過去?)の修正

 途中で「未来(客観世界の時間軸上での未来)」が変わり始める。
 これはどういうことなのか。
 →因果関係の問題。および、「現実」とは何か、という問題。
 自分がまだ体験していなかった時期は、現実ではなかった、ということになるのか? あるいはパラレルワールドになるのか?
 「未来(跳躍主体の固有時間上での未来)」の自分が残したメモによって「現在」の自分の行動が影響されているのだから、そこには因果関係がある。いったいふたつの時間軸の間ではどのように因果関係が絡み合っているのだろうか?













music log INDEX ::

A - B - C - D - E - F - G - H - I - J - K - L - M - N - O - P - Q - R - S - T - U - V - W - X - Y - Z - # - V.A.
“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell