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 清塚邦彦 “フィクションの哲学”






フィクションの哲学

フィクションの哲学





フィクションとは何か。
いったいどのような定義がもっとも有効なものなのか。
そうした問いに対して、分析哲学の観点から考察している本。
キーポイント:
 ・フィクションの定義:作者と語り手の遊離
 ・文学フィクションだけでなく、視覚的フィクション(演劇、絵画、映画、彫刻 etc)を含む包括的フィクション概念への拡張を目指す

結語によれば本書が試みているのは、フィクション概念に関する唯一正しい記述をめざすのではなく、できるかぎり見通しのよい展望を与えてくれるようなフィクション概念を再構成することであり、その課題は《物語的な文学作品の一定の部分集合を典型事例としながら(第一章〜第四章)、非言語的な作品にも拡大適用されうるような拡張性(第五章〜第七章)をそなえたフィクション概念》の解明として設定されている。

 

[メモ]

 自分が小説を読むというのがどのような体験なのかを考えると、だいたいのところそれは、キャラクターへ感情移入するというあり方でおこなわれているような気がするんだけど、文学理論のなかでは今までそういう側面が語られているのを見たことがなかった。それらのほとんどは、テクストの構造分析だとか、作者や読者の機能分析、あるいは作品を取り巻く社会的文脈の分析、といった観点のものだ。読者というものに焦点が当てられていたとしても、それはテクストの解釈をおこなう抽象的な立場としてであって、体験それ自体について整理するものではない。
 けれども、この本が援用しているウォルトンの「ごっこ遊び理論」は、自分が普段おこなっているような“素朴な”読み方についても明解に説明付けることができる。ごっこ遊び理論によれば、フィクションを読むという体験は、作品世界を想像するという行為に他ならない。つまり一定の事柄を真として成立させるような行為だと整理される。
 それだけにとどまらず、この考え方は文字として書かれたフィクションではない演劇や絵画といった視覚的フィクションにもそのまま拡張して適用することも可能だ。

 常日頃、“そこに空間があるだけで成立するようなフィクション” といったものがどのように可能かをつらつらと考え続けているのだけれども*1、この本で展開される理論もそのひとつの手がかりになるはず。



[ノート]
 

全体構成



 第一章第四章 ···フィクションの典型事例(文学ジャンル)に対する考察
  作品がフィクションであることの証としてどのような特徴が見出されるのか
   第一章・第二章:フィクション作品それ自体がもつ特徴:
    独特の語彙や語法:統語論的特徴 →第一章統語論 文学理論家 / 分析哲学
    指示や真偽に関連するもの:意味論的特徴 →第二章:意味論 指示の問題・真偽の問題
   第三章・第四章:作者が行う言語行為
    フィクションの本性を、作品の提示のされ方や受けとられ方に求めようとする考え方(語用論) →第三章:ミメーシス
    言語行為論:フィクションの本質は作者が行う偽装的な行為。ミメーシス論「偽装的・演技的な語り口」の現代版 →第四章
 第五章第七章 ···より包括的なフィクション概念の検討
  作者よりもむしろ受け手に着目・言語文学以外の包括的なフィクション理論への拡張
   第五章:「ごっこ遊びの理論」ウォルトン →本書が擁護しようとする立場
   第六章:カリーやラマルクの言語行為論とウォルトンのごっこ遊び論の対比
   第七章:「虚構に関する発言」の真偽の問題



各章内容



序論 フィクションを問うということ

フィクションの概念の整理
 (1) 虚偽ないし嘘の同義語としてのフィクション
 (2) 実在とは対応しない概念としてのフィクション
 (3) 文学ないし物語的文学の同義語としてのフィクション
本書でフィクションとみなすのは、(3)をベースにしつつも、(1)〜(3)が交差する領域に位置するような物語的文学のある一定のジャンルを典型事例とする意味でのフィクション概念。
なおかつ、より包括的に、映画・演劇や絵画・彫刻等をもカバーできる拡張性をそなえたフィクション概念。
こうした包括的範囲も網羅するひとつの特徴:作品を構成している語りの主体が二重化する。
:作品を制作する作者と、作品のなかで物語を提示している語り手とのあいだに不一致が生じるという事態。
 「私」と称して物語を語っている語り手(現実には存在しない語り手)と、実際の作者が区別されること。
虚構的な発言/虚構に関する発言 という区別
虚構に関する発言
 ある虚構作品の世界において成り立つ事柄についての真偽の評価
 しかし、「ある虚構作品の世界において成り立つ事柄」とは何か →「虚構のなかでの真理」の問題



第一章 フィクションの統語論

文学理論家 (ハンブルガー)
 フィクションであることの目印となる統語論的特徴:虚構記号(ex. 作者には帰しえない語り)
分析哲学者 (サール)
 フィクションの目印となるような統語論的特徴は原理的に存在しない。
 フィクションの特徴は、作者がそれを書いたり構成したりするさいに持つ複雑な発語内の意図の問題。
→虚構記号はフィクションの目印ではあっても、フィクションの原因・理由とまでは言えない。



第二章 フィクションの意味論

フィクションの特質を指示や真偽という意味論的特徴に求めようとする考え方
 ・指示の問題:作品のなかで話題として指示されているのがどのような種類の対象なのか
   指示される対象が現実には存在しないということこそがフィクションの特性である、という考え方:非指示説 →本書では不採用
 ・真偽の問題:それについて語られる内容が真か偽か
   語りの真/偽がどうであろうと、それによってただちに作者と語り手の分離に結びつくわけではない。
   ある作品がフィクションであるかどうかの識別は、真偽の値の確認に先立っている。



第三章 主張とミメーシス

フィクションの特質を作品の提示のされ方に求める考え方の一つの典型:作品内の文が「主張されていない」という点に注目する見解:非主張説
ミメーシス
 「単純な語り」(語り手自身の語り)(間接話法) / 「ミメーシスを通じて行われる語り」(語り手が登場人物になりきった語り)(直接話法)
ミメーシスを採り上げる理由:
 ・本書でフィクションの基本的特徴と見なしてきた《語りの主体の二重化》という事態の手がかりになる
   非主張説のようにネガティブではない、より積極的な特徴づけが期待できる
 ・包括的なミメーシス論は、包括的なフィクション概念にとっての貴重な先例にあたる
アリストテレスのミメーシス理解よりも、偽装的・演技的性格にミメーシスの特質を求めたプラトン流の理解の方が、本書の考え方に沿う。
↑(本書でのフィクションの定義であるところの)主体の二重化という事態は、作者が行う偽装や演技とつながりを持つと思われるため。
分析哲学での言語行為論的な虚構論は、まさにそうしたつながりを展開したもの。(次章)



第四章 フィクションの言語行為論

言語行為論:
 言葉を発する行為は、真偽命題の提示だけでなく、行為遂行としての性格を帯びる
 フィクションを構成している「虚構的な発言」も、言葉を発する行為である以上、言語行為の問題として捉えるのが自然
→作者と語り手の分離という事態を適切に説明できていないので、本書ではこの見解に否定的。



第五章 ごっこ遊びの理論

ウォルトンのごっこ遊び理論
 「想像」という概念:ごっこ遊び理論にとって不可欠の重要概念
 「生成原理」:作品の解釈に関与する一定の社会的・歴史的な文脈
 「小道具(props)」:非現実のさまざまな事物や出来事として想像されるべき現実の事物や出来事(ex. 切株・積み木)

ごっこ遊び理論によって、フィクションの特徴を整理できる
 ・生成原理の柔軟性(子供のごっこ遊び)と固定性(フィクション)
 ・小道具の役割
 ・作品世界とごっこ遊び世界



第六章 視覚的なフィクションをめぐって

視覚的なフィクションに関してどのようなフィクションの定義が想定可能か。

視覚的なフィクションの受け手に求められているのは、一定の情景を見ているかのような想像なのであって、一定の情景についての語りを聞いているかのような想像なのではない。
そもそも作者の行為に考察の焦点をおく必要があるのか。

受け手とは区別される意味での作者は不要。
 狭い意味での作者の不可欠性を否定:受け手の役割の積極性
 →作者の役割を卑しめるものではないが、作者はかならずしもフィクション概念の不可欠の要素ではない、というのが要点。



第七章 フィクションのなかでの真理

ルイス (言語的フィクションに限定)
 フィクションのなかでの真理を、現実世界における真理と同様に、基本的には世界のあり方との一致として理解(実在論的発想)

カリー
 読者がフィクションを読み進めるなかでその語り手に帰属させる一連の信念こそが、虚構世界の実質

ウォルトン
 見かけ上虚構世界に属する事実についての主張に見える発言の多くは、じつは額面どおりの主張ではなく、むしろ作品を小道具としたごっこ遊びの一こま (偽装的発言)
 メリット:
  ・一つのフィクション内部に限定されることなく、他のフィクションや現実世界へとさまざまに越境する
  ・「語り手」を要請する必要がない
  ・言語的フィクションに限定されることはない



*1: 
 たとえば、
  文字も伴わない人物写真だけから生起する物語:Cindy Sherman “A Play of Selves” http://d.hatena.ne.jp/LJU/20100130/p1
  床に引かれた白線を舞台になぞらえる、ままごと的空間の映画:Lars von Trier “Dogville” http://d.hatena.ne.jp/LJU/20101204/p1
 など。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell