“Modernity and Self-Identity”
1991
Anthony Giddens
ISBN:4938551748
モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会
- 作者: アンソニー・ギデンズ,秋吉美都,安藤太郎,筒井淳也
- 出版社/メーカー: ハーベスト社
- 発売日: 2005/05
- メディア: 単行本
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近代を制度的再帰性の社会と捉えるギデンズ*1が、近代における自己のアイデンティティとはどのようなものなのかについてまとめた本。
巻末に用語集が付いている。(iDESさんのこちらのエントリで参照可能:http://d.hatena.ne.jp/iDES/20070223/1172252103)
第一章 ハイ・モダニティの輪郭
近代世界とは「暴走する世界 runaway world」 ……極端なダイナミズム
- モダニティのダイナミズムの三つの主要な要素
- 時間と空間の分離
世界規模のシステムまでを含む広大な時空を横断する社会活動の分節のための条件。 - 脱埋め込みメカニズム
社会関係を特殊な位置付けの呪縛から解放し、広範な時間-空間のなかに再統合するメカニズム。相互行為を場所の特殊性から切り離す。
「抽象的システム」
「象徴的通標」……交換メディア(ex. 貨幣)
「専門家システム」……「信頼」を本質的にあてにしている。 - 制度的再帰性
社会活動および自然との物質的関係が、新たな情報や知識に照らして継続的に修正を受けやすい。
こうした情報は近代的制度に付随しているものではなく、近代的制度そのものを構成。修正・あるいは全面的破棄の可能性に開かれている。
- 時間と空間の分離
↓
これらはすべて、普遍化する特性を持つ。
モダニティのグローバルな拡張は、距離化と、絶え間なく変動するローカルな状況・ローカルな営みとの継続的な関係と結びつけて把握する必要がある。:ローカルなものとグローバルなものの弁証法。人類史においてはじめて、「自己」と「社会」とはグローバルな環境において相互関連するに至った。
媒介された経験
メディア
離れた出来事の日常意識への侵入
モダニティにおいては、メディアは現実を映しているのではなく、現実を部分的に形成している。
近代社会の活動とは、本質的に反実仮想的 counterfactual
無限の選択肢からの選択 「可能的世界」の選択
生活とは、反実仮想的な出来事について日常的に思索するということ
「未来」は、現在において再帰的に組織される
専門知識
前近代とモダニティでの技術的知識の違い:アクセス可能性の違い
専門知識が予測不可能な結果に結びつく + リスク概念の重要性 → 反実仮想的な思索がモダニティにおいて重要となる
- 個人の心的な構造:言説的意識/実践的意識
- 言説的意識:行為者は、自らの行為について問われれば言説的な解釈を与えられる
- 実践的意識:存在論的安心と密接に関連。日常生活の自然的態度は、日常を送るために自明視しなければならない自分・他者・世界に関する疑問を括弧に入れる。無根拠性の隠蔽(不安を括弧に入れる)。→社会的な安定のためだけでなく、実存的問題の環境を編成する構成的な役割を果たす。
- 幼児期の存在論的安心の感覚の獲得
- 存在論的安心 ……すべての人間生活がなんらかのかたちで対処している根本的な実存的問題に、無意識や実践的意識のレベルで「答え」を持っているということ
- 実存的問題 ……「実存それ自体」 / 「死」 / 「他者の実存」 / 「自己アイデンティティ」
- 基本的信頼 ……他者・世界・自己に対する情緒的-認知的方向性。情緒的予防接種、保護被膜。他者や対象のアイデンティティの彫琢の条件であるのと同様に、自己アイデンティティの彫琢の条件でもある。
- ルーティーンの役割 ……人や対象の所与の世界への適応という他に、安定した人間の実存に必須の「外的世界」の現実の情緒的な受容を構成する。同時に、自己アイデンティティの起源ともなる。存在論的安心との相互依存。
- 身体と自己
自己は当然のことながら身体化されているが、身体は単なる「実体」ではない。外的状況や出来事に対処する実践的様式として経験される。
身体は、局所化された行為の媒体であるだけではなく、所有者によってケアされなければならない身体組織である。
体制:身体的特徴の維持や開拓に関する規則化された行動様式。学習された実践。自己の規律=訓練(discipline)の様式。
cf. エスノメソドロジー
第三章 自己の軌跡
- レインウォーターによるセルフ・セラピーの特徴
→後期モダニティの考察へ導入
日常の活動における基本的な構成要素は、選択の活動。
しかし、モダニティの複雑多様な選択のなかでは、選択肢を選ぶことについては根拠がなく、助けはない。
↓ここから帰結されること
ひとつには、ライフスタイルが最重要なものになる
- ライフスタイル
追求されるものではなく、選択を強制されるもの。
功利主義的な必要を満たすだけでなく、自己アイデンティティの物語に実質的にかたちを与える、統合された実践のセット。
複数の可能な選択肢からの選択。「受け継がれる」というよりも「採用される」もの。
ルーティーン化された実践。
多数の選択肢を完全に認知した上で決断が為されているわけではない。
ライフスタイルとは、選択に際しての習慣と方向性の束。
- モダニティにおける選択の複数性はどのように生じるか
- 伝統によって確立された道しるべがもはや存在しない
- 生活世界の複数化(バーガー)…… ex. 公的領域と私的領域の分化。この両者とも内部でさらに分化している。
- 保証された信条が文脈依存的な性格を持ってしまう ……専門家の知識も複数化されて、相互に競争し合っている。
- 媒介された経験の流布 ……社会生活の「状況地理」の変容。物理的場面と社会状況の伝統的なつながりの崩壊。
↓
こうした世界では、戦略的な生活設計が特に重要になってくる:ライフプラン
また、他者との親密な関係の変容にもつながる。
→「純粋な関係性」への傾向 (セクシュアリティ、婚姻関係、友人関係)(親子関係は特殊例)
- 純粋な関係性の特徴的な要素
自己や純粋な関係性に当てはまることは、身体についても当てはまる。
- 自己アイデンティティに関わる身体の側面:
- 身体的な外観 ……服装や化粧のモードを含む :行為を解釈する手がかり
- 振る舞い ……慣習との関わりにおいてどのように身体が活用されているか 環境の複数化により影響
- 官能性 ……快楽や苦痛を経験する際の性向
- 体制
私たちは自分自身の身体をデザインする責任を負うようになったのであり、そのように強制されている。
第四章 宿命、リスク、安心
リスクと自己アイデンティティの関わり
ハイ・モダニティの世界:チャンスとリスクの環境 →宿命や運命 destiny は何ら正式の位置を占めないが、決して消滅もしない
モダニティの再帰的なシステムは、人間によるコントロールを通じて機能する
フォルトゥナ:予定的決定論による宿命概念からの移行に関わる宿命概念。運命・幸運。世界のなかで神の道具として働かずとも神の恵みを得られるという考え方につながった。
モダニティの社会では、決定論的未来に替わり、リスクという概念が中心的なものになる。
未来の植民地化:未来は本質的に知りえない、反実仮想的な可能性の領域。リスクの計算により、植民的に未来へ侵入することができるようになる。
- 運命決定的なとき fateful moments
- 個人が自分の大きな望みにとって、より一般的には自分の将来の生活にとってとりわけ重要な結果を伴う決断をすることを求められる出来事。(通常は、生活のなかの結果を伴う行動の多くはルーティーン化されている。) 運命決定的なときには、しばしば専門家が呼ばれリスク評価の助けとなるが、当のリスクを負わなければならないのはあくまでも当事者。
- リスクに関わる問題
近代が以前よりもより危険になったということではない。人々がリスクとリスク評価の観点から思考することが常日頃の行動となったということが重要。
専門領域の細分化→個人の専門分野は狭いものになり、専門外については他の人たちと同じ状況に。→近代のリスク環境は誰にとっても不安定なものとなる。
- 環境世界 Umwelt (ゴッフマン) ……個人が状況に応じて維持する状態の「移り変わる」世界。レリヴァンス(シュッツ)のシステム。個人は環境世界を、計画された出来事と偶発的な出来事に分けて考えている。
- 保護被膜:効果的に機能する環境世界の維持を可能にする信頼の覆い。リスク的思考が前提としている危険な結果を意識から逸らす。
- 自然の社会化
- 脱習熟化
第五章 経験の隔離
知識と権力の内的準拠システムの出現
- 自然の終焉:自然的世界は、人間が構成する「創出環境」になった。
モダニティの内的準拠性は、「社会」と「自然」のあいだに引かれる区別としばしば混同されている。
しかし、社会システムが内的に準拠するようになるのは、社会システムが制度的に再帰的になり、それにより未来の植民地化に関連するようになってからである。
内的に準拠する社会システムの発達は、自己の再帰的プロジェクトの発端となる。
- 同時代のいくつもの社会変化が内的に準拠的な人生をつくりあげ、人生を他の出来事から区別された閉じられた軌跡としてまとめあげる:
個人は社会的な出来事の文脈から切り離されるのではなく、広範な社会環境を再帰的に利用することによってのみ、一貫した軌跡を確立することができる。
モダニティが持つコントロールへの志向性がもたらす帰結:経験の隔離
- 経験の隔離 が進展した要因
経験の隔離:生活の総体的な安心を幅広く確立するための条件→人間生活の基本的な道徳的・実存的構成要素をまとめて制度的に抑圧する効果
第六章 自己の苦悩
一般的な不安の感情の源について
モダニティの根源的懐疑→漠然とした心配も生み出している。
リスク計算自体によって生み出される不安
重大な結果をもたらすグローバルなリスクは、宿命に委ねられている。→フォルトゥナが復活してくるひとつの局面
モダニティは多くのレベルにおいて、本質的に危機への傾向を持っている。
危機は生活の「正常」な部分であるが、定義からしてそれはルーティーン化されえない。
↓
遍在する危機への心理的対処
自己の再帰的プロジェクトにおいて、自己アイデンティティの物語を維持することはストレスでもあり、自己だけでなく身体にも影響し、ある意味では自己と身体を構築することにつながる。
- 純粋な関係性
[+] 信頼や緊密な親密性を育てる:心理的安定
[-] 自己の統一感にとっても莫大な重荷を生み出す。さらに、内的な緊張や矛盾も抱える
- 自己のジレンマ:後期モダニティでは、「世界の内に生きること」は自己のさまざまレベルでの緊張と困難を孕む。
- 統合/断片化のジレンマ ……モダニティの分散する性質は統合を促進する性質と競合している。
病理:特定の固定的なコミットメント/権威主義的同調 - 無力さ/専有 ……モダニティの為す収奪が再専有の可能性と伴うと言うことはできないが、他方で、前近代的状況では不可能だった生活環境にたいする統制も可能となっている。(ex. 貨幣:直接コントロールできないもの/そうしなければ得られなかったであろう機会を手にすることも可能)
病理:無力感に圧倒される感覚(呑みこみ)/全能感 - 権威/不確実性(懐疑) ……決定的な権威の不在。伝統的権威はモダニティでは他のもののなかの一つの権威にすぎない。専門家は伝統的意味での権威とは異なる。権威はもはや懐疑の代わりとなる選択肢にはならない。
病理:独断的権威主義への偏向/普遍的懐疑によるパラノイアや意志の麻痺 - 個人化された経験/商品化された経験 ……商品化は自己のプロジェクトやライフスタイルの確立に影響。メディアが運ぶ物語。他方、選択の複数性は商品化過程が生み出した結果でもある。
病理:誇大さ/ナルシシズム
- 統合/断片化のジレンマ ……モダニティの分散する性質は統合を促進する性質と競合している。
基本的信頼は、放っておけば表面化する恐怖感を沈静化する。が、壊れやすい。
↓抑圧の増大につながる
- 抑圧が生じる社会環境
- 運命決定的なとき
- 脱収容を推進する営み
- 性行動
- 伝統の再構成
- 宗教
- 新たな社会運動
第七章 ライフ・ポリティクスの登場
ハイ・モダニティにおける政治的努力と課題との再構築
解放のポリティクスとライフ・ポリティクスの区別
- 解放のポリティクス:生活機会を不利にする束縛からの解放
・過去の束縛
・不当な支配
本質的に他者のポリティクス
搾取・不平等・抑圧を減少ないし除去することを目的
正義・平等・参加という要請を主要とする
自律を行動原理として持つ
- ライフ・ポリティクス:自己実現の過程から出てくる政治的な問題
解放のポリティクスの二つの解放を前提としている(伝統からの解放・不当支配からの解放)
個人が一定レベルの行為の自律を達したときに起こる
選択の政治 ライフスタイルの政治 生活の決定の政治
身体的過程と発達を再帰的に専有することは、ライフ・ポリティクスにおける基本的な要素
モダニティの中核の制度が抑圧してきた道徳的・実存的問題を再び際立たせる
自己の外にある社会関係が自己アイデンティティとライフスタイルに対して再帰的な影響を及ぼすように、
その逆に、個人の決定もまたグローバルなことがらに影響する。
- ライフ・ポリティクスの議題
物語
p59
ある人のアイデンティティは行為のなかにあるものでも、他者の反応のなかに――これは重要ではあるが――あるものでもない。むしろ、特定の物語を進行させる能力のなかにあるものである。(…)生活史は、外的世界において起こる出来事を統合し、自己についての「ストーリー」の進行にこの出来事を振り分けていく必要がある。
p109
(…)自己アイデンティティは自己啓発と他者との親密な関係の発展とが結合した過程を通して、達成されるのである。そのような過程は、共通の社会的位置にいることからくる経験の共有よりも潜在的に緊密な「共有された歴史」を創造する。
p159
それでもそのような人が苦労して適切に再習熟化すれば、かなり賢明な情報に基づいた選択が実際に行なわれうる。そのような選択はすべて、単なる行動の選択肢以上のものだ。それらは自己アイデンティティの物語にはね返り、それを発展させるのに利用される傾向がある。たとえば昔ながらの薬を使うかハイテクの薬を使うかということは、情報に基づいた選択の問題であるだけではないだろう。ふつう、それはその人のライフスタイルについても「何かを語る」ものである。
フィクション
p189
私たちはまた、媒介された経験の影響についても考える必要がある。特殊な専門家以外の人にとっては、死や深刻な病気との接触はまれと思われるが、媒介された経験としては、そういった経験はありふれたものである。フィクションやドキュメンタリは、暴力、セクシュアリティ、死の描写に満ちている。(…)媒介された言語やイメージによって、そのような媒介手段がない場合を遙かにしのぐ、多様で遠い世界におよぶ経験ができるのだ。したがって、実存的感受性は単純に希薄化され喪失されるわけではない。ある程度は、それは新たな経験領域が開かれてくるにつれて豊富になることさえあるだろう。
全体としてみれば、媒介された経験は隔離を克服するのに役立つというよりは、確実に隔離を押し進めている。ドラマのような「虚構的リアリズム」に魅了されることは、日常生活の堕落した道徳への関心を表している。しかしその種の関心は、かつて埋め込まれていた外部からの日々の生活の分離を強化してしまう傾向を持つ。
p225
ドラマやその他のメディア娯楽は、疑いなく逃避である――それはふつうの社会的条件では得られない現実の満足の代わりをする。しかしより重要なのは、そのような娯楽が、自己の物語を構築するためのモデルとなるような物語をもたらすということである。ドラマは、見る者にとって周知であるゆえに、少々の不安をかき立てながら、それでいて安心感を与えるような、決まりきったパターンを使う。それによって予測可能性と偶発性を混ぜ合わせるのである。それは偶発性、再帰性、宿命の混合物を作りだす。肝心なのは形式であって中身ではない。このようなストーリーのなかで、生活環境に対する再帰的コントロールの感覚、実際の社会状況における自己の物語を維持する際の困難に対して、安心させるようなバランスを作りだす、一貫した物語の感覚が獲得される。
空間
p166
場所それ自体が脱埋め込みメカニズムの拡張によって掘り崩されるにつれ、人生は場所という外部から分離するようになる。(…)脱埋め込みメカニズムは地域的活動を、拡張しつづける時間-空間関係に結びつける。場所は走馬灯のように移ろいやすいものになる。人々が生活する環境は地域的愛着の源でありつづけることも多いが、場所は経験のパラメータを形成せず、伝統的な場の特徴である、いつも親しみをもてるものという安心感を与えることもない。ここでは媒介された経験の発展もまた重要な役目を果たしている。(場所、社会的出来事や人々に対する)親しみやすさは、もはやローカルな環境のみに依存しているのではないし、あるいはおそらくそれを主な拠り所としているのでもない。
このため、場所は個人の人生の外的な準拠点としては以前ほど重要なものではなくなっている。空間的に位置づけられた活動は、ますます自己の再帰的なプロジェクトに結びついている。どこで生活するかということは、少なくとも青年期以降は、主に人の生活設計の面から組織された選択の問題となる。(…)コミュニティのプライド感覚を開拓する試みなどは、漠然としすぎていて、昔の名残をわずかに捉まえるくらいのことしかできないだろう。
p170
(…)伝統的シンボルや実践への訴えかけはそれ自体再帰的に組織されることがあり、その場合、それは内的に準拠した社会関係に対立しているというよりむしろその一部であるからだ。完全にポスト伝統的となった状況で伝統が「再発明」されうるかどうかという問題は、このような観点から理解されねばならない。これは、社会関係に関わる人間のつながりだけでなく、物質的な人工物にも当てはまる。このため、ポストモダニズムとロマン主義の復活についての現代の建築にかんする論争においては、「モダニズム」への反動は、外的な伝統的様式の要素を維持しているのか、もしくは内的準拠システムに完全に巻き込まれているのか、ということが重要な問題である。後者が当てはまるなら、伝統的スタイルの復活の試みは急速にキッチュへと退化するだろう。
p226
たとえば、空間は脱埋め込み過程の基本的な部分として商品化されてきた。だが空間はその際完全に商業化されたわけでもないし、商品生産の標準化の影響に服従しているわけでもない。数多くの作られた環境やその他の空間形態は、(行為主体の活発な働きかけを通して)脱商品化されたかたちで再び登場してくる。
自然
p187
モダニティにおいては、人々は二重の意味で人工的な環境に住んでいる。第一に、大多数の人が住む、作られた環境が広がっているために、人間の生活場所は自然から切り離されてきており、その自然も今や「田舎」とか「未開地 wilderness」といったかたちで存在しているに過ぎない。第二に、自然に起こる出来事が社会的力によって規定されたシステムにいっそう引き入れられるに従い、深い意味で、自然は文字どおり存在することをやめるのである。
p187
都市において「自然」は丹念に保護された緑地帯としていまだに存在しているが、その大部分は公園、保養地その他として人工的に構築されたものだ。
(…)自然は社会的に調整され飼い慣らされている。(…)未開地はしかし、今やおおよそ、何らかの理由から単に開拓や居住が行いにくい場所、あるいは単純に保養の目的のために保護されているような場所を指すものとなっている。
p187
自然はますます人間の介入に服しており、その結果、外的な準拠点としての性格を失ってきている。(…)自然は――昼夜や季節の移り変わり、気象条件の影響というかたちで――いまだに「存在している」ように思えるからだ。(…)しかしこの感覚は見かけだけのものだ。自然は、社会化されてきているゆえに、近代的制度の影響下にあるすべての場所において、未来の植民地化のうちに、また近代的制度によって創出されたリスクが支配する、部分的に予測不可能な領域のうちに、引き入れられているのである。
*1:
内容に関係あるわけではないけど、時節柄、ギデンズについてこれをスルーしてしまうわけにもいかないかな……
http://roarmagazine.wordpress.com/2011/02/22/plot-thickens-in-lse-gaddafi-connection/
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2007/mar/09/comment.libya
備忘として。(溜息とともに)