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 パオロ・バチガルピ “ねじまき少女”



“The Windup Girl”
 2009
 Paolo Bacigalupi
 ISBN:9784150118095, ISBN:9784150118105




 SFを分類するとき、作品世界の物理法則が概ね現状と同じか、そうでないかという分け方が可能だと思う。
 後者は、作品内で物理学に大きなブレイクスルーが起こる世界や、あるいは既にそのような変化が過去に起こっていて現実にはあり得ない技術が一般的になっている世界。遠未来が舞台で超光速航行が実現してるような作品ならばこれに該当する。
 前者は、物理法則は現実世界のままだけど、その前提を崩さずに工学技術だけが発達しているような世界が該当する。たとえば本作での「新型ゼンマイ」というガジェットは、現在の世界にはない製品ではあっても、現在の物理法則に決定的に反しているわけではない。やがて技術が進展すれば可能になる余地はある。
 サイバーパンクというジャンルは、このように物理法則には手を付けずして「未来」を描くやり方を切り開いたSFだったと思う。その意味では本書 “ねじまき少女” もサイバーパンクの正統な延長にある作品だと言える。
 ただし、サイバーパンクはもう30年ほども前に巻き起こったムーブメントなので、社会の観察の仕方で古さを感じる点もなくはない。サイバーパンクが自明としていた冷戦構造はいまや非対称戦争なんていうフェイズへ移行したりもしてるし、あるいは環境問題にしたって、問題自体はあの時代にも既にあったにせよ、現在では「排出権取引」という概念やそれをめぐる国家や企業の駆け引きみたいな新しい事態が登場していたりするし。こういうような、21世紀という時代を実際に経験しなければ書きようがない事柄っていうのはいろいろあると思う。
 その点、この “ねじまき少女” は、21世紀以降の知見を充分に取り込んでサイバーパンク的な未来イメージを更新することに成功している。言い換えれば、実際に起こり得る未来像についての現時点でのリアリティを備えている。

[あらすじ] (訳者あとがきより抜粋)
舞台は近未来のタイの首都バンコク。環境破壊の影響で海面が上昇し、世界各地の沿岸都市は水没している。遺伝子操作の弊害の疫病と農作物の伝染病が蔓延していて、病気に耐性を持つ遺伝子組み換え作物しか栽培できなくなっているため、世界経済はカロリー企業とよばれる少数のバイオ企業に支配されている。石油が枯渇してしまっているため、エネルギーはかろうじて超強力な新型ゼンマイによってまかなわれている。そのゼンマイを巻いているのも、象を遺伝子操作することによってつくられたメゴドントという生物なので、その飼料の供給という形で、エネルギーもまたカロリー企業の支配下にある。タイ王国は、周囲の諸国が崩壊状態にあるにもかかわらず、バンコクの周囲に防潮壁をめぐらして水没をのがれ、厳格な検疫と独自の遺伝子操作によって水際で伝染病を食い止めることによって、かろうじて生きのびている。


 
 さまざまな立場の者たちによる複数視点の小説。
 「日本製の秘書アンドロイドが、その所有を禁じられているタイで捨てられ、娼館で働きながら秘かに暮らしている」……という設定ひとつとっても、現行世界の複雑な社会図式がシニカルに凝縮されていることが見て取れることと思う。作者の基本的な目線はそのような方向で一貫している。隣国での虐殺から生き延びてきた中国系難民、グローバル企業の野心あふれるマネージャー、市民に恐怖されるほど職務意識過剰な検疫部隊隊長とその副官――と、背後に諸々の社会問題が絡まった面々が登場し、これだけの特性を持ったキャラクターが揃っていればいくらでも込み入った話が展開しそうだと思わせる。そしてその期待は外れない。
 実際この小説は、SFにしては珍しく――と言っていいものかわからないが――物語自体のおもしろさで全体が駆動されている。もちろん、最初に書いたように世界設定そのものも充分に刺激的なのだけど、それだけではなく、話の展開自体がよくできていて、引き込まれる。それは何と言っても、各登場人物の目論見が複雑に関わり合いながら、意図から外れてトラブルを誘発させていくことのおもしろさだ。自分の一般的な好みとして、小説でも漫画でも、登場人物が明らかにどこか抜けているというのではなく、さまざまに策をめぐらせ全力を尽くしつつも予期せぬタイミングのズレや思惑のすれ違いで仕方なく計画が崩れていく……という物語が好きなのだけど、その意味でこの小説は理想的なレベルにある。(“全力を尽くしつつ”というところがポイント。)
 冒頭で、ホク・センとアンダースンが互いに相手のことを半ばエスニック・ステレオタイプな不信と蔑みをもって見ている内心が順番に描かれているあたりなど見ても、作者がキャラクターたちを中立的に動かそうとしていることがよくわかる。いずれかのキャラクターに作者の思い入れが集中してるなんていうこともなくすべて対等に扱われていて、だからこそ、彼らの目論見がビリヤードのように連鎖して出来事の模様を描き出していくのを楽しめるわけだ。
 舞台設定も、キャラクター・スペックに深みを与え現在の現実世界とのつながりを持たせるものとして不可欠に機能している。東南アジア、特にタイを選んだことの効果も大きい。クーデターや2派の衝突の記憶もまだ新しく、読んでいてイメージが生々しく浮かび上がるからだ。
 
 それにしても、「収縮の時代」という設定には新鮮なものがある。エネルギー不足のため自動車や航空機が稀少となり、動力がゼンマイで賄われる社会っていう発想! SFってだいたいにおいてテクノロジーが進展する方向を語ってきたと思うんだけど(あるいは逆に思いっきり退行するか)、こういうかたちでの衰退する世界、そしてそれを経済・企業活動と結びつけてまとめているのは、なんとも現代的だ。人力バラストのエレベータなんかが極めつけ。
 設定は少しばかりわかりづらく、作中で親切な説明もなされないので、用語集のようなものが欲しいところではある。この世界設定は魅力的だし、たぶん同一世界でまだ何作か書かれそうなので(短編は既に書かれているようだ)、そのうち誰かがどこかでまとめをつくってくれる気もするが。






ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell