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 名和晃平 “シンセシス” 2010.06.11. - 2011.08.28.








名和晃平 ――シンセシス
Kohei Nawa ‒ SYNTHESIS
 東京都現代美術館





(展覧会公式サイトより抜粋)
「Cell」という概念をもとに、先鋭的な彫刻・空間表現を展開する名和晃平(1975年生まれ)の個展を開催します。 名和はビーズやプリズム、発泡ポリウレタン、シリコーンオイルなど流動的な素材・メディアを情報社会における感覚や思考のメタファーとして扱い、デジタルとアナログの間を揺れ動く身体と知覚、感性のリアリティを表現しています。本展では、国内外での多数の受賞・発表をふまえ、パラレルに姿を変える名和作品の根幹を各カテゴリーの方向性や相互の関係から探り、そこにかいま見える今後の姿を追求します。


 視覚の変容や抽象化・ずれ、といったことが、多くの作品で共通するテーマ。
 見えているものと、その内実との不一致。
 たとえば “BEADS” シリーズでは鹿の剥製が透明なビーズで覆い尽くされていて、遠目には鹿の姿をしていたものが、近寄るとビーズを通して分割され曖昧な見掛けのものになる。
 あるいは “PRISM” シリーズの場合、分光シートで囲われることで角度によって見える位置が変わり、内部の立体物の所在が不明瞭にされる。
 目で見えているもの(知覚)と、頭で理解していること(認識)の間にずれが生じている。


[以下、メモ]


1. 作家がおこなうこととは何か

 作品解説で、「インターネットで収集した素材を利用」と説明されている作品がいくつかある。このことは作品を見ているだけではわからない。あとで解説を読んで初めてそうと知る。ということは、これらの作品は単体では完結せず、解説というパラテクストを組み込んで完全な状態となることを意味するのだろうか? しかし作品単体で鑑賞しても充分に良さがあるし、インターネットから素材を集めたという事実がなかったとしても作品価値が損なわれるわけではないとも思える。
 ではなぜそのようなつくり方をするのか、というところがよくわからなかったので、本人のことばをネット上から集めてみた。
 

TOKYO SOURCE 052 名和晃平(アーティスト)
http://www.tokyo-source.com/interview.php?ts=52

造形素材のリサーチに加えて、彫刻のモチーフもネットのシステムを使って集め出したんです。それも、「BEADS」と「PRISM」の作品は、あくまで概念的にモチーフを収集できないか、という思考実験でもありました。(…)ネットのシステムの性格上、全く関係ないものも沢山含まれるから、こちら側の意図を超えて、設定したキーワードの概念やテーマは無意味になってしまう。その無化されてしまうという状況が、今のネット社会のリアルだし、それをそのまま彫刻へと持ち込もうとしています

BEAMS and More 現代アート作家・名和晃平氏にインタビュー
http://www.beams.co.jp/andmore/interview/inteview-with-kohei-nawa-1.html

それで透明のガラスビーズは真下にある部分を拡大するんだな、と気がつき、ある発想が生まれたんです。(…)「マテリアル(物質)」としてのガラスビーズから、「機能する、あるいは役割を与えられる」ビーズへと変化が起こったんですね。

artgene. 現代アーティスト 名和晃平『宇宙の感性でつくる、現代の新しい彫刻とは』
http://www.artgene.net/interview2.php?BNO=5

ネットで画像を選んでデスクトップに落とせばダウンロードできる。それと同じように、ネットを介してものを直接スタジオにダウンロードする感覚で取り寄せて、それにガラスや水晶の透明の球を貼り付けて、透明の球体を通してしか見ることのできない状態に落とし込むんですね。それがピクセルというフォーマットに保存された状態。そのフォーマットが彫刻だと思っています。コンピュータだとjpegとかのフォーマットで保存されていくわけですが、それを彫刻の世界としてアーカイヴしていくというのがピクセルなんです。*1
(…)
なぜ、セルになり得なかったのか、それがおもしろくて、その理由が自分で知りたくて取ってあったんですが、そのなり得なかったモチーフを、すべてヴィラス、柔毛の表皮として発表しました。

Realtokyo Interbiew 025:小谷元彦さん×名和晃平さん(アーティスト)
http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/interview/bn/interview_026/

例えば、現実にあるものをその姿のまま固定する、という意味では写真というフォーマットも剥製というフォーマットも質は違えど似ていると思うんです。インターネットに漂うイメージもそう。それらは誰かがどこかでフォーマット化してアップロードされたもの。それをそのまま彫刻にしたかったんです。具象イメージの固定の仕方、という意味で言うと、デッサンや写真に変わる新しい固定(あるいは保存)の仕方とも言えると思います。写真の場合は、オブジェ→レンズ→フィルム→印画紙→目という順番でイメージが伝達しますが、ビーズやプリズムは、オブジェ→レンズ→目となり、そこにあるけどそこにないというジレンマ、その距離感やズレがいまのリアリティなのかなと思うんです。




 つまり、彫刻のモチーフをどのように決定するか、という問題が名和晃平の出発点にある。
 一般に芸術家が彫刻をつくろうとするとき、どのようなかたちにするかという決定が必ずおこなわれる。古典からの引用なのか、目の前にいる人物の一瞬間をただ切り取るのか、緻密な分析や計算からかたちを構想するのか、あるいは自分のなかの衝動か何かに従うのか……。いろいろあると思うけれど、名和晃平はこうしたプロセス自体に疑問を持っている。おそらく根底には恣意性を回避したいという目論見があって、芸術家が頭を悩ませながらかたちを選ぶのではなく何らかの自動的な手段でかたちを生み出したい、そうした代替の方法を模索された結果が “BEADS” シリーズとなっているようだ。
 具体的には、ネット・オークションで入手できる剥製などの立体物をキーワード検索によって自動的に収集し、これによって造形プロセスを通過している。だけどこれだけでは作品とは言い難いので、ビーズによる変換をおこなって「保存物」として凍結する。その結果がそのまま彫刻である、というわけだ。収集に先立つ検索キーワード設定の時点にのみ、ひとつの決定・ひとつの恣意性があり、ここが、従来の彫刻家がかたちを構想していた段階に相当している。
 このプロセスはたしかにほとんど自動的に進んでいるように見えるけれども、実際は作家性がまったく排除されているわけではない。さらにふたつポイントがある。
 ひとつは、「中身」自体は自動的に収集されたものであっても、その表面にビーズを貼り付けていくことは手間のかかる実作業であるということ。かたちの核を成すものには手を触れていないけれど、そのまわりで、見え方を変換させることに多大な努力が費やされている。
 もうひとつは、ネットで収集されたものがすべてそのまま作品にされているのではなく、何らかの基準でスクリーニングがかかっているということ。このスクリーニングから外れ「彫刻」になることのできなかったものは、“VILLUS” という別のシリーズに転用されている。このことによって、[彫刻/彫刻以外]という区別が引かれ、名和晃平のなかでの「彫刻」の定義が定められることになる。
 このように、ネット上のものがただ自動保存されているのではなく、最初のキーワード設定を含めみっつのポイントで作家による介在が為されていて、これらこそが作品を作品ならしめている。そしてそれは従来の彫刻のつくり方とはまったく異なったものだ。


 「保存」という意味合いから見ていくと “BEADS” シリーズの意義はよくわかる。自分で絵筆を振るって描かねばならなかった「絵画」に対して、カメラのシャッターを押せば画像を保存できる「写真」が後続したように、古典的な「彫刻」に代わるものとしてこの “BEADS” が位置づけられるわけだ。
 ただ、彫刻のあたらしいあり方というのは他にもいろいろあり得るだろうとは思う。たとえば、3Dプリンターを利用して立体造形作品をつくるアーティストというのがもう既にいるのかどうかわからないが、いずれそうした作家が出てくるのは必至だとして、名和晃平の作品はそうした作家との差異でもって語られることになるような気もする。クローン・ファクトリーというところが販売している“自分さん*2”というプロダクトがあるのだけど、これこそはまさに彫刻の究極、絵画に対する写真に相当する彫刻の進化形と言えると思うし、名和晃平が言うような「保存」の別様のあり方でもあるはずだ。
 こうしたものと比べたとき、名和晃平の作品の場合は、やはり見え方の変換が伴われていることに大きな意味があると思える。古典的な彫刻も、ただモチーフをコピーしているわけではなく、石膏やブロンズなどの素材によって抽象化されている。元となるかたちをそのままに複製するのであればそれは単なる剥製にすぎない。何らかの変換がおこなわれることで彫刻という芸術作品に成る。
 今回の展覧会では、モチーフが重なり合った “Double” という作品もあって、より複雑な視覚操作がおこなわれている。これはビーズによる視覚変換があるからこそつくれるようなもので、ただでさえビーズ効果でかたちが曖昧になっているところを、同じ剥製*3がずらされながら重複していることで二段階に及ぶ幻惑を生んでいる。こうしたものを見ると、原型を視覚的に変形させつつも、それでも残るものこそが保存の対象なのだというように感じられる。



2. 商業との関係

 公式サイトやプレスリリースでずらずらっと羅列される協力企業や大学研究室等の数々。「この作品はどうやってつくられているんだろう?」と考えたときの答が、ここにある。特殊な素材や技法を使う作家の場合、現代では、こうした外部協力者の助けは不可欠なものだろう。
 芸術家に対する素朴な見方として、職人的に技術を研鑽する孤高のイメージも根強く残っているような気もするのだけど、少なくとも現代美術ではそうしたイメージはもう当てはまらなくなっている。それは何も村上隆やダミアン・ハーストのように日頃からマスプロダクション的な作り方を批判されているようなアーティストにかぎった話ではない。名和晃平の場合でも、外部の協力業者だけでなく、自ら率いる SANDWICH という株式会社のスタッフが作品製作に従事している。
 「技術」ではなく「コンセプト」「成果物」こそが重要。であれば作品をつくるときに作家自身がどこまで自分の手を動かしているかは問題ではない。*4
 こうした認識はもはや現代アートにとって是非を問う事柄ではなく、議論以前の前提になりつつあると思うのだけど、ここからさらに派生していくことがある。商業的な展開だ。
 

(展覧会公式サイトより抜粋)
2011年6月11日より東京都現代美術館で開催される「名和晃平シンセシス/KOHEI NAWA - SYNTHESIS」展を中心に、国内外の各方面で名和のアートワークやアートディレクションが展開されます。百貨店やセレクトショップ、ブランドブティックやミュージシャンのライブステージなど、さまざまなジャンルとのコラボレーションが立ち現れます。




 製作や展示にかかる費用をどのようにまかなうか。スタッフを集めてチーム・プロダクションをおこなっていくのであれば、その人件費をどのように捻出するのか。もっと言えば、作家活動を継続していくための経済的源泉をどこに求めるか。
 このとき、芸術界のなかだけに閉じてやりくりしていく道を選ぶのか、それともその外に広くリンクしていく道を選ぶのかという選択肢がある。名和晃平の場合は、後者を選ぶことをためらっていない。
 

&ART SANDWICH 有機的な循環を生み出す、創作の現場 インタビュー 名和晃平(美術家、SANDWICH代表)
http://www.andart.jp/feature/110119/

だから、作品をあえて商業ベースの空間に持ち込むということにも意義を感じます。(…)アートを社会化するという意識と同時に社会のシステムの中に入り込んで、体制の中からなにかを変えたり、批評することができないか、とも思っています。

.fatale 名和晃平×長谷川祐子『目に見えない脅威」
http://fatale.honeyee.com/culture/feature/2011/koheinawa_yukohasegawa/

長谷川「美術館というのは年間の予算が決まっているので、それに対して個々の展覧会に割ける予算が必然的に決まってしまいます。名和さんの場合は、機材や素材協力をしてくださるスポンサーがいることで成り立っている部分が大きい。それを実現させたのは、名和さんが率いるSANDWICHの組織力です。名和さんがやりたいと思ったことをできるように、組織を上げて全力でサポートしてくださったと聞いています。もちろん、個展を開く時にはアーティストは協力体制になるものですが、ここまでコミットしてやる人たちは他にいません。例えば名和さんと同世代の石上純也さんは、建築であれば建築の、アートであればアートのクラインアントを探してきます。自分が制作しているモノの背景にある、お金を動かすシステムをきちんと把握している。なおかつ、コミュニケーション能力が優れている。それはアートだけでなく音楽業界、建築業界などすべての分野に当てはまりますよね。そのフレキシビリティーや知恵は、名和さんにも共通して感じました。とはいえ、これだけの協力が集まったのはやはり名和さんの人柄です。褒め過ぎですか?(笑)」(p2, 3)
名和「日本ではコンテンポラリー・アーティストがミュージシャンとコラボレーションしたり、Tシャツを作ったりすると、消費されるという印象がついてしまいます。アーティストは無駄なことをしなくていいと。でも、その消費されるということをあえてテーマにすることで、ギリギリのところの表現ができるんじゃないかと考えていました。(…)」(p8)




 たとえばファッションブランド(agnès b.)、たとえばミュージシャン(ゆず)。
 芸術がこうした外部の商業活動に接近していくこと自体は今に始まったことではなく、さまざまな先駆者がいて既に議論も尽くされていると思う。この点に関して今更どうこう思うことはない。ただひとつ気になったのは、このようなスポンサー集めがコミュニケーション能力の賜物であるという上記の見方だ。かつて芸術家にはひとりで黙々と作品をつくる世捨て人のようなイメージが持たれていたときもあったと思うのだけど、外部の技術協力者や資金協力者が不可欠になっていくにつれて、芸術家にとってもビジネス的な交渉力・営業力のようなものが重要性を増していく。そうしたスキルを持っていない芸術家は、生き残るのが難しくなってきているように思う。
 そうすると――これまでの芸術というのが、ビジネスを初めとするまっとうな世の中から外れた生き方をする者たちの場であったとするなら、今後の芸術は、そうではないもっとまっとうな人々でなければ適応できない世界になっていく可能性があるわけだ。従来の芸術家は、何らかの破天荒なキャラクターを物語としてまとわせていて、それもまた作品の一部であったと思うのだけど、これからの芸術家はそのような物語を持たない常識人になっていくのかもしれない。そうした意味でも、アートというのは今まさに変わりつつあるということを感じた。



[さらに雑多なメモ]



・「ワンマテリアル・ワンテクスチャー」
 表皮全体を覆っているエフェクトの部分はすべて同一の素材で均質に仕上げている(cf. 美術手帖 2011.08 p33その他)
・“BEADS” だけじゃなく、“THRONE” “DRAWING” “LIQUID” なども良かった。




*1:グレッグ・ベア “永劫” で、異星知性体に万物が蒐集保存されていくところをを想起させられる。

*2:http://clonefactory.co.jp/jibunnsann.html

*3:cf. 美術手帖 2011.08 p43 剥製を購入したら、サイズとポーズがまったく同じものが出てきた → 調べたら、型が同じだった:「フォーマット化された鹿」

*4:このあたりの話は、漫画 “バクマン。” で今ちょうど連載中のパートでのテーマに通じるものがあると思う。(ジャンプ的な「売れる漫画」をシステマティックにビジネスとしてつくることが成功するかどうか、という話。まだこの先どう帰結するかはわからない。)






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell