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[読書] グレッグ・イーガン “スティーヴ・フィーヴァー”



“STEVE FEVER”
 2007
 Greg Egan





 同名タイトルのアンソロジー内にある一篇。他にも良い作品はいくつかあったけど、これが群を抜いておもしろかったので、とりあえずこの作品だけ記録しておく。
 計算能力を備えた元医療用のナノマシン群体が、人間たちにはよくわからない奇妙な活動をおこなっている――という話。
 
1.
 この群体は、人類全体を凌ぐ計算能力を持ちヒトの脳の解剖学的構造も余さず把握しているのに、自分たちはまだ人間の“意識”というものを理解できていない、と自覚している *1 。非人間知性であるところの彼らは、ある仮想現実上の存在に“意識”が備わっているかどうかを判定しようとしているのだけど、こういうときふつうだったらチューリング・テスト中国語の部屋のような話になりがちなところを、「演劇」という方法が選ばれているのが新鮮だ。“意識”という内実の有無を確認すべき「主人公」がいて、そのまわりに、“意識”を備えていることが明らかである「他者」が用意されるという構図。彼らに演劇的に出来事を再現させ、その反応を観察することによって「主人公」に“意識”が備わっているかを確認するという試みがおこなわれている。
 現実には、自分自身といういわば「主人公」が“意識”を持っていることは疑いようもなくはっきりしていて*2、一方、他人が意識を持っているかどうかは絶対に確認できないわけだから*3、この群体によっておこなわれていることの図式はちょうどその逆になる。「主人公」が空白で、まわりからの反応、他者たちからの演繹によって“意識”を浮かび上がらせようとするプロジェクト。

 といっても、じゃあ非人間知性ではなく人間だったら、他の人間が“意識”を備えた存在であるかどうかがはっきりとわかるのかというと、難しい問題ではある。他人の“意識”そのものには外部からはたどりつきようがなく、だからこそチューリング・テストなんていうものが考え出されてきたわけだから。
 そうすると、この群体がおこなっていることはそもそも原理的に成功不可能なことなのではないか、という疑問も浮かんでくるけれど、そこで「演劇」ということの意味が出てくるのかも、ということを思った。
 つまり他人の“意識(他我)”の有無というのは日常生活においてもけっしてはっきり確認されているような性質のものではなく、他人にも“それ”があるという約束事のもとに社会やコミュニケーションがまわっているというだけのものであって、この演劇とはまさに“意識”を空白の位置に置いたまま社会が成立しているという事態をシミュレートしていることなのではないか?

 参考としてローティの文章を引用;

言語をめぐるこの線にそった考えは、ライルとデネットの考え、つまり心に関する専門用語を使っているとき、さまざまな状況下においてある有機体が、どのようなことをしたり述べたりする傾向があるのかを予測するうえで、私たちにとって有効な語彙――「志向姿勢」とデネットが呼んだものに特徴的な語彙――をたんに使用しているにすぎないのだという考えに類似している。ライルが心についての非還元論的な行動主義者であったのと同様、デイヴィッドソンは言語についての非還元論的な行動主義者なのである。両者とも、信念や指示について語る際に、その行動上の対応物を提示しようという欲求をもっていない。その代わりに両者とも、つぎのように述べている。「心」や「言語」という用語を、自己と実在のあいだにある媒体の名称としてでなく、単純に、ある種の有機体に対処しようとするときに、ある語彙を用いることが望ましいという合図を表わしている旗として、考えてみよう、と。ある有機体に――この点に関しては、ある機械にでもいいのだが――心があると述べることは、ある目的にとって、それが信念や欲求をもっていると考えた方がうまくゆくと、いっているにすぎない
(ローティ “偶然性・アイロニー・連帯”, p35)


 演劇というのは何かを模倣したり再現したりする行為(ミメーシス)である、という古典的な考え方があるけれど、ふつうはそこで模倣・再現されるのは何かの出来事であるのに対して、この群体による演劇では、“意識”という何とも取り付く島のないものの再現が健気に目指されているわけだ。
 このとき、目指している“意識”の内実そのものに到達することは絶対にできなくて(“スティーヴウェアは太陽が燃え尽きるまで試行を続けるだろう”)、でも、この演劇をし続けている間は、われわれの日常生活がそうであるのと同様な意味で、対象に“意識”があると言ってよい。群体による仮想現実上での演劇は、“意識”という語が運用される状況をシミュレートすることに意義がある。その意味で言えば、「主人公」に“意識”を持たせようという彼らの試みはむしろ成功していると言ってもよいのかもしれない。
 ……もっとも、これは作中で「スティーヴ学者」が言っている解釈とはだいぶずれているとは思うけれども。


2.
 あとこの作品にはもうひとつ、必ずしも重なり合わないふたつ目のポイントがある。
 より曖昧なかたちで書かれているけれど、宗教の寓意、という側面がある。
 これについては、Togetter:“グレッグ・イーガン「スティーヴ・フィーヴァー」についてネタバレ” http://togetter.com/li/59118 を参照。
 “熱病”になぞらえられているところは、なかなか厳しいジョークかも。





“スティーヴ・フィーヴァー” 収載


スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー)

スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー)

*1:では彼らは、自分たちが備えていないとわかっている“意識”を人間は備えているということを、なぜ/どのように確信できているのか? また、人間が他人には“意識”があると確信しているのは、どのようなことなのか? ……など、いろいろ疑問も沸くが、とりあえずそれはおいといて。

*2:ただし本当はそんなに簡単に一般化して終われる話ではないが……。

*3:ここにも同様に困難な問題が隠れている。






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―Angela Mitchell