『純粋理性批判』 Kritik der reinen Vernunft [de] (Critique of Pure Reason [en]) 1781年初版 (A版) / 1786年改訂二版 (B版)
イマヌエル・カント Immanuel Kant, 1724-1804
天野貞祐訳 [講談社学術文庫] [1]ASIN:4061584049 / [2]ASIN:4061584057 / [3]ASIN:4061584065 / [4]ASIN:4061584073
篠田英雄訳 [岩波文庫] [上]ASIN:4003362535 / [中]ASIN:4003362543 / [下]ASIN:4003362551
原佑訳 [平凡社ライブラリー] [上]ASIN:4582765270 / [中]ASIN:4582765394 / [下]ASIN:458276553X
宇都宮芳明訳 [以文社] [上]ASIN:4753102297 / [下]ASIN:4753102300
中山元訳 [光文社古典新訳文庫] [1]ASIN:4334751989 / [2]ASIN:4334752047 / [3]ASIN:4334752136 / [4]ASIN:4334752233 / [5]ASIN:4334752292 / [6]ASIN:4334752357 / [7](刊行予定)
・このエントリの目的:
最終的にイマヌエル・カントの『純粋理性批判』を理解することへ向けてのノート。
常に未完成。
・そもそも『純粋理性批判』とはどういう本か
どんな本でもそうだが、問題設定がわからないと難解に見える。
この本は、「理性批判」という側面よりも、以下の問題設定から捉えた方がわかりやすいのでは。
そもそもKritik/Critiqueを一様に「批判」と訳す日本語に混乱させられるが、そういう慣例が根付いているのでしょうがない。それはともかくとして、
この本から提起された問題系はいろいろあるのだけど、自分としては、特に「空間とは」「時間とは」「自我とは」についての思索として読む。
・客観/主観問題
客観世界に到達することなどできるのか? 客観世界とは本当に存在しているといえるのか? あるいは、すべては主観にすぎないのか?
カントの結論は、観念論のような「この世には主観しかない・すべては主観が見ている幻」ではない。
かといって、客観世界が脳をつくり脳が精神を成り立たせ…といった素朴な実在論にも与しない。アクロバティックな答え方をおこなう。
・空間と時間
これに関連して、空間・時間とはどのようなものであるかが考察される。
・カントについて自分がどのあたりから関心を持ったかの記録 →[1. 導入]
・まず、哲学事典をもとに基本的な情報を整理 →[2. 基本情報]
・カント各入門書の読書ノート →[3. 入門書籍]
当然のことながら、入門書は異なる著者のものを複数読まなくては。
『カントの読み方』 中島義道 ASIN:4480064273
『カント 世界の限界を経験することは可能か』 熊野純彦 ASIN:414009303X
『カントはこう考えた ――人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康 ASIN:4480842489
『カント「純粋理性批判」入門』 黒崎政男 ASIN:4062581922
・『純粋理性批判』本編読書記録 →予定
・関連
『カントの時間論』 中島義道 ASIN:4006000405 →http://d.hatena.ne.jp/LJU/20111106/#p2
1. 導入
『翔太と猫のインサイトの夏休み』 永井均 ASIN:4888482896
p108
『超越的』って言えば、ぼくらが経験できる世界を超えて、その外にあるってなことだよね。それに対して、『超越論的』っていうのは、そうじゃなくてね、ぼくらが経験できる世界を超えて、あたかもその外に立ったかのような立場から、ぼくらが経験できる世界の成り立ちとしくみを調べる、そういう哲学者の立場をあらわしているんだよ。
p110
カントはね、そういうふうに超越論的に構成された客観的実在の世界の、そのまた外に『物自体』ってのを考えるんだけどね。(……)たしかにそれはあるはずなんだよ。それがないのにこの現実だけがあるってのは変だからね。でも、それについては何も言えないのさ。それについて言えることはね、 ぼくらのような感覚能力と思考能力を持った者には、ぼくらがいま生きているようなこういう世界をつくり出させるような、そういうあり方をしているはずだ、ってことだけなんだ。
p172
カントは時間の存在の根拠を、神にではなく人間の側に見出した。――時間とは空間と並ぶ、世界認識の根本的な形式であり 、「私」はこの形式を通してしか世界を捉えることができない。つまり世界を捉える「私」がいないなら、時間もまた存在しない。しかし「私」に認識される経験的な世界においては、時間は間違いなく存在する。(……)
こうしてカントの哲学においては、世界を捉える視点が同一であり続けることと、世界が同一であり続けることは、同じ事実の表と裏となる(どちらが表とも言えないが)。〈私の時間〉と〈前後の時間〉は、いずれも視点の同一性によって根拠づけられたものとなり、両者を区別すること自体、無意味な試みとなるだろう。
「私」は、世界が持続していることと視点が持続していることを経験的には区別できない。区別できないどころか、それは同じことにならざるをえない。これこそカントが「時間の形式」という表現で語ろうとした事柄だろう。
p112
『純粋理性批判』の初版で、カントは次のように主張した。――私は私の諸表象を意識しており、それゆえにその諸表象とそれを持つ私自身は実在する(すなわち、我思うゆえに我あり)。しかし、外的な対象もまた私の持つ内的表象の一種にすぎない。それゆえ、私が実在するのと同じ根拠によって外的対象もまた実在する。(……)
改訂版のカントの思考は次のようなものだ。私は私が存在するということを客観的時間の中で持続的に存在することだと感じている。しかし、あらゆる時間的位置づけは、知覚の中に何かが持続的に存在することを前提とする。それとの関係においてはじめて、変化や運動がそれとして知覚されるからだ。私の存在はこの持続する物との関係によってはじめて時間のうちに位置づけられるのだから、この持続する物は私の内部にあるものではありえない。このように、私の外部に物が実際に存在していることが時間的位置づけのための条件であるのだから、私が時間の中に存在しているという意識は、そのような外界の物の存在と必然的に結びついている。言いかえれば、私自身の現実的存在の意識は、そのまま直接的に、私の外部にある物の現実的存在の意識なのである。p113
諸現象をまとめる心のはたらきによって成立する外界と、その心を内部に位置づけている外界。その二つは同じものなのだ。私の心が作り出し、私の心の中にある外界の中に、その私自身がおり、そして、外界の中にいる私がその外界を作り出し、私の中にその外界自体がある。
p29
「空間・時間」という感性の形式(直観形式)と「因果関係」などの思考の形式(カテゴリー)(……)
空間・時間や因果関係が「認識の形式」であるということは、それらが、私たちの認識から独立の世界それ自体の側で成り立っているものではないということである。つまり、私たちは物を空間・時間の中にあるものとして知覚するが、それは、物それ自体がそもそも空間・時間という規定を持つからではない。物それ自体ではなく、私たちが物を知覚する様式の方が、空間・時間という枠組みを持つのである。空間・時間は、物それ自体の側ではなく、私たちの認識の側に属している。そのような意味で、空間・時間は、客観的なものではなく主観的なものである。
p30
もちろんこの場合、主観的であるということは、個々人の勝手な思い込みであるという意味ではない。むしろ、認識の「枠組み」は、感覚し思考する人間すべてが共有する「普遍的な思い込み」であって、その「思い込み」がなければ、そもそも認識が成立しない。(……)
そして、そのような意味で主観的であるからこそ、空間・時間そして因果関係などは、ある種の絶対性を帯びる。
イマヌエル・カント Immanuel Kant, 1724-1804
位置付け
カントは、自己自身が頂点へと導いた啓蒙思潮の時代を生き抜き、イギリス経験論と大陸合理論の短所を捨て長所を取りつつ、両者を止揚し総合することによって、新たな認識批判・認識理論の根拠を築いた批判哲学と超越論的哲学の創設者となった。このようにして、カントの批判哲学は、ドイツ観念論の哲学の出発点をなすと同時に、ヨーロッパの哲学史において常に影響を与えた。 (哲学・思想事典 [岩波書店])
批判哲学
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のいわゆる〈三批判書〉を核心とするカントの哲学を指すとともに、新カント学派に代表されるカント哲学の超越論的観念論及び反形而上学的な姿勢とを受け継ぐ哲学に用いられる総称でもある。この場合哲学の使命を、事実として受け入れられた科学的認識の妥当性の解明に差し当たり限定すること、またそれと関連して事実問題ではなく権利問題にこそ哲学の固有の問題を見いだすこと、および物自体の認識可能性を否定し人間的認識の限界の承認と確定を目的とすることが、批判哲学と呼ばれる哲学がカントから受け継いで共有する特徴として指摘できるだろう。 (哲学・思想事典 [岩波書店])
カントは、もっぱら自然認識に着眼して、自然認識における根本概念(「実体性」「因果性」など)すなわち悟性の「範疇」が先天的概念であることを証明した上で、それが「空間」と総合されることにより、自然認識の諸原則が先天的総合判断として成立することをあきらかにした。そしてかような悟性の概念と時・空の主観との総合の最後の可能根拠は自覚的意識の統一にある(「先験的統覚」)。つまりわれわれにとって「あり(真なり)」ということは、「意識されてあり」ということであり、普遍的な「考えるわれ」がすべての対象をあらしめる場なのである。この場のなかで、感性と悟性との間に想像力が働いて総合的認識を生みだす。そしてこのことがただちに、認識の対象をあらしめること、対象を構成することである。 (哲学事典 [平凡社])
カントの批判哲学の結構を示す基本文献。続いて刊行された『実践理性批判』『判断力批判』とあわせて三批判書と通称され、理論、実践、美的感情・目的論に及ぶ批判哲学全体のひろがりを提示する。通称〈第一批判〉。1781年初版(A版)、1786年改訂二版(B版)。ニュートンの名に代表される近代科学の展開と英仏等近隣諸国での近代市民社会の成熟に見合った新たな一連の哲学・思想の成立を承け、理性による〈理性の法廷〉を設定し、あらためて近代的な人間理性の権能と限界を自覚的に画定することを試みる。精緻な問題設定の上に形而上学の成立の可能性について新たな展望をひらき、西洋哲学史上一つの画期をなす古典中の古典の位置を占める。
学説史的・概念史的背景
本書の主要部分は、伝統的な形式論理学の教科書の構成に骨組みを借りて、〈超越論的原理論〉〈超越論的方法論〉に二分され、〈原理論〉の大半をなす〈超越論的論理学〉はさらに概念論、判断論、推理論に相当する三段構成を取って書かれている。
探求の主題は、近代科学の時代における、超経験的な事柄の探索にかかわる〈形而上学〉の命運であり、カントは本書を導く基本の問いを「いかにして学としての形而上学は可能であるか」と定式化する。ここにいう〈形而上学〉は、漠然とした概念ではなく、具体的にヴォルフ学派の(学校)形而上学として啓蒙主義の当時ドイツの大学で広くおこなわれていたものを準拠枠として言われている。
基本的問題構成
全体の〈序論〉で、『純粋理性批判』の本来的課題がまず「いかにしてアプリオリな総合判断は可能であるか」という問いとして定式化される。この問いはさらに、「いかにして純粋数学は可能であるか」「いかにして純粋自然科学は可能であるか」「いかにして生来の素質としての形而上学は可能であるか」「いかにして学としての形而上学は可能であるか」の四つの問いとして分節・具体化される。これら一連の問いを順次検討し、回答を与えてゆくことが『純粋理性批判』本論の課題となる。
- 〈I 超越論的原理論〉(IはIIの5倍弱の分量)
- 〈第1部門 超越論的感性論〉
- 〈第2部門 超越論的論理学〉(第2部門は第1部門の約16倍の分量)
- 〈II 超越論的方法論〉
『カントの読み方』 中島義道 ASIN:4480064273
第1章 実体としての魂の批判
- Subjekt(主観)の3つの多義的意味
- S1. 文法的な主語 《論理的主観》
- S2. 基体=実体 (さまざまな述語をひと括りにする主語=最も基本的な要素) 〈超越論的統覚〉《実在的主観》
- S3. 意識作用の主体(主観) 〈超越論的主観〉〈実体的統覚〉〈あるもの etwas としか言いようのないもの〉
- 誤謬推理
- カントは、自我を特権的位置に置くことを批判。ただし「私」「自我」を否定したわけではない。
第2章 意識の単なる形式としての私
- 主観の機能
- 超越論的主観から超越論的統覚への転換
- 超越論的主観とは:意識の単なる形式である
- 意識の形式性
- 形式:経験を可能にする制約
- 「単なる形式」と言っても、内容空虚であるからこそ森羅万象を統一する能力を持つ
- 統覚:実体性や因果性あるいは単純性などのカテゴリーによって経験の対象を認識する、というポジティヴな能力をもったもの
- 経験を可能にする統覚 としての超越論的統覚
第3章 経験を可能にする私
超越論的観念論の基本構造
- 思惟する私は「実体」ではなく、内容空虚な「あるもの etwas 」。これがいかにして「経験を可能にする」という積極的作用を有する〈超越論的統覚〉になるのか。↓
- 外的対象・客観物とは何か。
- →超越論的対象:
外的対象も内的対象も同じく表象であり、推論によらず直接確実(←→経験的観念論)
経験的対象一般に実在性を与える。どのようにまとめてもよいがそうまとめることを可能にするあるもの。 - →超越論的対象は超越論的統覚とほとんど差異がない。が、「意識の作用こそ対象の統一を保証する」(:超越論哲学内部では論証されえない事柄)
:超越論的対象は超越論的統覚が無から創造するものではなく、まずもって対象になりうる何かが対象の側で成立しなければならない。
第一版と第二版での超越論的統覚の差異:権利上の(可能的な)作用
- →超越論的対象:
- 〈物自体〉
- 外的対象・客観物とは何か。
- 超越論的観念論を採用する理由
第4章 内的経験
- 外的経験と内的経験
眼前の対象を知覚するさいの把捉の主観的順序こそ、外的経験と内的経験の区別の起点をなす。 - 空間
- 経験を一般的に可能にする制約としての空間(形式としての空間)(空間とは意識作用)
- 空間的関係は外的関係であり時間的関係は内的関係
:時間:先後関係→状態変化(因果関係)- 時間における先後関係:ひとつの物の状態の変化が時間理解の基礎であって、世界が何の変化もしないならば、時間は成立しない。(因果関係の基礎でもある)
よって、*時間関係が内的関係である*とは、*原因と結果の関係が内的関係である*と言い換えてもよい。
こうした時間関係からその順序・先後というメルクマールを捨象し位置関係だけを抽象したもの、それが空間関係である。
- 時間における先後関係:ひとつの物の状態の変化が時間理解の基礎であって、世界が何の変化もしないならば、時間は成立しない。(因果関係の基礎でもある)
- 過去
- われわれはまず外的経験を諸物体の相互関係から直接に構成し、
- これによって客観的時間を構成し、
- こうした手続きを通して次に内的経験を間接的に構成する
第5章 他者
- 他者問題 人格の同一性
- 他者の同一性は確認できない →にもかかわらず心を実体とみなすことは、客観的同一性を主張することになるので誤謬
- 客観的時間と経験的時間
- 私の同一性は単なる意識状態の同一性であって、その背後に実体的な何か(魂、主観)の同一性を想定する必要はない
- 「私の身体」の同一性は、客観的に測定・確認可能 しかし「私の心」の同一性は、他者からは確認不可能
- 「私」とは、「論理的に常に同一性を保つ」もの、すなわち主観=基体=実体の同一性に基づく同一性の担い手ではなく、端的に意識される同一的なものを表す「名」にすぎない。
私の同一性は単なる意識状態の同一性なのであって、その背後に実体的な何か(魂、主観)の同一性を想定する必要はない。
- 空間:私の「ここ」からのパースペクティヴを可能にするような形式
- 時間:私の「いま」からのパースペクティヴを可能にするような形式
第6章 表象の手前 ――存在する私
- 「いま、ここ」に私が存在することは、私が現実的に存在するということ。
「私が・現実的に・存在している」ことは、超越論的観念論の「うち」では確固たる場所をもちえず、あらゆる表象の(彼方ではなく)手前にあって「そと」を指し示している。
『カント 世界の限界を経験することは可能か』 熊野純彦 ASIN:414009303X
- アンティノミー(二律背反):相反するふたつの命題が同時になりたってしまうこと
- 肯定的命題:テーゼ
- 否定的命題:アンティテーゼ
(→カントによる解決:アンティノミーはほんとうの「対立」になっていない)
- 四つのアンティノミー
- 第一アンティノミー
- テーゼ 世界は、時間的・空間的に有限である。←→ アンティテーゼ 世界は、時間的・空間的に無限である。
- 第二アンティノミー
- テーゼ 世界のすべては、単純な要素か、その複合からなる。←→ アンティテーゼ 世界には、単純な要素は存在しない。
- 第三アンティノミー
- テーゼ 世界には、自由による因果性が存在する。←→ アンティテーゼ 世界のすべては、自然必然的な法則によって生じる。
- 第四アンティノミー
- テーゼ 世界における因果系列には、必然的に存在するものがある。←→ アンティテーゼ 必然的に存在するものはなく、すべては偶然的である。
- 第一アンティノミー
- 世界とは、いっさいの現象の総括であり、諸現象の総合における絶対的総体性。
- 世界は経験を超えたもの・概念を超越した理念。経験がそのつどそれを超えて生起すべき限界:経験の「地平」。
世界という地平を欠いては経験そのことが不可能であるが、地平としての世界は、いっさいの可能な経験を超えている。経験は世界そのものを地平として前提している。
- 世界は経験を超えたもの・概念を超越した理念。経験がそのつどそれを超えて生起すべき限界:経験の「地平」。
- 空間と時間
- 空間と時間は、現象がそのうちで可能となる条件なのだから、現象のいっさいを欠いた空虚な空間そのもの・空虚な時間そのものの経験はありえない。
- 空間と時間は、経験から引き出された概念ではない。両者は個々の経験に先立ち、経験そのものと経験的に与えられる対象を経験可能とする。
- いっさいの対象はかならず空間と時間のなかで経験される。
- そのいみでは、空間と時間は、経験的には実在的なもの(経験される〈もの〉そのものに帰属するありよう)に他ならない。
- とはいえ、対象の時間的なありかたと空間的なかたちとは、超越論的な視点からすれば、たんに人間という立場からだけ語られることができる。そのかぎりでは、空間と時間は超越論的には観念的なもの(経験の外部に存在するはずの物自体には帰属しないもの)である。
:空間と時間の「経験的実在性」/「超越論的観念性」
『カントはこう考えた ――人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川文康 ASIN:4480842489
- 理性とは何か。
- 理性は英語で「理由」と同じ “reason”。語源のラテン語でも、理性の「理」は理由の「理」の意。
- 理由:物事の「根拠」、物事を「根拠づける」働き。「なぜならば」と答える能力であり、「なぜ?」と問う能力でもある。
- 理性は英語で「理由」と同じ “reason”。語源のラテン語でも、理性の「理」は理由の「理」の意。
- 理性の「なぜ?―なぜならば」の関係は、どこまでも無限に続き得る。
理由のそのまた理由…… 原因のそのまた原因…… という具合に。
最後には「極限」に至る。この極限は、経験的に与えられるものではなく、理性自身が生み出した概念。:「理念」(イデア)- 理性は、極限に迫らざるをえない。しかし理性は、徹底性という性ゆえに不合理におちいることもある。
- ライプニッツ
- 理由律:「理由のないものはない」
- 充足理由律(「十分な理由の法則」):「なにごとも十分な理由(根拠)なしにはない」
「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」という問いに答えうる十分な理由がなければならないということ
- 理由律(理由の法則)に対する問い
- 「原因」という概念をいくら分析しても「結果」という概念は出てこない。
- そのかぎりにおいて、因果法則は総合判断の一種である。因果法則は、アプリオリであって同時に総合的な形をとっている。
- 「なぜ「なぜ」なのか?」
- →われわれのこの思考枠が、われわれの感性の形式である時間・空間との関係において意味をなすから。
- 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
- 因果法則などは主観的なものである、としたヒュームですら、連続して起こる二つの出来事の時間的な前後関係は認めざるをえなかった。
因果法則を認めるにせよ認めないにせよ、時間というベースだけは前提されなければならない。
- 決定論と自由意志の両立
- 原因あるいは因果性の概念にも二種類ある
1. 自然の因果性
2. 自由による因果性 - 意志は自由という名の因果性によってはじめて自由だと言うことができる。
自由とは、このような「絶対的自発性」「究極原因」であるかぎり、一種の「極限」を意味する。
- 原因あるいは因果性の概念にも二種類ある
『カント「純粋理性批判」入門』 黒崎政男 ASIN:4062581922
- 対象に認識が従う → 認識に対象が従う
:素朴な実在観を覆す転回
- カントの基本的立場
- 主観が世界を成立させる。
- その世界は〈物自体〉の世界ではなくて、現象の世界である。
- 現象の認識は客観的だが、〈物自体〉についての認識は主観的なものにすぎない。
:主観が世界を成立させるゆえに、現象の認識は客観的である。(:伝統的観念論との違い)
- 〈現象〉とは:
- 〈物自体〉つまり対象そのものが、私たちの知覚や直観という認識能力によってとらえられた姿。〈物自体〉とは区別される。カテゴリーの統一によって対象と見なされる限り現象と呼ばれる。
この場合、悟性とは、与えられた直観を対象に関係づける働きであり、このことによって、物自体からも仮象からも区別された現象が初めて成立する。
- 〈物自体〉つまり対象そのものが、私たちの知覚や直観という認識能力によってとらえられた姿。〈物自体〉とは区別される。カテゴリーの統一によって対象と見なされる限り現象と呼ばれる。
- 客観:
- カントによれば客観は二つある;#1「現象としての客観」/ #2「〈物自体〉としての客観」
- 〈物自体〉:認識主観から独立した、それ固有の存在のあり方 ←→ 我々にとっての物・つまり認識可能な現象
- 「超越論的」:
- 対象に関する認識ではなく、むしろ我々が一般に対象を認識する仕方に関する認識
そもそも一般に、我々が対象を認識するとはどういうことなのか、それの根本的な条件や構造はどういったものなのか、という次元の議論のこと。(〈そもそも性〉)
- 対象に関する認識ではなく、むしろ我々が一般に対象を認識する仕方に関する認識
- 時間・空間論:
- 時間・空間は、ものそのものが成立するための条件ではなくて、ものについての人間の認識が成立するための条件。
時間・空間という枠を通さない世界は〈物自体〉であって、我々人間には知り得ないことである。我々人間が知り得るものは、時間と空間という枠内にある存在、つまり〈現象〉だけである。
- 時間・空間は、ものそのものが成立するための条件ではなくて、ものについての人間の認識が成立するための条件。
- 経験をそもそも可能にする主観的条件としての〈純粋悟性概念(カテゴリー)〉
- 世界が、人間とまったく関係ない〈物自体〉のことだったなら、確かにカテゴリーは世界の説明にアプリオリに妥当するものではないだろう。しかし、世界とは〈現象〉のことであり、この〈現象〉は、時間・空間という直観と、カテゴリーによって、そもそも初めて成立するものなのである。(だから、主観的原理が客観的妥当性を有すると言える。)
- カントの認識論が成立するための基本的な区別:
- 経験:認識の〈質料 Materie〉+ 質料に秩序を与える〈形式(形相) Form〉
:単なる「多様」である認識の材料(質料)に、主観の側の自発性の能力が形や脈絡を与える(形相)。
この〈結合〉の最高根拠になるのが、「超越論的統覚」。
「私は考える」という意識(「純粋統覚」)は、私のあらゆる表象に伴いうるのでなければならない。
:私に去来するあらゆることには、最終的には、「…と私は考える(I think that…)」が伴わざるをえないということ。
- 経験:認識の〈質料 Materie〉+ 質料に秩序を与える〈形式(形相) Form〉
- 一般論理学は、〈すでに成立している認識〉のかつ「単なる論理形式のみ」を問題とする。
これに対し超越論的論理学(=『純粋理性批判』)は、「対象についての我々の認識の根源」を問題とする。そもそも人間による客観的認識とはいかなるものでなければならないのか、そして、すべての真なる認識も偽なる認識をも可能にする条件を問題とした。
カントが確立した経験の地平は、真なる認識も偽なる認識も許容する、というかむしろそれらを初めて可能にする地平である。この地平の上でのみ、我々は初めて認識の客観的妥当性を主張しうる。