- 作者: 串田秀也,好井裕明
- 出版社/メーカー: 世界思想社
- 発売日: 2010/04/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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1.
エスノメソドロジーのわかりやすい入門書。
「エスノメソドロジー」とは、一見何を意味しているか把握しがたい名前だけど、社会学の研究分野のひとつ。
どういう研究なのかというと;
特にポイントだと思われる考え方は、「説明可能であること」「理解可能であること」「相互照応」など。このあたりの発想がとりわけ刺激的な部分だと思う。刺激的というのは、従来の社会学の考え方と比べて発想を大きく転換させている個所という意味で。
たとえば、エスノメソドロジーでは社会秩序というものについて次のように語られるが、
ここには以下のような発想の転換が見て取れる;
-
- 秩序は既にして人々のなかで活用可能なものとして成り立っているという見方
- 専門的概念ではなく常識的概念から社会を捉えようとすること
2.
具体的な研究のされ方のうちもっとも目立つものとして「会話分析」が挙げられる。「会話分析」だけ見てると何かミクロなものしか研究してないようにも思えてしまうけれど、その目標はあくまでも上記のように社会学の根本的な問いと同じところに向けられている。
3.
社会学の一分野ではあるんだけれども、他分野にも参考になりそうな部分があって。
自分としては、
• 心身問題(心の哲学)の整理 http://d.hatena.ne.jp/LJU/20140102#S3
• 物語論で扱われるトピックに対する別種のアプローチ http://d.hatena.ne.jp/LJU/20140102#S4
という観点で参考になる章があった。
I部 | 第1章〜第4章 | 人間社会の普遍的な4つの主題をエスノメソドロジーがどう研究するのかを概説。:「言葉」「道具」「子ども/大人」「女/男」 |
II部 | 第5章〜第9章 | 現代日本の社会制度をエスノメソドロジーがどう研究するのかを概説。:「メディア」「学校」「病院」「施設」「法律」 |
III部 | 第10章〜第13章 | エスノメソドロジーの学説的展開と社会学との関わりを概説 |
文献案内 | エスノメソドロジーの重要文献を概説 |
序 串田 秀也・好井 裕明
- エスノメソドロジーとは何か
- エスノメソドロジーの基本的な考え方
- わたしたちは生活のそれぞれの場面において、人々の活動の秩序だった特徴を当然のことと当てにして活動している。
- その特徴とは;場面における人々の役割に応じて「やらなければいけないこと」「やっていいこと」「やってはいけないこと」があるというようなこと。これらは誰でも見て理解できるし、人に説明することもできる。
- わたしたちは、これらの諸特徴が他の人々にも同じように見えていて同じ秩序立った意味を持っていることも、当然のことと当てにしている。
- こうした「当て」に反したことが起きた場合でも、
それが「当然のことに反する」という意味を持ったものとして見えるのは、場面の特徴を当てにしているからであるし、
また、そうした事態に対処したり推論したりするときにも、やはり場面の諸特徴を当てにしている。 - こうした諸特徴は、自分の意のままに変わることはないし私が立ち去ってもなくならないという意味で客観性を備えている。
- 実際的活動の秩序がつくり出される方法はそれぞれの場面ごとに特有だが、重要な共通性として、「互いを照応し合う性質」がある。
- 言葉を用いたやり取りでは、発言の理解と、それに応じた反応を照らし合うことがいつも利用されている。
- 書かれた文書でも同じ。(ex. 病院のカルテ)
- わたしたちは生活のそれぞれの場面において、人々の活動の秩序だった特徴を当然のことと当てにして活動している。
- エスノメソドロジーと伝統的社会学の根本的な違い
社会が秩序立っている仕組みを解き明かそうとする点ではエスノメソドロジーは伝統的社会学と同じだが、そのアプローチの仕方が異なる;- 実際的活動の秩序は、社会学者という専門家によって初めて見出されるような事柄ではない。
- むしろそれ以前に、当の人々自身にとって、場面の内側から理解でき・言及でき・当てにできるものとして存在している。そしてこの「理解でき・言及でき・当てにできる」ことは、そのつど、人々自身によって、実際的活動をおこなう方法を人々が用い続けることによって、その場その場でつくりあげられる。
- こうした秩序は、それぞれの場面を超えた一般的な要因(規則・社会構造・文化・性格、等々)に訴えることによっては説明できない。
- 研究対象を一般的要因に訴えて説明しようとはしないため、エスノメソドロジーとは何かということを一般的な形で説明することもとても難しいものとなる。
第1章 言葉を使うこと 串田 秀也・好井 裕明
- 〈コミュニケーション〉とは一般に、「心の内にある〈思い〉を言葉によって表現して伝えること」とイメージされている。
〈思い〉が伝わったとか伝わらなかったとかいう言い方が為されたり、あるいは他者の真の〈思い〉を知ることなんて不可能なのだ、などという主張があったり。
- しかしエスノメソドロジーはそのような考え方をしない。
言葉が機能するのは、言葉が話し手の思いを相手の心のなかに送り届けるからではなく、自分と相手の言葉やふるまい同士のあいだにつながりが見いだされるから。
それこそが、新生児が言語を習得するときのプロセスに他ならない。
コミュニケーションとは、「自分が言葉を用いておこなったことがそれに見合う反応を相手から引き出した/引き出さなかった」というような、目にみえる事実で成り立っている。
- エスノメソドロジーはこのように、わたしたちがどのようにして言葉を使っているのか、という点に着目して研究する。
- 言葉を使うときにわたしたちが用いている知識・能力は、具体的な社会的場面において、そのつど用いることのできる知識・能力。
[個人的に考えたことメモ]
-
- 「心」「自我」「感情」(「クオリア」も。) etc というような概念も、決して殊更に特別扱いすべき概念というわけではなく、他の概念と同じように言葉を用いたやり取りのなかで初めて意味を為すものだし、そうしたプロセスを経てそもそも意味を習得されてきた。こうしたことを踏まえて概念を整理し直すことが必要かも。これらはどのような概念なのか、ではなく、どのように用いられている概念なのか、というように。
-
- たとえば「痛み」について。『「痛み」は他者には決して伝わらない・体験することができない』などと言われたりするが、『「痛み」とはそもそも何なのか』という問いではなく、『こうしたやり取りにおいてこの概念がどのように使用されているのか』『この概念が他のどのような概念とどのような関係を持っているか』という考え方へのシフト。
-
- ……というようなことを考察しているのが、ウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジー。
なお、心の哲学との関係については、『クルターやハッカーはなぜ心の哲学者にスルーされがちなのか - Togetterまとめ』がおもしろい。
- ……というようなことを考察しているのが、ウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジー。
- ガーフィンケルはシュッツから多くを継承しているが、ガーフィンケルの〈行為〉および〈行為者〉という概念は、シュッツと架橋しがたい断絶を持つ。
- シュッツにおいて〈行為〉は〈意図〉を伴うものだが、ガーフィンケルは意図の重要性を否定し、それに代えて〈観察者〉による行動の翻訳や解釈を優先しているように見える。
- ガーフィンケルでは、行為者という概念は観察者の使う解釈規則を意味する。
また、この規則を探求するためには、行為を表現するための以下の概念群が必要とされる。- シンボル世界の住人
- 役割すなわち認知様式
- ノエマ-ノエーシス構造(意識の志向性)
- 知覚は単なる感覚刺激の集積ではなく、意味の内的地平と外的地平を伴って理念化されて現象してくる。(←マンフォード・クーンの援用)
ある対象を知覚するということは、世界との馴染み深さという期待のシステムの中にそれを位置付けるということ。(←バークの〈忠誠 pieties〉の概念の援用)
だから知覚とは、予期されたことが連続的に実現されることを意味する。 - 志向性(ノエマ-ノエーシス構造)とは、意識の流れの中で継起的に現れる対象を、馴染み深い世界の中に位置付け理念化することを通して、当該対象と他の対象が結びついて世界を構成し、その結果、期待された適切な関係がこれまで通り成立していると確信させる作業。つまり志向性とは意識の客観化機能を意味する。(=内集団の成員であれば誰にでも手に入る類型化の手続きを通した、間主観的に妥当する意味の獲得) (←フッサール、シュッツを経由・改読したガーフィンケル)
- 理解という現象はすべて間主観的な手続きを通して達成される。
- 知覚は単なる感覚刺激の集積ではなく、意味の内的地平と外的地平を伴って理念化されて現象してくる。(←マンフォード・クーンの援用)
第3章 子ども/大人であること 山田 富秋
- サックス
- 『子どもの物語の分析可能性について』 Harvey Sacks, On the Analyzability of Stories by Children, 1972
- 大人の注意を引き、その結果、一定の発言権を獲得することで、大人との会話が可能になるという解釈
- 『会話についての講義』 Harvey Sacks, Lectures on Conversation, 1992
- 子どもの「ままごと」:家族の各成員を演じることで〈成員カテゴリー化装置〉の使用規則を習得する場。
- 子どもの「空想遊び」:習慣化された社会的期待に頼らず即興的協同作業から生まれる。
子どもは空想遊びをうまく使いながら、現実の大人の命令や拒否に対して一定の対抗措置を発動している。
ゲーム一般のもっとも重要な特徴は「妥当/不当」という基準を持った活動であるということだが、子どもの空想遊びは、現実世界の行為についての判断基準を学ぶ環境となっている。
子どもの遊びは日常世界の現実の上に遊びの現実のレリヴァンスを重ね合わせ、両者を同時に操作するという複雑な子どもの現実管理の技法。
- 『子どもの物語の分析可能性について』 Harvey Sacks, On the Analyzability of Stories by Children, 1972
- スパイアー
- 子どもの「ごっこ遊び」を分析
- 子どもは大人たちの会話に割り込んでいくために特別な相互行為戦略を必要とする。
- 子どもの「ごっこ遊び」を分析
- エスノメソドロジーの子ども研究は、子どもたちが大人の支配的文化によって制約されていることを認めながらも、それに対抗する子どもの能力や戦略を明らかにしようとする。(「子どもとコンピタンス」学派)
- 心理学の実証主義的モデルの困難
- 人間を外界からの物理的刺激にただ対応する生体とだけ考えてしまうと、他者との相互行為での日常的経験が説明できなくなってしまう。(自分が相手を見る(能動)だけでなく相手からも見られる(受動)という日常的経験)
- わたしたちはアナウンサーとコメンテーターとの相互行為を通して、ニュースを「意味あるもの」として理解していく。
- エグリン, ヘスター
Peter Eglin, Stephen Hester, The Montreal Massacre: A Story of Membership Categorization Analysis, 2003- メディアは、犯罪や問題行動など反社会的・非社会的なできごとを報道し、そこに多様な解釈が可能な〈物語〉をつくりあげる。その〈物語〉はメディアが超越的につくるものではなく、メディアとわたしたちの協働として構築される。
- メディアによる〈物語〉構築の批判的検討
- ある〈物語〉が浮上し他の〈物語〉が隠蔽されていくありようの検討
- 複数の〈物語〉間の差異
- メディアがつくる〈物語〉がわたしたちに行使する権力
第2章 道具を使うこと 西阪 仰
- 道具は、特定の目的のために創造された人工物であり、その目的に適った形で規範的に構造化されている。(「規範的」:道具を実際に用いるとき、その構造にいつも必ず従うとはかぎらない)
- 身体は、志向の表現という点で規範的に構造化されている。
- 相互行為への参加は、参加者たちによる身体の志向がどう配分されるかによって組織される。
- 道具への志向、相手の身体への志向。
- そして、互いがどう志向を配分しているかそのこと自体に互いが志向できるよう、身体と道具が配列される。
- この状況は当人でなければわからないことではなく、誰にでも接近可能な「公的な状況」である。
〈相互行為空間〉(≈ゴッフマンの〈状況〉というターム)
[個人的に考えたことメモ]
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- 建物は道具と言えるのか。
あるいは建物の一部、たとえば「扉」とかはどう位置付けできるのか。部屋の扉をあえて開けたままにしてミーティングがおこなわれるようなとき、それは道具と同じようにコミュニケーションの一部として働いていると言えるか。
- 建物は道具と言えるのか。
- 〈成員カテゴリー化装置〉
- CMに登場する人物たちを「家族」と解釈するのは、わたしたちが目の前に現れる現実をまったくわけがわからないものとして放置せず、常に何らかの関係性やつながりを持った「意味あるもの」として瞬時のうちに解釈する、強力な現実認識の実践をおこなっているから。
*1:スタンフォード監獄実験を思い出した。