- 作者: 西阪仰
- 出版社/メーカー: 金子書房
- 発売日: 1997/04
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 8回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
エスノメソドロジーの本。
どういう本かって説明するの難しいんだけど、頻繁に登場する説明フレーズが考え方の特徴を代表しているかもしれない。
この本では異なる複数の事柄、すなわち「エスニシティ」「心」「見ること」「行為」といった一見脈絡ない概念が語られている。でもこれらには共通する説明のされ方があって、それは、
「〜といったことは、○○○自体の特徴ではなく、○○○という概念が実践として運用されている相互行為上の特徴なのだ」
……というようなフレーズ。
もう少し精確な言い方をすると、概念の意味はその概念自体にもともと備わっているようなものではなくて、その概念が日常の具体的な相互行為(コミュニケーション)のなかで用いられる運用のされ方で効果を為し、またその実践において参加者同士により協同的に「成し遂げられる」ものである、と。
「意味というものは文脈で定まる」という言語学的な考え方に似て見えるかもしれないけど、概念が社会的コミュニケーションのなかでどのように運用されているのか、という視点が大きく弁別的。マクロ・カテゴリーと通常考えられているような概念も、日常のコミュニケーション実践の方から捉え直してみよう、というところにも画期性があると思う。
内容
- 序章・1章は相互行為分析の理論的概要。
- 2章〜5章は個別テーマに即した分析。
とりあえず序章・1章・3章を読んだ。
序章 社会という領域
社会はどうやって成立しているのか。
社会秩序の成立を、それに先立つものとして外部に想定された個々人の志向や超越的な一般的規則・規範から説明するのはうまくいかない。
- 検証対象となる考え方:「社会の成立の最低限の必要条件は、互いの存在に気付き合っていること(【志向】)である」
- 社会の成立をこのように説明しようとすると、無限相互知識のパラドックス(ダブル・コンティンジェンシー)に陥ってしまう。
- 互いの存在を知り合っていることについての無限知識、互いが規則・規範を知っていることの無限知識が必要になってしまうという背理。
- このパラドックスは実際には解決して社会は動いている。が、ともかくこの事実は重要。
- 互いの存在を知り合っていることについての無限知識、互いが規則・規範を知っていることの無限知識が必要になってしまうという背理。
- クラークとマーシャルの解決の考え方
- エスノメソドロジーによる解決の考え方
- 社会成立の必要条件を「単独の主体による相手の存在への志向」に置くことがそもそも不条理。
- 「相手の存在への志向」は、相手が自分と同類の人間であるとわかっていることを含意する。このとき、「人間」なのか「犬」「兎」なのかの区別・意味付けは、個人が勝手におこなえるものではない。勝手にできるなら「意味付け」が意味を為さない。意味付けは「ただしく(適切に)」おこなわれなければならない。
- そして「ただしく」為されるためには、それは誤り得るものでなければならない。誤りなく常にただしいことしかないならばそれは「ただしい」ということの意味が為さないからである。
- 単独の主体は意味付けに対し誤ることができない。「ただしい」ことを吟味する独立の基準がないため。
- 単独の主体は意味ある何かを志向することなどできないのだから、単独の主体たちの志向が規範によって束ねられて社会が成立する、というように言うことはできない。
- 超越的なものとして外部にあるような規範を想定しても事態は変わらない。
- 規範の適用には、規範の適用のただしさを定義する規範が必要であり、その規範には……以下無限に同様。
- 人間たちが束ねられて社会が成立するのではなく、社会は人間たちの「あいだ」にある。「あいだ」に注目することが重要。
- 社会成立の必要条件を「単独の主体による相手の存在への志向」に置くことがそもそも不条理。
2節 物理的秩序と社会的秩序
「修正主義社会学」のやり方では、本来探求すべき実際の社会現象を取り逃してしまう。
- 伝統的社会学の考え方 (パーソンズの社会システム論)
- 社会を、「実在する社会の一定の側面を選択的に抽出した構成要素の集合としてのシステム」として捉える。
- 社会システムの相互行為は因果的な過程とは根本的に異なり、その構成要素は「期待」である。→期待に仲立ちされた関係は、相互依存関係となる。(ダブル・コンティンジェンシー)
- ダブル・コンティンジェンシーを、パーソンズは「内面化された規範」という説明で解決しようとした。;「規範があることを知っているだけでなく、それに従うことを内面から欲するようになるとき、相互行為が可能となる」
- 問題点
- 人々が秩序を欲するから秩序が成立する、というのは無内容な主張だ。
- 逸脱構造の説明がつかない。→社会的秩序と物理的秩序が異なる水準にあることにまつわる困難。(主観的観点を扱うことの問題)
- 特に重要なのは、認識論的前提の問題。
1章 相互行為分析という方法
【説明と記述の違い】
- 「説明」
- 社会秩序・相互行為の秩序を、それらを背後から支える隠れた条件・根拠・原因・一般的特性・本質……を想定しそれによって説明するやり方。
- 個別事例特有のものを捨象することは、相互行為を支えている当のものを捨て去ることになってしまう。本書ではこの方法は採用しない。
- 「記述」
- 社会秩序・相互行為の秩序が、相互行為の具体的進行のなかで、またその具体的進行を通して組織されていると見るやり方。
- 本書ではこの方法を採用する。→相互行為分析
【意図】
- 本人の「意図」は、社会学的記述にとって一切どうでもいい。
【局所】
- 相互行為の進行は、ふるまいが、さまざまな事柄をそのつど観察可能にする意味・理由説明によって次々と接合されていくところに成立する。
- 観察可能にするという操作は、それ自体相互行為内の具体的ふるまいによって担われている。と同時に、ふるまいは、この操作によって他のふるまいに接合されるときはじめて、その相互行為内のふるまいになる。
- つまり、操作的に閉じたシステムを成している。この操作が起こる場所を「局所」と呼ぶ。
【マクロ・レベルの社会】
- いわゆる社会のマクロ・レベルに関わる事柄も、それが有意味なかたちでリアリティを持ったものとなるのは、そのつどの局所的な組織化を通して、あるいはそのような組織化としてに他ならない。(マクロ・レベルは常に実践を通して参照される)
【相互行為分析の妥当性】
- 「隠された実験の意図」もリアルな事実であるが、それがリアルであるのは、相互行為の秩序とは別の秩序のなかの事実としてである。
- 社会秩序は、事実として何かが起きる/おこなわれるということ(実験の隠れた「意図」)と別の水準にある。
【規則・規範】
- 一般的な期待のことを、「規範」「規則」と呼ぶ。
- 規範・規則は、その一般的な性格ゆえに、当該相互行為を超え出ている。しかしだからといってそれは、外部の超越的な拘束・限定を意味しない。
- クリプキの場合、
- 規則:無限の事例を含む理想的なもの。だから、具体的ふるまいが規則に従って為されたという事実(:真理条件)は成立し得ない。しかし、規則に応じたふるまいが他者により阻止されないとき、その限りにおいて「ふるまいが規則に従って為された」という主張が正当化し得る(:主張可能性条件)。
- クリプキの主張は、規則が実際のふるまいに何の制限も加え得ないという点ではただしいが、規則が超越的・理想的なものだと見なしている点でまちがっている。
規則は実践を離れた超越的なものとして、行為と独立にどこか外部にあるわけではない。規則に従うこととは;規則を解釈することではなく、実践すること。
- われわれの規則の知識は、規則に従ってふるまうということの内にある知識であり、あるいはそのようにふるまう「能力」としての知識である。(「規則に従う」ということが、相互行為のなかで「用いられる」。)
- 規則(ルール)は、行為を拘束するものであるというよりも、状況を整序・組織するために用いられるひとつの資源。
- 規則は、一方で、実際の出来事や行為を経験するための準拠点、つまり経験に先立つものでありながら、他方で、さまざまな経験と複雑な連関のなかにあり、経験により支えられている。(cf. ヴィトゲンシュタイン)
【経験的研究】
- 社会秩序は、具体的な個別の現象の背後に抽象的な一般的構造としてあるのではない。むしろそれは、個々の事例の具体性のなかに発見されるべきものである。
それは、いかなる意味での一般化とも無縁。
3章 心の透明性と不透明性
心は、相互行為に先立って相互行為の外にあるのではなく、むしろ、相互行為のなかにある。
- 「他人の心はわからない」とよく言われるが、実際にはわたしたちは他人の心を難なくわかってしまえている。(サックス)
- 他人の心について述べるのは(言い当てるのは)、しばしばとても容易である。
- ある者が他人の心に言及するとき、それは相互行為のなかで一定の活動をすることに他ならない。
- 会話のなかである言明が為されるとき、それが為されるのはその言明が事実をただしく記述しているからではない。(サックス)
- 「XはYである」というかたちの期待に結びついた言明は、記述のただしさを超えた強力な規範性を持ち得る。
- 規範性を持つ範式に基づいて具体的な相互行為のなかで他人の心に関する言明が為されるとき、決して心のなかの特定の状態(の真贋)が指示され・記述される必要はない。
- 心に関する言明の成功にとって、その言明が実際の状態と対応しているかどうかは、根本的にどうでもいい。
- わたしたちが、痛がる他人を慰めたり身体上の処置を施すことをおこなうとき、他人が痛がることの背後にある「痛みそのもの」がどんなふうであるかなどは看過される。
- どのような表出的ふるまいにも現れないようなものは、そもそも相互行為上いかなる意味も持ち得ない。
- 「興味を持つ」「怒る」といった言明は、特定の内面的・感覚的状態のことではなく、しかるべき仕方で導入された期待のなかに位置付けられるものとして意味を持つ。
- 自分の痛みに対して「知る」「信じる」と表現することは適切ではない。むしろ、「知る」「信じる」ができるのは、他人の痛みである。
「〜を知っている」と言うことができるのは、その主張が間違っている可能性があるときのみであるからだ。
- 一人称での「痛い」という表明は、自分の状態の記述・報告であると同時に、端的に、痛がるというふるまいを構成する。
- 本人が痛がっていることから独立にその人の痛みに近付くことは、他人にはできない。
- わたしたちが自ら痛みを表明することは、他人がわたしの痛みについて報告したり知識を主張したりするための、ひとつの基準となる。
- 心は相互行為のあり方に応じてさまざまなかたち(表現・記述)を取り得る。
- 閉じた暗箱のような不透明な心も、そのひとつにすぎない。
- この不透明性は、心自体の特徴ではなく、相互行為上の特徴である。この場合において心は、特殊な相互行為の形式として不透明なものとなっている。