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 若林稔弥 “徒然チルドレン”






徒然チルドレン(1) (講談社コミックス)







WEB連載されてる4コマ恋愛コメディ漫画の単行本。4コマ×9個〜13個ぐらいでひとつのシリーズになってる。
ほとんどのシリーズは「恋愛関係の成立直前〜直後」ぐらいの段階を描いてる。
単行本では一部の絵柄が修正されている他、各シリーズの「その後」などを描いた追加収載がある。


この漫画の何が好きかというと、

  • 絵のスタイル。
    • 輪郭線がはっきりしてて黒白コントラストが強い漫画って、すごく好み。葦原大介に通じるものがあると思う。)
  • 表現。
    • 内面が表情と整合している。裏表がない。ほほえましい駆け引きとか本心を必死に隠すとかそういうのはあるんだけど、欺瞞がなくて直情的な。
  • 理解・共感できること。
    • うん、まあこれはだいたいの人がそう思うはずだ。相手の気持ちがわからない・知りたい、という状況下でこのように悶々とするのは、普遍的だと思う。
    • そして、そういう普遍性をきちんと漫画として表現できることこそ技量。
    • カウリスマキの『街のあかり』が、実はまったく同じようなことを描いてるんじゃないかなーと思ったりしている。あの映画を要約すると、「78分間目一杯続く淡泊な負荷状態の果てで ようやくわずかながらに表明される気持ち」みたいな感じなんだけど、その「わずかな、でも確実で決定的な接近」というのがまさに徒然チルドレンの4コマシリーズそれぞれで表現されてるような。


最初のシリーズである『告白』がもっとも素型的にできている。
他のシリーズはさまざまなバリエーションへ広がっていってる感じ。



いまのところいちばん好きなシリーズは、『告白』の続編であるところの『Re:』。(これはこの1巻にはまだ収録されていないけれど……)
メールによるやり取りを描いていて、非-対面的コミュニケーションとその背後にある内心との対比がとてもよく表されている。


身体的な反応についてもリアル。

  • メールを送り合っている裏で起こってる身体反応は、相手に対する「表出」ではないので、コミュニケーションではないよね?
  • だったら、人が見ていないところで現れているこういう身体反応は「内なる感情」「内面」そのものだ、と言えるだろうか。
  • さっきなにげなく「非-対面的コミュニケーションとその背後にある内心との対比」なんて書いたけど、なぜそんなふうに思えてしまうのだろう? 誰にも見られていない振る舞いだからそれは内面そのものに違いない、と思うから?
  • でも実はまったく誰にも見られていないわけではない。なぜなら読者であるわたしたちが見ているのだから。
  • そして、漫画上「内面」を表現する約束ごとに従って書かれている台詞はともかくとして、こういう振る舞いの描写を見てそれを「内心」の表れとして理解・記述できるのは、そもそも日常での相互行為の作法に基づいていることなのかもしれない。

あとこの台詞とかもすごいと思う。

  • 否定したのに、その直後にすぐ肯定。
  • 母親からしたらけっこう意味がわからないよね……?
  • 漫画を見ている読者は、ここに至る沙希の行動を見ているから、文脈はわかる。
    別のことに心が囚われてたので適当に返事してたのをすぐ自覚して修正した、というような。
  • でも母親だってまったく理解できないわけではなく、何かしらを理解するはず。なんか直前まで上の空だったっぽいな…ぐらいのことは把握できるかも。


振る舞いを見てそこに内面や意図を見出し意味あるものとして理解することができる、というのは、人々の日常的なコミュニケーション実践に不可欠な「能力」だ。
それは現実のコミュニケーション状況においてまずそうであるわけだけど、漫画という表現のうちに描かれたものを見る読者であっても同じことだろうか?

  • 相互行為分析(会話分析)の本には会話実例が載っていたりするけど、それは基本的に、実際におこなわれた会話に基づいている。
  • しかしそれがフィクション(ドラマ映像など)から採られたものではないということは、ほんとうのところ読者には判定できない。
    もちろん出典を見れば、実録によるものかどうかはすぐわかるけれども、キャプションなしの会話実例だけを見た場合、それが実録に基づくものかドラマに基づくものか、ただちには区別できないと思う。
      • BGMがふんだんに使われてるようなメジャーなテレビドラマ映像を見れば、すぐにそれがドラマであると感じるかもしれない。でもBGMを消去して見たとしたらどうか。その会話形式だけでドラマか現実かの区別は可能だろうか。
        いかにもドラマっぽい口調、現実の日常ではまず使わないであろう言い回しというものはたしかにある。けれどもそれが日常においてわざとドラマ的な言い回しを模したものではないと断言することはできない。(cf. フィクション論での、テキストそれ自体にはフィクション/非フィクションの区別は内在していない、という主張。)
  • もし仮に、研究者に対し実録映像であると偽ってドラマの1シーンを渡して会話分析をおこなってもらったならば、その分析はまったく空虚・無意味なものだろうか。
  • そんなことはないと思う。脚本によって構築されているフィクションの会話だって、それを意味あるものとして受け取るためには/成立させるためには、日常の相互行為と同じ方法が適用されなければならないような気がするので。*1
    それはそれで、実際のコミュニケーションがどのように為されているかをあきらかにする一環になり得るはず。
  • ただしそのためにはそのフィクション内での会話が相当に「良くできている」ものである必要はあると思う。
    その意味でいうと、『徒然チルドレン』というのはとても良くできている作品だ。(『ゆゆ式』なんかもそうだと思う。)(実写作品で言うなら、『恋の渦』とか。)







徒然チルドレン
 単行本1巻: ISBN:4063951685, [kindle版] ISBN:B00MGS8GL4
 ウェブサイト: http://tsuredurechildren.com/


*1:
・実際に今までフィクションを対象におこなわれた相互行為分析というものはあるのだろうか。
・フィクションそのものを扱ったものではないけれど、以下はそれに近いと思う。
  『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』 第4章での「テレビCM」。
  『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』 第6章での「即興劇」。
  『相互行為分析という視点』 第1章での、「隠れた実験」。






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“でも、これはごまかしよ、ね。つかまったと思ってるだけ。ほら。わたしがここに合わせると、あなたはもうループを背負ってない”
―Angela Mitchell