::: BUT IT'S A TRICK, SEE? YOU ONLY THINK IT'S GOT YOU. LOOK, NOW I FIT HERE AND YOU AREN'T CARRYING THE LOOP.

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 “ユリ熊嵐”










 良かった。
 まず、センスがすごく好き。
 とくにキャラクターデザイン、かなり好み。OP映像とか、クマ/半クマ形態とか。
 世界観とか演出のセンスについては、まさにイクニワールドって感じで。とりあえず内実はわかんなくても端的に心地良い。
 ……というか、作品内の諸々の設定や整合性をあまり気にする必要はない… っていうのはピングドラムのとき思った。
 見ているときには謎なところが多々あったりはするけど、最終的な物語としてはとてもわかりやすいと思う。つまり構造・心情推移・キャラクター関係といった点で理解しやすくて、王道といってもいいぐらい。テーマは明確だし、1クール作品として過不足なくできている。
 それは主に最終回のつくりかたがすごくよかったためでもあるけれど。
 最後に撃子とこのみをもってきたことですべてがきれいにまとまってる。
 〈排除〉が圧倒的なものとして継続していくなか、わずかではあるけれど〈スキ〉もつながっていく、というのが、もう……。
 これは作品メッセージとして非の打ち所がないと思っている。





(以下、考えたことのメモ。)



1. 〈クマ〉と〈ユリ〉

 この作品におけるふたつの重要な属性、〈クマ〉と〈ユリ〉。
 ふたつの言葉はどちらも、日常概念での意味と微妙にずれた使われ方がされている。それらの意味につながる表象自体は維持されたまま。

    • 「かわいいキャラクターとしての熊の表象」
       ⇒ しかし作品世界内では〈クマ〉に対して「かわいい」とは言及されず、あくまでも「危険な猛獣」としての側面のみが示されている。
    • 「キャラクター間の百合的な女性同性愛関係の描写」
       ⇒ しかし作品世界内における〈ユリ〉という語は、必ずしもそれと同じではなく別の意味かもしれないものとして用いられている。

 こうした描き方は、〈ユリ〉〈クマ〉という属性を〈女性〉〈男性〉とは一致しない別種の対として示すことに寄与していて、『ユリ熊嵐』という作品は、このような仮想的な性カテゴリーによって恋愛関係を描いている物語だ―― というように考えてみたい。



1.1. 〈クマ〉

 はじめに、〈クマ〉について。

 作中では「人を食べるクマ」と言い表されているのに、その表象はぬいぐるみのように人畜無害にしか見えない…… というのが、すぐ見て取れるギャップ。
 熊というものは日常概念としても、「人を襲う猛獣」という側面と「かわいいキャラクターとして流通する表象」という側面のふたつを持っている。ぬいぐるみ、キャラクターアニメやイラスト等々、かわいいものとしての熊はわたしたちの生活の至るところにあふれている。一方で、熊が人を襲うという事件はいまでもたまに実際に起き、報道で知ることがある。(=“熊は人を食べる”)
 危険なはずの対象が戯画化されかわいい対象として取り扱われるのは、熊に限らずライオンだとかトラだとか猛獣全般に見られることだけど、そのように戯画化された際には「人を襲う危険な存在」である側面は無視される。逆に、人を食う猛獣として熊が登場する漫画のように熊の危険な側面に焦点を当てたいときには、戯画的な表現ではなくリアリスティックな描写がおこなわれる。熊が日常概念として持っているこの両義的な意味は、ふつうは同時に表現されることはない。*1
 ところがこの作品での〈クマ〉は、戯画化された「かわいいキャラクター」という表象で描かれていながら、「危険な害」であることが強調されている。紅羽が屋上で〈クマ〉と対峙するとき、銃口を構え緊張に震えながらも、その対象は自分よりも小さいぬいぐるみ形状のもので、どうみても危険な絵面には見えないんだけど、作品内視点では恐ろしい敵と向かい合っている状況として成り立っている。
 そして、あきらかにかわいいキャラクターデザインで描かれているのに、そのことが作中でスルーされているということがさらに重要な特徴。作品内で人が〈クマ〉たちに対し「かわいい」と言ったりすることがない。あくまでも、ただ「人を食べる危険な敵」として扱われている。
 以上のように、一般的な戯画化事例とこの作品とはどちらも同じように「かわいい熊」という表象を取っているけれど、扱われ方にはっきりと違いがある。

    • 一般的戯画化での表象
       ⇒ 「危険な猛獣」としての側面には触れられずに「かわいい」対象として扱われる。
        :かわいいものがかわいいものとして語られている。一方で、本来伴うはずの「危険」な側面は伏せられている。
    • この作品での表象
       ⇒ 「かわいい」側面には言及されることなく、ただ「危険な猛獣」として扱われている。
        :かわいいものがかわいいものとして語られず、危険なものとして顕示される。

 アニメだからかわいく描かれているのは当然、という話ではなくて、
  ・あきらかにかわいく描かれてる  [表象]
  ・でもかわいさはスルーされてる  [作中での扱われ方]
  ・危険な獣として描写されている  [作中での扱われ方]
 という意味のずれがポイント。
 この三つをすべて押さえた他の事例というのはあまり思いつかない。比較対照としては、たとえばまどマギシャルロッテなんかが挙げられると思うけど、あれは「かわいさ」と「危険」のギャップが意図されているのであって、作中視点でそのかわいさが特に看過されているようには見えない。しかし〈クマ〉の場合は、かわいいかどうかではなく出会ったら即、「危険」なものとして認知されている。



 なぜこの作品の〈クマ〉は、作中ではかわいい存在だとは扱われていないのに、表象としてはかわいいキャラクターデザインにて描かれているのだろうか。
 似た例として思い浮かんだのは、デフォルメされた動物アニメでもなく、凄惨さを強調するためのギャップとして描かれたシャルロッテのようなキャラクターでもなく、もっと大きなカテゴリー、「アニメにおける〈女の子〉一般」の描かれ方だ。
 アニメでの女の子キャラクター一般には、作中で美人とかかわいいと評価されている人物かどうかにかかわらず一律にかわいく描かれるという作法がある。*2
 作品内で「かわいくない」と自認しているキャラクターも、作品外視点から見れば充分にかわいかったりするし、表現上大きな差をもって描かれたりはしない。*3
 こうしたことは、いわゆる萌え絵というアニメ消費のあり方につながる話ではあると思うけど、ここでは「〈女の子〉はなぜそのように描かれるのか」あるいは「〈クマ〉はなぜそのように描かれるのか」ということを突き詰めていきたいわけではなくて、「〈クマ〉と〈女の子〉は同じくそのような描かれ方をしている」ということの方に意味があると考えてみたい。アニメの女の子キャラクターに、作品内での扱われ方に関わらず表象のレベルで「かわいさ」が期待されるのと同じように、〈クマ〉たちもまた、作品内視点と一致しない「表象としてのかわいさ」を有する存在として扱われている、というように。
 重要なのは、「対置的」ということ。日常社会では女性に対置されるものはまずもって男性であるわけだけど、この作品世界では、女の子たちに対置されるものは男性ではなく〈クマ〉という属性なのだ、ということが示されていると見てみよう。男性ではないけれど、女性ではないというわけでもない、恋愛関係での対となる属性として。
 人化した〈クマ〉たちは性としてはあきらかに女の子として描かれているし、るるの国の王や弟のみるん、それからジャッジメンズといった男性の〈クマ〉もいる。だけどキャラクタライズされた熊形態は、男性とも女性とも言い難い。というのは、現実の男性あるいは女性というジェンダーが備えている概念連関は〈クマ〉とずれているからだ。たとえば男性の〈クマ〉たちはおしなべて女性の〈クマ〉と同様に「かわいい」。これは現実の男性カテゴリーに期待される概念の結びつきにはそぐわない。*4
 さらに言えば、〈クマ〉と対置されている方の側も実は現実世界の女性とは異なる属性であって、だからこそ〈女の子〉と区別して〈ユリ〉と表記されているとも考えられるのだけど、これについては、作品内で〈ユリ〉という言葉がどのようなものとして扱われているのかということから考えてみたい。



1.2. 〈ユリ〉

 では次に、〈ユリ〉について。

 作品を見る前、タイトルや基本情報を目にしたときには、〈ユリ〉=「百合」であることは疑い得ないように思うわけだけど、実際に物語を見始めていくと、作品内での〈ユリ〉という語は日常概念としての「百合」が持つ意味を必ずしも伴っていないのではないか?という疑問が湧いてくる。「ユリ裁判」だったり、人物のキャプションだったり、人に擬装するクマたちが称する名前だったり…… それらに日常概念に直結した意味をあてはめても、即座に明瞭な解釈にはつながらない感じがある。
 もちろんまったく「百合」の意味が無視されているわけでもなく、いわゆる「百合的関係」自体はあきらかに登場する。――というかそういう関係は作品内に満ちている。(幾原監督 『ユリというのは、皆が知っているいわゆる”百合”ですよ』 http://otajo.jp/42877
 だけど、最終的にこの言葉の意味が「百合」につながっているとしても、作品内で言及される〈ユリ〉という言葉そのものは必ずしもそうした関係を直截に指し示しているとは見えない。「ユリ承認」という重要なキーワードも、百合的関係の承認という意味で理解できる側面とそうでもなさそうな側面の両方があって、曖昧なまま横たわり続けていく。*5
 問題は〈ユリ〉という語が(百合的関係をまちがいなく想起させるにもかかわらず)百合的関係に一致するものとして扱われてはいない、ということ。作中での女性間恋愛関係はむしろ〈スキ〉というシンプルな言葉で言い表されていて、〈ユリ〉という言葉の方には直結していない。

 日常で使われる「百合」という言葉は、女性間の恋愛あるいはそうした指向を持つ属性を指し示すものとしてあるわけだけど、そこには暗黙の前提として、女性から見たときに「男性との恋愛」と「女性との恋愛」のふたつの論理的可能性があるということが必要とされる。(そうでなければそのうちの一方である「女性との恋愛」を「百合」として指し示せない。)
 ところがこの作品では、男性キャラクターがほぼ皆無、かろうじてジャッジメンズとみるんが出てくる程度。ユリーカが澪愛に〈スキ〉を奪われたと思ったのは紅羽が生まれたためであって、澪愛が誰か男性と恋愛関係を持ったためとはされていない。紅羽の父親という存在は描写を避けられている。――というより、父親は存在しないとしても成り立つように描かれている。
 このように男性キャラクターが存在せず、論理的に可能な恋愛対象として男性という選択肢が用意されているとは言えない状況では、女の子たちは〈女性〉という性カテゴリーで呼ぶのではなく別様に言い表すべきであり、そして〈ユリ〉こそはそのための言葉として用いられている、と考えることが可能ではないか。
 つまり、〈クマ〉と〈ユリ〉はともに性ジェンダーのカテゴリーだと整理することができる。
 このことは幾原監督の発言からも補強できるように思う。

この世界は基本的に百合とクマですからね。男性は出ない。
幾原邦彦監督「百合ジャンルで本当の事はまだ誰もやっていない」 ”マチ★アソビ”で語られた『ユリ熊嵐』のヒミツ http://otajo.jp/42877


 
 〈ユリ〉と〈クマ〉にそれぞれ日常概念と微妙に異なる扱いが施されていることは、日常概念での意味とまったく切り離されてはいないけれども何か違うカテゴリーのものとして示す効果につながっている。その結果、〈ユリ〉と〈クマ〉は〈女性〉と〈男性〉のアナロジーではなく、それらと対等だけど別種のものとして位置付けられることになる。〈ユリ〉-〈クマ〉の関係は、女性-男性 による恋愛でもなく 女性-女性 あるいは 男性-男性でもなく、百合のように見えるけれども同じではない、何かオルタナティヴな性による恋愛関係。
 こうしたいわば仮想のジェンダーによる恋愛物語は、現実のジェンダーに必然的に伴われてしまうさまざまな概念(先入観や規範といったもの)への想起をためらわせながら、「恋愛」や「好き」といったものをそれらから距離を開けて提示することを可能にする。
 そしてまた、作品内でこれらの仮想ジェンダー〈ユリ〉と〈クマ〉の間が複数に渡り横断されているということにも注意を払うべきだろう。〈クマ〉たちから〈ユリ〉へ。最後には〈ユリ〉から〈クマ〉へも。
 『ユリ熊嵐』はキャラクターたちの物語として見てもよくできているけれど、それは背後に控えるこうしたセッティングと描写の趣向によって精錬されている側面もあるように思う。









2. 補遺

  • 表象としての熊のあり方についてはたぶん意識的につくられていて、それは、るるの弟「みるん」の名が『くまのプーさん』の原作者ミルンから来ているだろうことにも表れている。『くまのプーさん』は言うまでもなく、テディ・ベアとともに熊の擬人化・戯画化を考えるにあたって欠かせない先駆的事例。
  • 「食べる/食べられる」というのを性的な寓意として捉えるのであれば、「かわいい」と「人を襲う」という両義的な意味は矛盾なく成立する、という考え方はあるかもしれない。ED曲の歌詞「わたしのなかの猛獣」「純真を噛み殺した」などといったフレーズは、クマ=愛欲の象徴、みたいなことを示しているようにも取れる。食べられたキャラクターはそのまま物語から退場するように描かれているけれど、これだって死を意味しているとはかぎらず、性的寓意による解釈からの説明がつけられないわけでもないし…。
    ――でもやっぱりそうではない気がする。なぜなら、第6話での針島薫と(おそらく)箱仲ユリーカでは、食う/食われる関係のないままの性的行為が描かれていて、性的関係と捕食/被食関係が別のものであることが示されているので。第9話での百合城銀子と(妄想上の)百合園蜜子もそうだし。それに、クマを性的寓意の担い手であると見ると、みるんという存在が説明しづらい。
    だから作中の「クマに食べられる」ということは、特にメタフォリックな意味は担っていなくて、そのままストレートに「食べられて死ぬ」ということを示すものとして受け取りたい。人を襲って、場合によっては食べて殺してしまう、というほどに危険で相容れない存在。ということを前提にした上で、それでもなお成立する交流。(“断絶の壁を越えて”)
  • なぜ女の子は「かわいい」という概念に結びついているのか、という問題。
  • 〈ユリ〉という概念も〈クマ〉という概念も、〈女の子〉という概念を参照した上で成立している。



3. その他

  • 明示されるキーワードとして「承認」「あきらめない」というものがあるけど、それぞれの否定を成す語、「承認されない」「わすれてしまう」というものがむしろテーマを形成していると思える。
  • 排除の儀 Let's search evil!
    音楽と映像がかっこいい。

*1: 
 動物園で実際の熊を見たときに、「かわいい」という感想は成り立ち得るかもしれない。けれどもキャラクター表現としては、このふたつの意味が同時に付与されることは少ないはず。

*2: 
 関連
  『アニメの女の子がかわいいなんて大嘘』 http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20150328/1427504534
  および、このエントリに対するはてブの諸コメント http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/KoshianX/20150328/1427504534

*3: 
 だからこそそうではない描き方、たとえばアニメ版『惡の華』での仲村佐和のようなキャラクターデザインは大きなインパクトを与えることになる。

*4: 
 なお、男性とはこうあるべきだ・女性とはこうあるべきだ、ということをここで言おうとしているわけではなく、日常で男性あるいは女性というカテゴリーに実際に期待されている概念の結びつきはそのようになっている、ということを示している。

*5: 
 「あなたの〈スキ〉はほんもの?」という質疑への応答としては理解できるんだけど、その結果、「人を食べてよい」ということにつながるのがよくわからない。食べられることが性的含意をもっているならばまだわかるんだけど、そうでもなく文字通り退場してしまうし…。






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―Angela Mitchell