- 作者: 勝山貴之
- 出版社/メーカー: 英宝社
- 発売日: 2014/11
- メディア: 単行本
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- 主題の前提となる社会状況の概説。歴史や文化のコンテクストを説明し、そこにどのような社会的・政治的問題があったのかを整理。
- その当時に製作された地図の具体例を示し、問題に対して果たした役割を解説。
- シェイクスピアの戯曲作品を採り上げ、問題がどのように描写されていたのかを解読。
文学批評にはこれまでいろいろな方法論が模索されてきたと思うけど、この本の場合、地図という媒介物を用いた切り口であることが明確な焦点となっていて、説得力ある。
シェイクスピア作品の読解であると同時に、地図もまた表現作品であるかのように批評対象として読み解かれていて、つまり文学批評の領野を拡張する試みだと言うこともできる。
地図
国土地理院や Ordnance Survey に製作された地図を見ていると、それらが政治・社会の偏向から逃れた客観的事物であるかのようにも思えたりする。
しかし、測量技術の未熟だった古代の地図であろうと、人工衛星をも駆使した現代の地図であろうと、地図が抽象化と縮尺を持ったものである以上、そこには情報の取捨選択がある。また、どの時代であっても地図の製作には巨大なコストと労力が必要となり、それはすなわち何らかの経済的・政治的な影響が製作過程に及ぶことを意味する。
地図は、それ自体は何も主張しない客観的な産物といったものではなく、歴史上、権力者の思想や政治状況を如実に反映したもの。
つまり地図を読み解くことは、その時代の社会を読み解くことでもある―― というのがこの書の主たる視点。
したがって、地図もまた、他の事象と同じく、それが生み出された歴史的文脈によって理解されるべきものである。地図が何を強調し、主張し、何を歪曲し、削除しようとしているのかを学ぶことが重要であり、何を喧伝し、その陰に何を隠蔽しようとしているかを知ることは、地図の解釈学における重要な要素なのである。まさしく地図は、その客観性・中立性という仮面の下に、それぞれの時代精神を鮮明に描写しているといえるであろう。(p8)
この本は、社会における「地図」の役割を、戯曲作品のなかでその社会がどのように描かれているのかと対応させながら記述している。
具体的対象としているのは16世紀から17世紀にかけてのイギリス社会、また、その時代に上演されたシェイクスピアの戯曲。
時代状況としては、中世〜近世。アイルランド・スコットランド支配を進めたエリザベス1世、その後を継ぎイングランド・スコットランドの王となったジェイムズ1世による治世期。両国を統合する「ブリテン」という概念が登場した時代。
技術段階としては、プトレマイオスの地理学がイスラム世界を経由してヨーロッパ世界へ復活、メルカトルによる世界地図として結実した状況(1569年)。土地測量士という職業が確立し、土地が不動産化、初期資本主義社会の萌芽となった時代。
この時代の地図が果たした役割として、以下が挙げられている。
内容
- 第1章 アイルランド地図の誕生と『ヘンリー六世・第二部』
- 第2章 イングランド地図の成立と歴史劇 ―『ウッドストック』、『リチャード二世』、『ヘンリー四世』二部作
- 状況
- 地図
- サクストンの地図(1579年):女王領の統括的な測量の一環。王権と国家の結びつきを強調し、女王による中央集権国家成立を視覚的に訴求。しかし同時に、地方豪族が自分たちの領土を再確認し経済的価値を把握することでアイデンティティを意識する契機ともなった。
- 劇作
- 『ウッドストック [作者不明]』(推定1591年〜1594年執筆):暴君に対する貴族や民衆の叛乱と国王の権威の失墜。地代や土地財産への課税をめぐる攻防、王国全土の地図により国土を分割する場面(中央集権国家の圧政を象徴)。王を「地主 landlord」と呼ぶ台詞。
- 『リチャード二世』:王国一時貸与の発案。君主の座を追われる王の悲哀。経済的破綻者の比喩。
- 『ヘンリー四世』二部作:地図を用いて国土分割を策謀する叛乱首謀者たちの場面。国土を分割する叛乱者 / 民衆の共感を集める家父長的中央集権体制の君主像(しかし実はその裏に狡猾な近代的君主像が隠蔽されている)
- 第5章 二つのロンドン地図と『コリオレイナス』
- 第6章 新大陸の植民地地図と『テンペスト』
- 状況
- 地図
- 劇作
その他メモ
ところで、現代における「地図」を例示させるならば、その究極と言えるものにもなりつつある Google Maps / Google Earth を外すわけにはいかない。
最小で数百mmという解像度から地球を包括する視点までスケールを自由に変更できて、抽象的地図と衛星画像を切替可能、さらに主要道路に沿った視点のシークェンシャルな撮影画像も表示できるという代物であり、建物の3D表現化によってどこまでも「現実世界」そのものに近付こうとし続けている地図。
そのように眼前のインターフェイスのなかで世界をことごとく再現できるようなものを、もはや従来の地図の定義に押し込めてよいものなのかどうか。
これこそは、真に客観的であり、思想性による表現の揺れを持たない、地図の終極と言えるだろうか?
けれども Google Maps あるいは Google Earth は、〈あらゆるものは検索可能となるべきであり、プライバシーによって不可触に留め置かれるのは望ましくない〉という Google の企業理念・思想がそのままに表現された地図だと捉えることもできる。ストリート・ビューがしばしばプライバシーをめぐる問題となるように、この理念は無色透明で何も軋轢を生まないようなものではない。また他方、何らかの国家が機密と定める対象(たとえば軍事施設)が注意深く隠匿されているように、どのような政治権力にも例外を認めないほど理念が通徹されているわけでもない。
「地球全土がこのなかで表示可能なのだ」という幻想が誇示されればされるほど、そこで何が隠されているのか、あるいは地図利用者をどのように誘導しようとしているのかが見えづらくなっていく。
そのような意味では、Google による究極的な地図と言えども、先に引用した「客観性・中立性という仮面の下に」「何を強調し、主張し、何を歪曲し、削除しようとしているのか」という古来よりの地図の特徴からまったく外れていない。
この書から学べるのは、地図は単に地理的情報を把握するための道具にとどまらず、複雑な社会性や政治性を充分に内包したものであって、だからこそ解読あるいは批評の対象となり得るということ。
そしてそうした視点は、高度技術で進化し続ける現在の最先端地図に対しても向けてみるべきことなのだろう。