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  “鈴木理策写真展 意識の流れ” 2015.07.18. - 2015.09.23.

  






鈴木理策写真展 意識の流れ
 Risaku Suzuki Stream of consciousness

 東京オペラシティ アートギャラリー




 何の気なしに行ってみた写真展だったんだけど、とても良かった。
 知覚とか、光とか。そういう系統。
 展示方法も非常に計算されている。
 特に “The Other Side of the Mirror” という映像作品が至高。


 場内は写真撮影可。
 Gallery 1 と Gallery 2 のふたつのゾーンで構成されている。





1. 観賞メモ



Gallery 1
海と山のあいだ / Between the Sea and the Mountain - Kumano





 このゾーンは部屋の照度が暗め。
 写真作品がスポットライトで照らされているが、光で強く浮かび上がるというほどではない。あくまでも暗いなかでの展示。
 写っている対象は必ずしも暗い情景というわけではない。むしろ明るい砂浜や海面だったりする。
 つまり、明るい情景を、暗く展示している。
 写真(被写体)の明度に対して、会場でもう一段階明度を調整することで作品が完成されている、と見ることもできる。



Gallery 2
水鏡 / Water Mirror
| White | SAKURA | Étude




 このゾーンはさらに4つのコーナーに分かれていて、どのコーナーもスカイライトなどからの自然光で明るく満たされている。
 いくつかテキストが添えられているんだけど、どれも思考を誘発された。



 水鏡 / Water Mirror




 床面に設置された映像作品 “The Other Side of the Mirror”、これはほんとうにすばらしいと思う。
 映されるのは、水面。最初は何か白い光の塊のようなものとしか見えないものが、次第に焦点が遷移することで浮葉植物の姿だとわかり、やがて完全にブラーが解けて、葉の表面を動く虫の様子などがわかるようになる。
 モニタ表面では終始、さざなみが揺れている。この質感がすごくて、上から覗き込んでいると、飛び込んでみたくなるほどに感じる。ただ水面や波紋を映しているだけでなく、焦点が変化するために生まれる効果。
 水面の他にも手持ちカメラの桜なども混ぜつつ、14分の映像。飽くことなくいつまでも見ていられる作品。




 White

 雪の写真とただ白いだけの印画紙が並べられていて、あたかも印画紙が雪の写真であるかのように見える。

白い印画紙、白い雪のイメージ。その境界線は私達の側にある。




 SAKURA

 これもテキストが良かった。

来年咲く桜を思い描く時、過去に出会った桜の記憶によるものなのに、
私にはそれが未だ見ぬものに思われる。




 Étude

 大部屋の中央にある4つの逆錐台に納められた展示と、この部屋に連なるコリドーの入り口に掲示された作品から成るコーナー。

人は写されたイメージに意味を見出そうとする。
だが意味が生まれる以前の状態で見ることを示したい。







2. 考えたこと  ― 意味と知覚について



 2.1.

 この展覧会のコンセプトは、上述の Étude のテキストが端的に示している。
 インタビューでは次のようにも語られている。

たとえば「海と山のあいだ」の新作の主題は、神話以前の風景を手に入れることにあります。「ここが記紀神話で登場する、あの場所ですよ」という後追いのイメージとしてではなく、かつてそこに神話的光景を見い出した太古の人間、その人が感じたものを写し撮りたい、という思いです。
インタビュー http://www.operacity.jp/ag/exh178/j/interview.php

 人間が何かを知覚するとき、それに先立つ意味を一切持たずに「無垢」なままでいるということはあり得ないと思うので、自分としてはこうした認識にそのまま同意はしないけど、言いたいことはわからなくはない。
 一方、図録で謳われている展覧会コンセプトを見ると、「あらゆる意味や前提情報をはぎとった状態での知覚」ということまでもが主張されているわけではなさそうで、「意味が生まれる以前の状態」というのが正確にはどのようなものなのかは掴みがたい。

情報の受け取りに終始するのではなく、本来的な「見る」という行為に身を委ねると、取り留めのない記憶やさまざまな意識が浮かんできて、やがてひとつのうねりにも似た感情に包まれることがある。見ることの豊かさとはここにあるのではないだろうか。今回の展覧会のタイトルを「意識の流れ」としたのは、こうした考えに基づいている。(p7)
意識の流れ 鈴木理策

 おそらく「単なる情報の受け取り」と「本来的な “見る” という行為」という区別が重要なのだろうけれど、そうであるにしても、意味が生まれる以前の「本来的な知覚」というものが果たしてほんとうに成立し得るものなのかは疑問が残る。


 「都市」と「自然」についてギデンズが書いていることを参照しつつ、もう少し踏み込んで考えてみたい。
 ギデンズは、われわれの現代社会では都市化された領域の方が一般のものとなっており、いわゆる「自然物」と見なされるような対象はそのようなものとして人為的に保持されているという意味でむしろ「人工物」と同等なのだ、ということを言っている*1。「神話が見出される前の光景」というものにも似たような構図を当てはめることができるように思う。つまり「意味がまだ与えられていない“手つかず”の状態」などというものがほんとうに成立することはないのだが、しかしそうした「意味以前」というひとつの理想状態はそれ自体ひとつの「意味」として機能する、というように。

 この展示でのさまざまな写真は、「意味以前のもの」という意図を付されて提示されてはいるけれど、でもだからといって鑑賞者がこれらの写真を見て「森」や「海」という一般名詞あるいは「熊野」や「紀伊」という固有名詞と完全に切り離されてこれらを知覚できるか、というとそんなことは無理で、作者のインタビューや展示ゾーンの名称を見た瞬間に既にそうした「意味」に捉えられてしまっている。「意味以前のもの」という展示コンセプトが既に意味を供給しているし、「美術展」という形態で作品が提示されていること自体、観賞にあたってのコンテクストを不可避に与えている。仮に作者の意図や展示名を見ることなく作品だけが目に触れたとしても、「森」や「海」あるいは「緑」「光」などという一般名詞に伴われるさまざまな概念の影響を受けずに観賞することはまったく不可能だ。(というより、そうした概念の影響下になければ作品を鑑賞するという行為がそもそも成立しない。)
 ……ではあるものの、現代社会において「自然」という概念が無内容になっているわけではないのと同様に、「意味以前のもの」を志向する希求がまったく空しいわけではないのもまた確かなことではあるだろう。
 この希求は、字義通りのものではなくむしろ別の機能を担っていると考えた方がよいように思う。
 あたかも「意味以前のもの」と受け取っているかのように振る舞う―― というようにコンセプトを咀嚼した場合、この希求はむしろフィクションの機能と同等のものと捉え直すことができる。先ほど引用した “SAKURA” のテキスト、「来年咲く桜を思い描く時、過去に出会った桜の記憶によるものなのに、私にはそれが未だ見ぬものに思われる」も、実は似たことを言っていると読めるのではないだろうか。過去の記憶を素材に未来の桜を思い描くこと。「思い描く」ということはまさにフィクションがおこなっていることであり、そしてまた「未来の桜」とは、たどりつけない理想形という意味で「意味以前・神話以前の風景」「ほんとうはどこにもない無垢な知覚」と置き換えることができる。このテキストは「未来の桜は過去の記憶を素材としてしか思い描けない」と読むべきだろう。このとき「過去の記憶」とは、わたしたちが知覚に際し不可欠に伴う「意味」「概念」に相当する。
 理想状態にたどりつくことは不可能だけど、それを思い描くことが無意味であるというわけではない。「意味以前の無垢な知覚」という物語を媒介にしてコミュニケーションが連なっていくことは、社会における営為として明確に機能しているはずだからだ。未来を思い描くことが無意味でないのと同様に。




 2.2.

 ……このコンセプトはけっこう扱いが難しいように思うのだけど、展覧会図録の寄稿でも、鈴木理策のこの主張に触れつつ、単純に肯定することはないまま自分の言葉で整理し直そうとしている、といったような態度のものが見られた。

私たちの眼が脳の延長である以上、見るということは対象を読み取り、意味づけることでしかない。要するに、私たちは脳の解釈を通過せずに世界を認識することはできないのだ。一体、ありのままの世界とはどのように存在するのだろうか。
[・・・]
果たして私たちは、人間の脳が作り出した価値の基準につき従うことのない、無垢の眼を持つことができるだろうか。鈴木の写真はそれを問いかけるものである。ありのままの世界の、その次元においてのみ――それが美であるかどうかわからないが――確かな何かが存在するはずだから。(p230)

視覚の鏡:鈴木理策の写真について 佐山由紀

鈴木理策 [・・・] 来場者には写真を見る経験に没入してほしいと思うので、できれば言葉による説明は最後の方まで示さずにおきたい。
倉石信乃:なるほど。でも言葉を示さないことも、「示さない」という否定的な言語の機能を持っていて、そういう面白さも面白くなさもあるわけだからね。(p126)
写真という経験のために 対談:倉石信乃×鈴木理策

広告写真こそが「広告にならない本当の熊野」として流通している世界において、さらに「本当の本当の熊野」を撮ったところで良く出来た嘘である。だから鈴木理策の「熊野」が、原理的に、そうした安易なアブソープションそのものを断念するのは当然であった。が、全面化した情報メディア社会の「外部」を素朴に信じ続ける(=熊野のドキュメンタリー写真家)ことはできない反面、それを全く捨ててしまう(=シニカルなポストモダン写真家)には、熊野は鈴木にとってあまりにも特別な対象であり、ここに逡巡が由来する。(p12)

我々は、鈴木理策の「外部」への固執を、写真の「一回性」への固執として理解することが出来る。神秘はすでに存在しない。だから安易なアブソープションを断念して、シャッターを切る。しかし、決して再帰しないその一回限りの光景を、写真は一回限り記録出来る。そこに絶対譲れない神秘があるのである。(p13)

断念と固執鈴木理策の写真 清水穣


 わたし自身としては、清水穣のこのテキスト、とくに引用部後段に感銘を受けたのだけど、たぶんこれは鈴木理策の考える「答」とは微妙に異なっているとも思う。鈴木理策のコンセプトを素直に受け取るならば、「意味以前の知覚」という問題の答は彼の写真作品こそが直截に示している、と導かれるだろうから。


鈴木理策:物質が優位とは思っていないけれども、壁に掛けられた写真プリントを見るのと、モニター上で写真を見ることは全く別の経験なのに、両者が混同されがちなことには違和感があります。 [・・・] 触れれば存在が確かめられる「もの」として写真を前にした時、人は自分が立っている場所やそこに流れる時間を知覚しながら写真を見る訳で、そういう経験を提示したいという思いはあります。(p124)
写真という経験のために 対談:倉石信乃×鈴木理策


 上記個所で語られているとおり、この展覧会では、照度や配置などといった展示空間が綿密に計算し構成されている。
 知覚を成立させる環境、鑑賞者に伴われる意味や概念を制御しようという行為。
 その結果、意図通りに「無垢な知覚」が成立できているかというとそうではない。(それは原理的に不可能だ。)
 しかしそのように到達不可能なものへ向かおうという労力そのものははっきりと伝わる。確たる意図もなくただ無造作に写真が並べられているだけの展覧会ではなく、展示空間やテキスト、さらに対談やインタビューも含めた総体として、全力でコンセプトが表現されている。
 コンセプトのテキストで斥けられているような「何が写っているかが判った途端、見ることを止められてしまうような写真」「単なる情報の入れ物としてとらえられてしまう写真」と一線を画すものになり得ているのは、まさにこうした総体としての努力が感じとれることにも因るだろう。そしてそれらすべてを、清水穣のことばで言うところの「一回性の神秘」に含めてよいと思う。
 わたしがこの展覧会に魅力を感じるのは、このように意味をはぎとろうとする試み自体が逆に強い意味を纏った行為として映った点にもある。





 

*1: ギデンズ “モダニティと自己アイデンティティ






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―Angela Mitchell